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未生獣 〜十八の冬を越えた魔法少女はいない〜  作者: 春凪一


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第二十八話 避雷針

 手の奥が満ちきるより先に、次の警報が鳴る。


 一月の終わりから襲撃は三日ごとに来るようになった。二月一日の朝に貼り替えられた順位表には、数字がひとつ増えている。


『襲撃間隔、三日』


 回復四日の一行は元日の紙から写したままだ。部屋の壁の予定表で日を追っていくと、満と書ける朝はひと月のどこにも出てこない。残量の欄の数字も、二月は75%がいちばん大きい。


 産院へは二月三日から二日おきに通っている。


 元日には『残量が33%を下回る日は、A級への補給を停止する』の一行が加わっている。二月は、これに当てはまる日が月の半分を超えた。


---


 二月五日、担架の布の上に石田リン(いしだ りん)の髪が広がっていた。


 耳の上の一束だった銀が房になって耳の下まで下りてきている。リンはそれを耳にかけて隠すこともせず、ほかの黒髪と一緒に垂らしていた。


 ワンピースの右の脇が裂け、その下の脇腹が手のひらほどの広さで透けている。


「ミナトさんのせいじゃないです」


 ミナトが担架の脇に膝をつくより先に、リンが言った。


 今朝の残量の欄は50%だった。33%を下回っていないから、今日はA級にも補給が回る。規定の内側の日だ。


「順番のせいでもないです。誰かが決めないと、順番はないから」


「そうか。ありがとな」


「だから、ミナトさんが決めてもいいと思います。たまには」


 リンは言い終えると担架の上で顔を壁のほうへ向けた。


 ミナトはリンの手を取り、もう片方の手を脇腹のガラスの縁に当てた。冷えきった指は握り返してこない。流しはじめるとすぐに縁が内側へ縮みだした。十秒ほどで肌の色が戻り、医官が計器から目を上げる。


「10%です」


 医官はノートに「三番、10%」と書き入れた。リンの包帯は左のすねと右の前腕の二つで済んだ。


 ミナトは書き終えたページを横からのぞいた。


 縦の線が二本になっている。処置の欄の隣にもう一本、まっすぐな線が引かれ、上の端に「産院」とだけ書いてある。その下には何も書かれていない。


「そこには、何を書くんだ?」


「書きません」


 医官はペンを胸ポケットに差した。


「書く欄があるだけで、私のノートは三年前と違うノートになりました」


 隊員たちが担架を持ち上げた。リンは壁のほうを向いて、さっきまで透けていた脇腹を手のひらで一度だけさすった。



 十一日の午後、扉の脇の隊員が札の番号を読むたびに、医官はノートの今朝の数字に目をやって首を横に振った。書いてある25%は夕方の産院へ持っていく分だ。担架はそのまま医療班のほうへ回されていく。そのうちのひとつが扉の前で止まって動かなくなった。


 担架の上の少女が右手で扉の枠を掴んでいる。


 左の前腕に指二本分の幅でガラスが透けている。十一月に四番から五番に落ちて、元日の貼り紙の前で「……私たちも、数に入ってないんだ」と言った少女だ。


 医官はノートから顔を上げた。


「規定通りです」


「分かってますけど、ひとつだけ。名前、言っていいですか。今月、五番のままなので」


 ミナトは扉の内側から一歩出た。


「言っていい。聞かせてくれ」


「松本(まつもと)です。松本ユカ。……五番でいいです、って前に言いました。訂正します」


 五番は枠から指を離した。隊員たちが担架を回して医療班へ続く通路を遠ざかっていく。左の前腕を担架の縁に載せて、五番は一度も振り返らなかった。


 ミナトは口の中でその名前を一度だけ呼んだ。


 医官はノートに「停止」と書いてペンを置き、しばらくその二文字を見下ろしていた。名前を書く欄はそのページのどこにもない。人差し指でノートの余白をゆっくりとなぞり、何も書かずにページを開いておく。


---


 産院の軒先から雪解けの水がひっきりなしに落ちていた。


 二月十三日、産院を出て車に戻っても早瀬(はやせ)はエンジンをかけなかった。ハンドルに両手を置いて、フロントガラスを伝う水の筋を見ている。


「上から、二つ目の案が来ています。今度は、妊婦を特区に移す案です」


 一月に長官の部屋で聞いた、ミナトを内地へ移す案の次だ。


「何のために?」


「避雷針です。あの子が敵を引き寄せるなら、特区の内側に置けば内地には来ない。特区はそのためにある場所です。少女たちもそのために特区にいます」


「ツムギを、囮にするのか?」


「そういう案です」


 早瀬は前を向いて続けた。


「長官が止めました」


「止めたって、長官が?」


「彼女は判定を受けていない。子の性別が記録の上で不明な妊婦を、特区に入れる規定はない。よって、案は成り立たない。長官は上にそう答えました。私もその場にいました」


 ミナトは窓の外に目をやった。通りに並んだ装甲車の屋根から溶けた雪がずるりと滑り落ちて、路肩の泥まじりの雪に穴をあける。


「規定で守ったのか」


「規定でしか守れない人なので」


 早瀬はキーを回した。エンジンがかかり、ワイパーが一度だけガラスの水を払う。車が通りへ出て境の門のほうへ曲がったところで、早瀬が付け足した。


「上は、判定を受けさせろ、と言いました。男と分かれば処置。女と分かれば内地に置く、と。長官は、判定は本人の権利であって義務ではない、と答えました。二十週を過ぎた妊婦に判定を勧める規定もない、と。長官は三十分、話しつづけました。上は二十分で帰りました。残りの十分は、空いた椅子に向かって話していました」


「三十分も?」


「三十分です。長官が上に三十分話すのを、私は初めて見ました」


 地下の資料室の封印を十五年更新してきた人が、今度は規定がないと三十分言いつづけた。


 境の門の前で車が止まると、早瀬はハンドルを握った指をほどいてもう一度握り直した。口もとがほんの少しだけゆるんでいる。


---


 二月二十日、人型の声は無線より少し先に監視窓の外から届いた。


『器』


 第二防衛線の壁の上に人と同じ大きさの影がひとつ立っていた。並んだ砲は砲身をそちらへ向けて黙っている。届かないことは、一月の終わりに分かっている。


『春に、来る。二つの器が揃う日に。産まれる瞬間が最後の機会。待ったのが間違いだった。僕たちは、もう待たない』


 医官のペンが止まった。


「二つの器、というのは」


「ツムギの子と、俺だ」


「分かっています」


 医官はノートを台に置き、無線の送話器を取った。


「長官。敵は内地の妊婦を認識しています。出産の日を決戦の日と定めています」


『聞こえています』


 すぐにユノの声が返ってきた。


『臨月は三月の半ばから。予定日は四月の半ば。産まれる瞬間が、あれが宿れる最後の機会です。その日に総力で来る。三十五年前の覚書にその予測があります。今日、実証されました』


『回収係、障壁に接近。計器、持っています』


 ミナトは監視窓に額がつくほど顔を寄せた。人型の足もとへ壁の内側の階段を小さな影が上がっていく。一段ずつ、急ぐ様子もない。


『障壁、通過。内側にいます。人型の足元です』


 チトセの声だ。回収室で名前を読み上げるときと同じ速さで話している。


 壁の上の影がチトセのほうへ首を傾けた。


『誰か、いる?』


『……いない。誰も、いない』


 一月の終わりと同じ問いに、同じ声が同じ答えを返した。


『計器、記録中。障壁の内側は外より冷たいです。人型の足に触れます』


 ミナトは窓枠に指を食いこませていた。


『触れました。氷より冷たいです。中から音がします。何千という泣き声です。全部、中に』


 壁の上の影がゆっくりと低くなった。


『人型、しゃがんだ。回収係の隣だ。顔を寄せている。見えていないはずだが、何かを探している』


 観測員は早口になっている。そのあとにまたチトセの声が続いた。


『人型が言いました。誰か、いるなら。僕たちの名前を』


『回収係、答えず。人型、地面に沈みました。障壁、消失。回収係、無事』


 壁の上にはもう誰も立っていない。階段の途中で小さな影がこちらへ向きを変えた。



「聞こえましたか?」


 第三防衛線の門まで出ると、計器を胸に抱えたチトセが先に言った。ガラスの蓋の内側が白く曇っている。障壁の中の冷たさをそのまま抱えて帰ってきたように見える。


「ああ、聞こえた」


「名前を、と言われました」


 チトセは曇った蓋に目を落として言った。


「私は答えませんでした。あの子たちの名前を、私は知らないので」


「ああ。知らないよな」


「四十人の名前なら言えます。あの子たちの名前は誰も知らない」


 後ろで足音がして医官がノートを抱えて門まで出てきた。チトセは計器を医官に手渡し、空いた両手の指を何度か握ったり開いたりする。指先が赤くなっている。


「中に何千といました。泣いていました。全部、中に」


 チトセはミナトのほうへ向き直った。


「沈む前に、人型が私の耳のすぐそばでもうひと言だけ言いました。無線には入っていません。核に、名前を、と。泣き声の詰まっている真ん中を、人型は核と呼びました」


 大攻勢の日、産院の小部屋でツムギがナギと呼んだとき、外の泣き声は四十秒黙った。


「名前なら、ある」


 チトセが顔を上げた。


「一人分だけ。ツムギがつけた。呼ぶと動く。呼ぶとあれが止まる。あの子たちにもあったはずだ。つけちゃいけなかった名前が。待合室の女の人が言ってた。決めてはあったのよ、って」


「誰にも言っていない名前が、ですか」


「この町にいくつあるか、分からないくらい」


 医官はノートを開いたものの、ペンを構えずに二人を見ている。


「それを核に」


「まだ半分だ」


 ミナトは門の外にある第二防衛線の壁のほうを見た。


「どうやって届けるのか分からない。誰が呼ぶのかも。でも、半分はこれだと思う」


「残りの半分は?」


「呼ぶ人が、呼べるかどうかだ。ずっと呼んじゃいけなかった人たちだから」


 チトセは小さくうなずいた。


「呼ばれた名前が届けば、泣き声が止まるはずです。あれに見えないのは私だけなので、核の中に入れると思います。その中で、私が耳を澄ませています。聞こえたら、聞こえたと言います」


 チトセは赤くなった指先に息を吹きかけると医療棟のほうへ歩いていった。


---


 二月二十四日、朝食の前に廊下のスピーカーが全員を食堂へ呼んだ。A級もB級も、上の階から下りてきた少女たちが卓のあいだに立って入口のほうを向いている。神楽坂ユノ(かぐらざか ゆの)は入口の脇の掲示板の前にいた。順位表の隣には二十年前の紙が端を波打たせて貼ってある。


 ミナトは奥の壁ぎわに立っていた。すぐ前にヒサメの銀の背中がある。


「四月の半ば。予定日は十五日。あれはその日に来ます」


 ユノは丸めた紙を手に持って、広げもせずに言った。


「産院は内地のままとします。特区には移しません。内地の守りは私が引き受けます。特区はあなたたちが守る。あれの総力を特区で受ける。避雷針として」


 卓のあいだからは、咳ひとつ聞こえてこない。


「回収係は核へ向かいます。障壁を通れるのは彼女だけです。私の命令に、はい、と答えました」


 少女たちがいっせいに食堂の隅を振り返った。


 チトセは壁ぎわに一人で立っている。並んだ子たちのあいだを抜けてきた少女がその隣で足を止めた。十一月、回収係の前線配置の紙が貼られた朝に、隣の卓で「砕けないんだって。……ずるい」とつぶやいた子だ。チトセは隣を見上げ、また入口のほうへ顔を戻した。


「アンカーは第三防衛線に配置します。あれの目標のうちのひとつはアンカーなので、彼が特区にいる限り、あれは特区に来る。……そして」


 ユノは手の中の紙に一度だけ目を落とした。


「レベル二の適用は決戦の日まで停止します。残量は決戦の日のために蓄えます。それまでの襲撃はレベル一で回す。A級への補給は全面停止。B級以下は変わらず対象外」


 立っている少女たちの列が端から少しずつ揺れた。


「これが今日からの順位です」


 ユノは順位表の隣に紙を広げ、四隅を画鋲で留めた。


『決戦、四月十五日』


 紙に書かれているのはその一行きりだ。


 並んで立つ少女たちの髪には、どれも銀が混じっている。半分が銀になった子がいて、房になった子がいる。全部が銀の頭は二つ。カグヤは腕を組んで紙の一行を睨んでいる。ミナトの耳の上の一束は十二月から増えも減りもしていない。今朝の残量の欄はゼロだった。


 リンが紙の前へ一歩出た。


「全面停止、ですか」


「全面停止です」


「……分かりました」


 リンは左のすねの包帯に目を落としてから右の前腕の包帯に指先で触れた。決戦の日まで、新しい傷は医療班で止めるしかなく、止めた跡はたいてい少し残る。包帯をひとつずつ数えた指を下ろし、誰にともなく一度うなずいた。


 ユノはリンにうなずき返し、廊下へ出ていった。


 ヒサメは入口の紙を見つめて、手袋の左手の指を一本ずつ折っている。


「五十日」


 ほとんど息だけの声で言った。


「あと五十日で四月十五日。その前に三月が来て、冬が終わる。そうすれば越したことになる」


 十八の冬を無事に越えた魔法少女を一人も見たことがない。十月にそう話していたヒサメが、大晦日の夜には扉越しに「十八の冬の、半分」と言った。


「越せそうか?」


「まだ分からない。あと五日なら、たぶん」


 ヒサメは折った指をゆっくり開いた。


「越したら、あなたに聞いてもらうわ。言う相手がいる冬は初めてよ」


 候補生の部屋で一緒だった五人は、去年の冬までにみな金属の箱に入った。冬を越したと告げたい相手は、ヒサメにはずっといなかった。


 言う相手なら、ミナトにもいた。九月の終わり、電池が切れる直前のスマホの通知欄には、母からの『今日は何時ごろ帰る?』が未読のまま残っていた。向こうにも、ミナトの返事を待っている人がいる。


「待ってる」


 ヒサメは小さくうなずき、手袋の左手を体の脇に下ろして配膳台のほうへ歩いていった。


 入口の掲示板には、順位表と二十年前の紙と四月十五日の紙が並んで残った。


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