第三十話 冬を越した
ツムギは二月の終わりから三階の病室で寝起きしている。家で暮らすにはお腹が大きくなりすぎていた。
ツムギの夫は港の仕事を終えると作業着のまま産院へ来る。
港からは急いでも三十分かかる。男は裏の戸から三階まで階段を上がり、潮と油のにおいをさせて病室の丸椅子に腰を下ろす。しばらく座って、たいていはほとんど口もきかずに帰っていく。
ミナトが産院の三階の奥へ移ってきた晩、男はツムギのお腹に手を当てていた。ミナトはベッドの反対側でツムギの手を握っている。やがて男は立ち上がり、椅子の背にかけていた上着を取った。袖に腕を通しかけたところで壁に目をやる。
「あんた、隣で寝てるのか」
「ああ。今夜から部屋を借りてる」
「そうか。壁一枚向こうに若い男がいるってのは、変な気分だな。四十年、なかったことだ」
「悪いな。落ち着かないだろ」
「悪くない。変なだけだ。じきに慣れる」
男は上着の前を合わせると、ツムギの肩に一度手を置いて帰っていった。
ミナトにあてがわれた部屋は居住区で使っていたものとほとんど同じ造りだった。六畳にベッドと机がひとつずつ。窓は外から板で塞いである。ミナトは鞄のいちばん上から畳んだ予定表を出し、枕もとの壁に留めた。その向こうにツムギのベッドがある。
十時ちょうどに机の上の無線が鳴った。
『護衛より報告。異常なし』
宿舎のヒサメからだ。ミナトは送信のボタンを押した。
「異常なし、了解」
無線はすぐに切れた。
翌朝からは壁を叩く音で目を覚ますようになった。ツムギの合図だ。隣の病室で十分ほど手を握ってから、早瀬の車で第三防衛線の補給拠点へ向かう。産院からは十五分の道のりだ。朝の補給を済ませても日中はそこに詰め、夕方に産院へ戻ってもう一度握る。寝る前にもう一度。
毎日握らなければ持たなくなるのは臨月に入ってから、というのが医官の見立てだった。実際には三週間早く、移ってきたその日から日に三度ずつ握っている。ナギは思っていたより多くを欲しがっている。
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三月一日の朝に隣の病室へ行くと、ツムギはベッドの背を起こして待っていた。ミナトが丸椅子に座って手を取る。指をからめたところでツムギが壁のほうへ目をやった。
「壁、薄いですね」
「そうだな。寝返りの音まで分かる」
「夜、ナギに話しかけてるの、聞こえてますよね」
「聞こえてるよ」
「やだ、恥ずかしい」
ツムギは空いているほうの手で頬を押さえた。
「毎晩あれだけ呼んでおいて、今さらだな」
ツムギが噴きだした。笑うとお腹が揺れる。
十分たって手を離すと、ミナトは上着をつかんで階段を下りた。裏の戸の外では早瀬が車のエンジンをかけて待っている。三月最初の朝はよく晴れて、通りに積もった雪が日の当たるところからゆるみはじめていた。
補給拠点の処置室へ、ヒサメは左足をかばわずにまっすぐ歩いてきた。
二月二十五日に足首に残った指一本ぶんのガラスは、医療班で進みを止めておいて二十七日の朝の一分でミナトが引いた。カグヤの二の腕のガラスも同じ朝に引いてある。どちらも白くは固まらなかった。
ヒサメは丸椅子に腰を下ろすと、手袋に指をかけるより先に口を開く。
「越したわ」
何を、とミナトは問い返さなかった。二月二十四日に決戦の日付が貼り出された食堂で、ヒサメは「越したら、あなたに聞いてもらうわ」と言っていた。
「十八の冬。昨日で二月が終わったの。越した魔法少女を初めて見たわ。私とカグヤで、二人」
「おめでとう、でいいのか? どんな気分だ」
「分からないわ。痛いのも、まだ痛いし。でも、三月になった」
ヒサメは手袋を外して左手を差し出した。握った指先はいつもと同じように冷たい。今朝のノートの欄には医官の字で40%とある。
「こっちを見て」
ヒサメが顔を上げた。
「越した顔よ。覚えておいて。あなたが帰ったあとで、私が思い出せるように。あなたが覚えていてくれたら、私も覚えていられる気がするの」
「帰るって決まったわけじゃないだろ」
「決まってなくても、覚えておいてほしいの」
ミナトはヒサメの顔を見た。九月の夜、凍った交差点で息の止まっていた顔。十月に廊下の椅子で怖いと言ったときの顔。それに大晦日の夜、扉越しに聞いた痛い声。思い出せるものを並べてみても、今日の顔がいちばん穏やかに見える。
「覚えたよ」
「そう」
「一分です」
医官の声に合わせてヒサメは指をほどいた。
左手を膝に戻し、しばらく手のひらを見下ろしている。やがて目を上げ、監視窓から差しこむ光の中で口の端を少しだけ持ち上げた。
ミナトにはそれが笑ったのだと分かるまでに少し間が要った。ここへ来てから五ヶ月、ヒサメの笑うところを一度も見ていない。目もとまでゆるんでいる。
握っていた形のままの右手を、ミナトは下ろし忘れていた。
ヒサメは手袋をはめ直して立ち上がり、戸口で入ってきたカグヤとすれちがった。ヒサメの顔を見るなりカグヤは足を止め、銀の背中が廊下の角に消えるまでその場から動かない。
やがて黙って丸椅子に座り、手袋を外した左手でミナトの手を掴んだ。目の下がうっすらと青い。
「ちょっと。あの子、笑ったの?」
「ああ、笑った。俺も初めて見た」
「四年ぶりよ。候補生の部屋に、まだ六人そろってたころ以来」
カグヤは監視窓の外へ目を向けて一分が過ぎるのを待った。医官の声で手を離し、黒い手袋を左手にはめ直す。留め具をかけながら、カグヤが続けた。
「冬を越したからでしょ。私は笑う気にならなかった。去年も一昨年も、越したって次の冬が来たもの。今年もそう。あの子は次の冬のことなんか考えてない顔をしてた。だから笑えたのよ。それでいいじゃない」
カグヤはミナトの返事を待たずに処置室を出ていった。
医官はノートからペン先を離さずに言った。
「依存の形が変わりました」
「形っていうのは?」
「前は空の日に眠れない、でした。今はあなたがいない夜に眠れない、です。減った量ではなく、いない時間に依存しています」
医官は書きかけていた依存の二文字に線を一本引いた。
「書き方を変えます。依存に代わるものが、まだ見つかりません。三年このノートをつけてきて、言葉を探すのは初めてです」
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その晩も壁の向こうからツムギの声が聞こえてきた。今朝あれほど恥ずかしがっていたのに、ナギに話しかけるのはやめていない。
十時に無線が鳴った。
『護衛より報告。異常なし』
「異常なし、了解」
これまでの三晩、無線はそこで切れていた。今夜は少しのあいだ雑音だけが続く。
『……そっちは、寒い?』
十一月に内地から戻ったときも、ヒサメは行き先には触れずに「外は寒かった?」とだけ聞いた。
「寒くない」
『そう』
次の晩も、その次の晩も、ヒサメは報告のあとで同じことを聞いた。ミナトは口を開く前に板で塞いだ窓の隙間へ手をかざして、夜気を確かめるようになった。寒くない、と答えるたびに『そう』と返ってくる。
三月三日の晩はいつもの返事のあとに間があった。
『……向こうで、あなたを待ってる人はいるの』
ヒサメの言う向こうは、ミナトが九月まで暮らしていた世界のことだ。
「……いる」
雑音がしばらく続き、小さく『そう』と聞こえて無線が切れた。ミナトは送信のボタンにかけた親指を、なかなかそこから離せずにいた。
三月四日の晩は、報告を終えたヒサメが寒いかどうかを聞くかわりに言った。
『椅子は片付けたわ』
「知ってる。廊下の端に立てかけるところを見てた」
『でも、あなたの部屋にいるの。扉を開けて、床で寝てる。規則でもなんでもないのは分かってるわ』
「床で? 冷えるだろ」
『空の日と同じよ。心配しないで』
「カグヤはどうしてる?」
『廊下の端にいるわ。私が部屋にいるのを知ってて、知らないふりをしてる。私も、あの子が端にいるのを知らないふり。あなたのいない部屋と廊下に、毎晩二人でいるのよ。馬鹿みたいでしょう』
「馬鹿みたいだな、二人とも」
『でしょう。冬を越したら、そういうことをするようになったの』
ミナトが何か返そうと息を吸ったときには、無線はもう切れていた。
翌朝の補給でヒサメは一分のあいだ目を閉じずにいた。計器の針にも握られた自分の手にも視線を向けず、ミナトの顔をまっすぐに見ている。覚えておいて、と言った側が今度は覚えようとしている。ミナトのほうが先に目を逸らしそうになった。
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三月の補給拠点は静かだった。
襲撃は三日おきに来る。それでもA級への補給は全面停止のままで、S級は朝に一分ずつ。運ばれてくる担架は処置室の前で止まらずに、医療班へ続く通路に回されていく。ミナトは戸口の脇に丸椅子を出し、そこに座って壁の無線を聞いていた。
六日の午後、医療班の入口で担架がつかえた。
通路に列ができ、隊員たちが担架を順に床へ置いていく。ミナトの膝の先に下ろされた一台の上で、石田リンが自分の左手を目の前にかざしていた。
手の甲に硬貨ほどの大きさでガラスが透けている。その縁が外側から白く濁りはじめていた。
リンは手をかざして濁りが内側へ寄っていくのを見つめている。ミナトも同じところから目を離せずにいた。両手は膝のあいだで組んだままだ。
白い濁りは硬貨の真ん中で閉じた。
リンは手を下ろし、担架の上で上体を起こした。左のすねと右の前腕に巻いた包帯に、白く固まった手の甲が加わる。
「三つでも歩けます」
膝の先のミナトに向かって、リンが言った。
「歩けるうちは三番です。四月十五日まで、あと四十日あります。今の調子なら五つか六つになります。それでも歩けます」
指も折らずに言い切った。
通路の先で前の一台が動きだした。リンは担いできた隊員たちに首を振って担架を下り、白くなった左手を右手で包んで、自分の足で医療班の入口へ歩いていった。空になった担架を隊員たちが持ち上げ、あとについていく。
処置室の中へ戻ると、医官のノートの「停止」と書いた行の下、欄の外の余白に小さな字が並んでいた。
『回収係、朝、二回』
「その書きこみは?」
「回収係です。毎朝、番号のない箱の前に立って、一度離れてまた立ちます。一人分ずつ、二回。私は医療棟を出る前に回収室の前を通るので」
医官はペンを止めた。
「書く欄がないので、余白に書きました」
ほかにも小さな字がページの端にいくつか入っている。
「余白が増えました」
「増えて困るものでもないだろ」
「はい。三年、余白は余白でした。今年は余白に字がある。ノートが終わったら、余白の分だけ次のノートを大きくします」
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十日の夕方、早瀬の車を降りたミナトは裏の戸の手前で足を止めた。
まだお腹の目立たない若い女の前で装甲車の隊員が両腕を広げている。女は半分開いた戸の奥だけを見ている。
「……ここに、あの人がいるって聞いて」
どこで知ったのかは言わなかった。女は戸の奥からミナトのほうへ目を移した。
「うちの子も、たぶんそうなんです。判定はまだですけど。一度だけでいいので、握ってもらえたら」
戸の奥でサンダルの音がした。出てきた助産師はミナトと女のあいだに体を入れるようにして立った。
「うちは取り上げるだけです」
決まりを読み上げるように一語ずつ区切った。
「取り上げる前のことは、判定を勧めるだけ。それ以上のことは、四十年していません。これからもしません。ごめんなさい」
女は助産師からミナトへ目を移し、最後にもう一度戸の奥を見た。深く頭を下げると、片手をお腹に当てて川沿いの道を帰っていった。
十二月の大攻勢の夜、庁舎の執務室でユノは「誰の胎児を生かすのか、という選別です」と言った。あなたがその身を削って守れる命など、所詮は数人にすぎない、とも。
入れてほしいと頼みに来たのはあの女が最初だ。誰とも争わずに引き下がった。わめかれたほうがミナトにはまだ楽だった。
「さっきの人、名前は聞いたのか?」
戸口へ戻りかけていた助産師が振り向かずに答えた。
「聞いてないわ」
助産師はサンダルの爪先に目を落とした。
「名前を聞けば覚えてしまって、取り上げるだけの仕事ができなくなるの。四十年、聞かないでやってきたわ。今日も聞かなかった。これまででいちばん聞きたい日だったけど」
十五日の朝に壁の合図で隣へ行くと、助産師が先に来ていた。
ベッドの脇にモニターを置いてツムギのお腹にゼリーを塗っている。ミナトがツムギの手を取ると、助産師はお腹に当てたプローブをゆっくり滑らせた。画面に白黒の影が浮かぶ。頭と、丸まった背中と、顔の前に寄せた小さな手。どれが何なのか、ミナトにもこのごろは見分けがつく。
「うちは取り上げるだけです」
助産師は画面から目を離さずに言った。
「取り上げる前のことは判定を勧めるだけ、って言ったわね。二十週を過ぎて勧める義務がなくなってからは、それもしてないの。取り上げるときのことはまだ誰にも話してない。四十年、男の子を取り上げたことがないから」
「それでも、取り上げてくれるんだよな」
助産師は手を止めてミナトを見た。
「取り上げます。赤ん坊は赤ん坊です。男でも女でも出てくるところは同じ」
助産師はプローブを離して台に戻した。
「ただ、男の子が生まれたら外のあの子たちがどうするのか、そこは私にも分からないの。お産はいつもそうなのよ。出てくるまでは何が起きてもおかしくないもの」
ゼリーを拭きとってもらったツムギが、手のひらでお腹を撫でている。
「ナギ。あと一ヶ月だよ」
お腹がゆっくりと動いて、その手を押し返した。
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十六日の夜、ミナトは壁の予定表のその日の欄に斜めの線を引いた。三月の紙の隣には四月の分を貼り足してある。まだ印のない升目を四月十五日の枠まで数えると、三十あった。
壁の向こうからツムギがナギを呼ぶ声がして、何度目かで寝る前の間延びした調子に変わっていく。
ミナトは九時五十分から無線を膝にのせて待っていた。
『護衛より報告。異常なし』
「異常なし、了解」
『……寒い?』
「寒くない」
『そう。こっちは少し寒いわ。三月なのに』
雑音をはさんでヒサメが続けた。
『越したって言ったでしょう。それで寒くなくなると思ってたの』
「越しても、まだ寒いのか」
『越しても寒いわ。あなたがいない部屋は。言わないつもりだったのに、言ってしまった。減るわね、これ』
「減っていい」
『そう。減っていいって、あなたが言ってくれるから言ったのよ。おやすみなさい』
無線はすぐには切れなかった。雑音の奥で息をしている気配がある。ミナトは送信のボタンを押した。
「おやすみ」
返事のかわりに、ぷつりと短い音がして回線が閉じた。
ツムギの寝息が聞こえはじめている。壁一枚向こうと車で十五分向こう、どちらも静かだ。
寒くない、とミナトはもう一度、誰にともなく言った。




