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未生獣 〜十八の冬を越えた魔法少女はいない〜  作者: 春凪一


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第二十九話 二度目

 カグヤは黒い手袋の留め具に指をかけたが、外そうとはしなかった。


「今日、産院でしょ」


 処置室の丸椅子にはヒサメが先に腰を下ろしている。カグヤはその後ろの壁ぎわからミナトのほうへ顎を向けている。


「ああ、今日だ」


 二月二十五日の朝だった。産院へは二日おきに通っていて、今日がその日に当たる。三日ごとの刻みでいけば次の襲撃は明日だ。


「私たちは一分ずつでいい。25%を朝の補給で減らすことないわ」


 ヒサメが首をひねって後ろを見上げると、カグヤは黙ってその目を見返した。医官はペンを持つ手を止めている。


「規定は二分です」


「短くする分には、規定の内側でしょ」


 ヒサメは前に向き直った。少しのあいだ自分の膝を見ていたが、やがて小さくうなずいた。


「一分でいいわ」


 二人とも一分で手を離した。年が明けてからカグヤの三分とヒサメの二分が並んできた欄に、医官は「一分」を二つ書き入れる。



 朝食の椀に箸をつけて間もなく廊下のスピーカーが鳴った。最初の一語が流れたところで、向かいの席のヒサメと隣の卓のカグヤがほとんど同時に椅子を引いた。


『未生獣(アオロイ)警報、レベル四。第四区画から第六区画。全部隊出動』


 予定より一日早い。二人とも汁の残った椀を置いて、前後して食堂を出ていった。


 補給拠点の処置室で、医官はペンを構えて耳を澄ませている。


 壁の無線が中型の数を十二、十五、二十と読み上げていく。数がひとつ増えるたびにペン先がノートの上で小さく動く。


『氷堂(ひょうどう)隊、中型七体に囲まれた。一番、負傷。左脚』


 その声が切れないうちに別の持ち場の声が割りこんだ。


『火神院(かぐいん)隊、同じく。二番、負傷。右肩』


 医官はペンを置いた。


「悪い日です」


 ほどなく扉の外で担架の脚が床を打った。処置室のベッドはひとつしかない。先に運びこまれたヒサメがベッドに移され、あとから来たカグヤは担架ごと床に下ろされた。札を読み上げる扉の脇の隊員は、二人目のところで一度つっかえた。


 裂けたタイツの下で、ヒサメの左脚は膝から下が透けてガラスになりかけている。カグヤのほうは右肩から十一月に生えた腕の付け根を越えて二の腕までが透けていた。二人とも目を開けて、口を固く結んでいる。


「レベル二は停止中です」


 医官はどちらの顔も見ないで言った。


「決戦までレベル一のみ。長官の規定です」


「分かってる」


 ミナトはベッドの脇に立ってヒサメの手を取り、もう片方の手を膝の下のガラスに当てた。冷たい指の奥へ流しこみながら手のひらをすねに沿って下ろしていくと、ガラスもその先へ退いていく。足首の手前まで来たところで、引く速さががくんと落ちた。


「15%」


 医官が計器を読んだ。


 ミナトは床に膝をつき、今度はカグヤの右手を握ってもう片方の手を肩のガラスに当てた。こちらは汗ばむほど熱い。カグヤは当てられた手から目を逸らして天井を睨んでいる。肩を覆っていたガラスが腕の付け根を越えて二の腕へと下がっていく。その途中でカグヤが自分から指を抜いた。


「そこまででいいわ」


「8%です」


 医官は計器から目を上げずに言い、少しおいてから付け足した。


「残り、2%」


 手の奥を探っても、指先がかろうじて触れるくらいしか残っていない。


「戦える?」


 ミナトが聞くと、ヒサメはベッドの上で上体を起こして自分の脚を見下ろした。足首の内側に指一本ぶんの幅でガラスが残っている。


「戦えるわ」


 カグヤも床の担架の上で身を起こし、二の腕に残ったガラスをちらりと見た。


「戦えるわよ。あんた、産院でしょ、今日」


「ああ」


「2%で行くの?」


「行くよ。ツムギが待ってる」


 二人はそれきり口をきかずにベッドと担架からそれぞれ下りた。誰の肩も借りずに自分の足で扉へ向かう。ヒサメは左足をかばうようにして、少しだけ遅れて歩く。


 扉の手前でヒサメが振り返った。


「……早く戻って」


 カグヤのほうは振り返らない。廊下へ出たところで、壁ぎわに控えていた護衛の脇を抜けざまに声を張った。


「早瀬(はやせ)、飛ばしなさいよ」


 早瀬は返事のかわりにもう車の鍵を握っている。


---


 産院の階段は手すりを伝って一段ずつ上がった。


 ツムギはベッドに横になって片手を差し出している。


 九ヶ月に入ったお腹は座っているのもつらいほどにせり出している。三階の小部屋の窓は板で塞がれていて、その隙間から泣き声が細く入りこんでくる。


 ミナトは丸椅子に腰を落とし、差し出された手を両手で包んだ。


「おとといの夜から、ずっと痛くて」


「もう握ってる。少し楽になるはずだ」


 手の奥の2%はひと息のうちにツムギのほうへ移っていった。眉間から皺が消え、お腹に当てていた指がゆるむ。


 外の泣き声は減らない。小さいのが何体も板の表を這いまわり、爪で木目を引っかいている。何かを探す声だ。見つけられないのに板から離れようとしない。表の通りでは装甲車が撃ちつづけているが、三台では追いつかない数だ。


 手の奥が空になった。


 とたんにどの声も迷わずに、板一枚向こうのこの部屋へ向かって鳴きはじめた。引っかく音がいっせいに強まり、隙間の向こうを青白い頭がよぎる。


「ナギ」


 ツムギが呼んだ。今度ははじめから目を閉じている。


「大丈夫だからね。ナギ。お母さんだよ。大丈夫」


 板を引っかく音も泣き声も、ふっと途切れた。


 表の装甲車の銃声だけが部屋の中までやけに大きく響いてくる。戸口の早瀬が銃を構えて小声で数えはじめた。十、十五。ツムギは目を閉じて、お腹の上で指をそっと動かしている。隙間の向こうの青白い頭はさっきの場所から少しも動かない。


「二十秒」


 板の向こうで一体が泣きだすと、残りもすぐに声を揃えた。


 大攻勢の日は四十秒だった。途切れていた声がまた引っかきはじめ、板の真ん中に縦のひびが走って乾いた音とともに割れた。


 次にまた底から絞り出せば、回復は五日に延びます。年の暮れにユノはそう言っていた。


 ミナトは絞った。


 どこへ力をかければいいのか、体が覚えている。触れる前から胸の奥がすくむ。大攻勢の日に裂けた縁はしびれていて、引いても何も感じない。痛みは一拍遅れて前よりずっと下から突き上げてきた。息が止まり、目の前が白く飛ぶ。


 握り合った手の甲に糸一本ほどの光が浮き、ツムギの手首へ消えた。


 泣き声がまた探す声に戻った。


 割れ目から転がりこんできた一体が床の上で頭をあちこちへ振り向けている。早瀬が続けて撃ちこんでも、穴は泡立つように閉じていく。それでもその一体はベッドのほうへ一度も顔を向けなかった。


 ミナトは絞りつづけた。手の感覚が遠のいていき、ツムギの指の温かさだけが残っている。


 板の割れ目の向こうに赤い光がゆっくり降りてきた。


 カグヤの火の色とは違う。雪雲の垂れこめた昼の空に内地の隊が打ち上げた信号弾だ。駆けつけた隊員たちがその下で撃ちつづけ、雪の上の小さいのが次々に丸まっていく。床の一体も早瀬の弾を何発も受けるうちに部屋の隅で丸くなり、もう声を出さない。


 ミナトは絞るのをやめた。


 気づくと頬の下に誰かの膝があった。


 早瀬だった。ミナトの顔を見下ろして片手を伸ばし、汗で額に貼りついた前髪を指先で左右に分けている。


 指のあいだに残った真ん中のひと房が目の端に入った。銀だった。耳の上の一束に前髪の一束が加わって、これで二つだ。


「……二度目です」


 大攻勢の日に「髪が」とつぶやいたとき、早瀬の声は震えていた。今日は手帳を読み上げるときと変わらない声だ。


「慣れたのか?」


 ミナトが聞くと、早瀬は真顔で答えた。


「はい。二度目なので」


 ツムギはベッドの上でお腹に両手を当てている。手のひらの下でナギがはっきりと動いていた。首を傾けて、床に横たわったミナトの額のあたりを見る。


「二つ目ですね」


「ひとつ目のとき、ごめんなさいって言いました。だけど今日は言いません。ミナトさんが謝らないでって言うので」


「ああ。それでいい」


「代わりに、ナギに言います。二つ目だよ、って。覚えておいてもらいます。あの子が生まれたら、ミナトさんの髪のこと、私が教えます」


 廊下から助産師が入ってきた。床のミナトをひと目見るなり、何も言わずに引き返していく。戻ってきたときには毛布を一枚抱えている。


 ミナトの肩まで引き上げてから、助産師はようやく口を開いた。


「鉄剤、まだあるわよ」


「鉄じゃ戻らないんだ」


「知ってる。それでも出すのがうちの仕事なの」



 早瀬はエンジンをかける前に手帳を開き、ペンを走らせた。


「前髪の分は報告書に書きます。でないと、劣化の欄が合わないので」


 ミナトは後ろの座席に体を横たえていた。天井の布の継ぎ目がぼやけて二重に見える。


「合わないと困るのか?」


「困りません。合わないまま出せば、長官が読んで気づき、私を呼びます。聞かれたら私は本当のことを言います。正直に話すことがひとつ増えるだけです」


 早瀬はアクセルを踏んだ。


「今日は産院の階段を走りませんでしたね」


「2%で走ると、着く前になくなる」


「そうですか。走らないでください、と言わずに済んだのは初めてです。少し寂しいです」


---


 椅子に座っても指先の感覚が戻らない。夜の執務室で、神楽坂ユノ(かぐらざか ゆの)は早瀬の報告書の劣化の欄にもう一度目を戻してから、ようやく顔を上げた。


「二度目です」


 ユノは早瀬と同じことを言った。


「三度目はありません。医官の予測では回復は五日になります。三度目があれば六日か、それ以上」


 ミナトは黙ってユノを見返した。


「あなたは決戦の日に残らず注ぐつもりでいる。顔に書いてあります。満で臨むには、五日、誰にも使わない日が要る」


「産院はどうなる?」


「産院は毎日でいい。少量です。臨月には毎日握らなければ持たない」


 ユノは写しを机の端に置き、引き出しから書類を一枚取り出した。


「産院の三階の奥に部屋を用意しました。あの妊婦の部屋の隣です。あなたはそこで寝泊まりし、朝は早瀬の車で第三防衛線へ通う。夜は内地にいる。あれの目標があなたなら、夜のあなたが特区にいない方が特区の少女たちは眠れます」


「逆じゃないのか? 特区は避雷針なんだろ」


「昼は避雷針です。夜は寝る場所です」


 一月にもこの机で、内地へ移る話を聞いて断っている。ユノは書類を机の上で滑らせてよこした。


「上の案とは違います。上はあなたを内地に隠したがった。私はあなたを、あの妊婦の隣に置く。同じ場所で違う理由です。記録に残るのは場所だけです」


 書類の下の端には、もう長官印が押してある。朱の色がまだ乾ききっていない。


「氷堂は来られないのか?」


「標識を産院のそばに置き続けるわけにはいきません。氷堂も火神院も特区に残ります」


 ユノは書類から指を離した。


「三月、まる一ヶ月。彼女たちは朝の補給だけです」


 ユノは腰を上げた。


「四月十日から誰にも使わない。産院を除いて。それが決戦の日に満でいる唯一の計算です」


「計算が合わなかったら?」


「合わなければ、合わないまま戦うだけです。この国が四十年やってきたことです」


 言い終えると、ユノは机の角に片手をついた。立ったばかりの体の重みを少しだけその手に預けている。いつもならすぐに次の書類を引き寄せるのに、今夜はしばらくそうしていた。


---


 朝食の時間になっても、ヒサメは食堂の入口で掲示板を見上げていた。


 順位表の下の余白に一行が書き足されている。


『アンカー、内地滞在。朝の補給は第三防衛線にて。夜間の護衛は不要』


 その上に貼られた元日の紙の「回復四日」は四に二本線が引かれ、横に医官の字で五と書いてある。


 読み終えてもヒサメは食堂には入らず、向きを変えて階段を上がっていった。荷物をまとめなければならないミナトもそのあとから部屋へ上がった。


 扉の脇にはゆうべまでヒサメが座っていた椅子が畳んで立てかけてある。ヒサメはそれを見下ろしてから、ミナトの前髪へ目を上げた。


「……二つになった」


「二度目だ」


「三度目は?」


「ない、って長官が言ってた」


 ヒサメは椅子の背を掴んで持ち上げた。畳んだ形で廊下の端まで運び、突きあたりの窓の下に立てかける。金属の脚が壁に当たってこつんと短い音がした。


「夜は無線で護衛の報告をする。異常なし、と」


「異常なしなら報告は要らないだろ」


「要るのよ」


 ヒサメはミナトの脇をすり抜けて階段を下りていった。降り口の手すりを手袋の左手で一度だけ掴んで、すぐに離す。



 部屋に入るとミナトは床に鞄を広げた。着替えと洗面の道具を詰めてから、月ごとに貼り足してきた壁の予定表を剥がした。


 四つに畳んで鞄のいちばん上にのせ、窓の外へ目をやった。


 広場の真ん中でカグヤが火を出している。


 右手の先から炎が細く立ちのぼっている。耳の下で切りそろえた銀の髪が火の照り返しを受けて、一瞬だけ染めていたころと同じ紅に見えた。


 鞄を提げて広場へ下りていくと、カグヤは火を消した。こちらに背を向けて言う。


「行きなさいよ。内地に」


「ああ。行ってくる」


「夜、あんたのいない廊下で、氷堂と二人でいるのは少し嫌だけど。行かせない理由にはならないわ」


 カグヤは手袋の左手に目を落とした。


「一分で足りるって昨日の朝に言ったのは、氷堂じゃなくて私よ。覚えておいて。三月の間、あんたがいない廊下で私がそれを思い出せるように」


「覚えておく」


「減るわよ」


 十二月に神社の石段を下りながら、カグヤは同じことを言った。夜中に名前を言っていると減る、と。


「減っていい」


 カグヤはまた右手を上げた。さっきより低い火が、雪の溶けかけた地面の上で小さく揺れる。



 宿舎の玄関まで戻ると、チトセが掲示板の紙から顔を上げた。回収室から上がってきたところで、指先が鉛筆の粉で黒くなっている。


「内地の、どこですか」


「産院の三階の奥。ツムギの隣の部屋だ」


「では、朝、番号のない箱の前には」


 朝の補給のあとで回収室へ下りて番号のない箱の前にしばらく立つのが、このところのミナトの決まりだ。


「三月は立てないんだ」


 チトセは黒くなった指先を見下ろして少し考えた。


「私が立ちます。一人分ずつ、二回」


 チトセは掲示板のほうへ向き直り、貼り足された一行をもう一度読んだ。


 早瀬の車がエンジンをかけて宿舎の前に停まっている。


 後ろの座席に鞄を押しこんで助手席に座ると、早瀬が許可証を膝の上に広げて見せた。行き先の欄は今朝も空欄で、同乗者の欄に書き足した氷堂ヒサメの名には線が一本引かれている。期間の欄の「当面」も線で消され、その上に、ゆうべ書類の端で見たのと同じ朱の印が押してある。横に書き直された日付は四月十五日だった。


 早瀬はサイドブレーキを戻した。


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