第三十一話 臨月(一)
三月二十一日の朝、早瀬は産院の裏の戸の前で車のボンネットに許可証を広げて行き先の欄に『庁舎』と書き入れた。
産院と第三防衛線を行き来するだけの日なら、早瀬はこの欄に何も書かない。ペンを胸ポケットに戻す手つきも今朝はいつもより少し丁寧だ。
「今日は書けます」
早瀬は許可証を畳んで内ポケットにしまった。
「呼んだのが長官ですので」
ミナトが入っていくと、ヒサメとカグヤはもう席に着いていた。庁舎の三階にある窓のない部屋で、長い机のこちら側に今日は椅子が四つ並んでいる。二人の前には紙が一枚ずつ置かれ、いちばん端では医官が膝の上にノートを開いている。
ミナトが空いていたひとつに腰を下ろすのを待って、神楽坂ユノが口を開いた。
「深層霊基結合」
ユノの手もとにも同じ紙が一枚伏せてある。
「国家最高機密です。三十五年前の覚書に理論だけがある。実例はありません。魂の直接の同期。身体の結びつきを伴う。効果は因果の書き換え。概念の切断。あれの核を武力ではなく別のもので包むには、これしかない、と覚書は言っています」
身体の結びつき、のところでカグヤがわずかに肩を揺らし、手袋をはめた左手を右手でそっと包んだ。ヒサメは背筋を伸ばして身じろぎもしない。
「覚書は、核を包むものをこう書いています。安寧の冷たさと体温の温もり。原初の羊水と光の揺りかご。書いた者が何を見てこう書いたのか、私には分かりません。包みきれば、裂け目は閉じます。あなたたちの受信機も一緒に閉じる」
冷たさ、と聞いたところでカグヤは隣のヒサメの手袋へ目をやった。本人は前を向いたきりだ。
「代価があります。少女の側には人間性の一部。何が失われるかは覚書にも書いていない。実例がないので書けなかったのでしょう」
ユノがミナトのほうを向いた。
「アンカーの側には、蓄えでは足りない。体質を削ります。二度絞った場所を、残らず。髪は全部銀になるでしょう。肌も目も色が薄くなる。戻りません」
ミナトは自分の髪より先に、産院の三階で日に三度握っているツムギの手を思った。
「それでも」
ミナトが言うと、ユノはまばたきをひとつした。
「それでも、と聞いています。記録してあります。机の下に」
「いつ削れる」
ミナトは机に手をついた。
「十五日より前に削れたら、産院で握れなくなる。それは困る」
「結びつきで開くのは経路だけです。レベル一も二も、触れているあいだしか開かない。三で開いた経路は離れたあとも閉じずに残ります。流すかどうかは今までどおりあなたが決める。決戦の日、手を握ってその経路へ流せば、そこで体質が削れて、髪も全部銀になります。それまでの産院は今までどおり握りなさい」
ミナトは長く息を吐き、机についていた手を膝へ戻した。
ユノは机の上で指を組み、ヒサメとカグヤのほうへ顔を向ける。
「私は命令しません。これは命令できないものです。選ぶなら自分で。選ばないならそれでいい。決戦はレベル二でも戦えます。勝てるかどうかは分かりません。レベル三でも分かりません」
天井の換気口が低くうなっている。ほかには何の音もしない。
「……はい」
ヒサメが言った。ユノは続きを待ったが、ヒサメはそれきり口を開かない。
カグヤは口を結んでいる。耳まで赤いのを、短く切りそろえた銀の髪では隠せない。
「ひとつ、聞いていい?」
ヒサメが自分の前の紙に指を置いた。
「二人同時、と覚書にあるの」
「あります。二人分の経路を同時に使う、と。一人では核を包みきれない、とも」
「同時なら、順番はないのね」
「順番はありません。同率でもなく、同時です」
ヒサメは手袋の左手を握り、ゆっくり開いた。
「順番のない補給なんて、私は受けたことがないわ」
「誰も受けたことがありません。実例がないので」
ユノは何も問い返さずに伏せた紙を取って立ち上がった。医官もノートを脇に抱えてあとに続く。ページには最後まで一字も書かれていない。扉が閉まり、部屋には三人が残った。
「身体の結びつき、って」
カグヤが小さな声で言った。
「言葉の通りよ」
ヒサメは紙を二つに折った。
「私もあなたも十八よ。長官の言った通り、選ぶなら自分で」
ヒサメは折った紙を机に置き、椅子を戻して出ていった。
靴音が廊下を遠ざかっても、カグヤは椅子から立とうとしない。机の木目を睨んでいる。
「ねえ、あんた」
ミナトのほうを見ずにカグヤが言った。
「何も聞かないで。赤くなるから」
「まだ何も聞いてないだろ」
「聞かれてもいないのに、もう赤くなってるの。たぶん、とっくに決めてるからよ。自分で認めてないだけ」
カグヤは椅子を引いて立ち上がった。
「認めたら、こっちから言うわ。だから聞かないで」
廊下へ出て何歩か進んだところで、前を行くカグヤが足を止めた。振り向かずに聞く。
「帰るの?」
「まだ決めてない」
「決めてないなら、私が決めてもいい?」
「何を決めるんだ?」
「あんたが帰ったあとに私が何をするか」
カグヤは手袋の左手を目の高さまで上げた。
「火は出せなくなるって、長官がさっき言ったでしょ。裂け目が閉じたら、受信機も閉じるって。だから火の出せない私が何をするか決めて、あんたが帰る前に教えてあげる」
「もう決まったのか?」
「まだ。三本の指先で何ができるか、数えてるところ」
カグヤは右手の親指で手袋の上から人差し指の先を押さえた。中指と薬指まで、白く固まった三本を順にたどっていく。最後の一本に親指を添えて、カグヤは階段のほうへ歩いていった。
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「核で、何を聞けばいいですか」
昼過ぎ、補給拠点の処置室に入ってくるなりチトセが聞いた。胸にはガラスの蓋のついた計器を抱えている。ミナトは戸口の脇の丸椅子から立ち上がった。
決戦の日、チトセは障壁を抜けて核まで行く。ほかに入れる者はいない。
「長官は観測だと言いました。でも、測るだけならこれができます」
チトセは計器の蓋を指先で軽く叩いた。
「名前を聞いてきてくれ」
ミナトは言った。
「聞こえたら、聞こえたと言ってくれ。無線で。名前が核まで届いてるかどうか、俺には外からじゃ分からないんだ」
「誰が呼ぶんですか」
「それがまだ分からないんだ」
ごまかしてもチトセには通じない。
「一人分はある。ツムギがナギを呼ぶ。でも、何千の中の一人分じゃ、二十秒がやっとだ」
チトセは計器のガラスに目を落としている。
「待合室の人が言ったんですよね。決めてはあった、って」
「ああ」
「その人たちが呼べば何千になりますか」
「なるかもしれない。けど、呼べるかどうかは別だ。つけちゃいけないって言われて、四十年黙ってきた人たちだから」
チトセはうなずいた。
「では、核の中で耳を澄ませます。聞こえたら、聞こえたと言います」
人型が沈んだ二月の日にも、チトセは第三防衛線の門の前で同じことを言った。今日は少し間を置いて、続きを付け足す。
「聞こえなかったら、聞こえなかったと言います。それも私の仕事なので。聞こえないことを聞こえたことにするのは、整理が合わないので」
チトセは計器を抱え直し、回収室のある医療棟のほうへ戻っていった。
警報は夕方近くに鳴り、一時間ほどで解けた。
しばらくして医療班へ続く通路から石田リンが歩いてきた。担架には乗っていない。包帯はすねと前腕と手の甲の三つのはずだった。
リンは戸口の脇まで来て、ミナトの隣の丸椅子に腰を下ろした。A級への補給は二月の終わりから止まっている。
「四つ目です。左の膝」
ミナトは膝の上で右手を浮かせかけ、またもとの場所に下ろした。
「ミナトさんのせいじゃないです。順番のせいでもないです。四月十五日のせいです。決戦のために止めてるんだから」
リンは膝の包帯を手のひらで撫でている。
「十五日が来たら、四つでも五つでも、全部そこで使います。それで終わるなら、かまいません。まだ続いたら、六つ目を数えます」
リンは丸椅子から立ち上がると、四つの包帯を巻いた体で背筋をまっすぐに伸ばした。
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その夜の無線は報告と寒いかどうかのやりとりが済んでも切れなかった。
『今日、レベル三の話を聞いたわね。私とカグヤと、あなたも』
「ああ。一緒に聞いた」
『選ぶなら自分で、って長官は言ったわ。考えてみたら、九月から私は自分で選んだものをひとつも持ってないの。袖を掴んだのも椅子に座ったのも床で寝たのも、自分で選んだつもりで選んでなかった気がする』
ミナトは板で塞いだ窓の前に立ち、無線を耳に寄せている。
「今度はどうする?」
『今度は自分で選ぶ。決めたら、無線じゃなくて顔を見て言うわ。四月十四日の夜に。それまでは、寒いかどうかだけ聞くことにする』
回線はそこで閉じた。
ミナトは壁の予定表で四月十四日の升目を指で押さえた。
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三月二十七日の夕方、補給拠点の裏に停めた車まで歩くあいだに早瀬が言った。
「妹が、絵馬を書きに行きたいと言っています」
「候補生は神社に行けるのか」
「行けます。居住区の中ですから。今まで行かなかっただけです。何を書くのか聞いたら、自分の名前だけ書く、と言いました」
「願いは書かないのか?」
「願いは書き方が分からない、と。ここでは、髪が銀になるのも普通のことです。当たり前のことに、願いは要りません。私が教えられることでもないので、教えませんでした」
道の両側に積もっていた雪はこの一週間でほとんど消えている。車の手前まで来たところで早瀬が足を止めて振り返った。話すときもたいてい前を向いている人が、ミナトの目を見ている。
「私も、書いていいでしょうか」
「絵馬のことか?」
「絵馬です。隊員は書きません。規定のないことは、私の欄の外なので。大攻勢の日に一度だけはみ出して、二度目はまだです」
「書けばいいさ。俺に断ることじゃない」
「では、二度目にします。何を書くかはまだ決めていません。名前だけでも絵馬になるのだと、妹に教わりました」
早瀬は前に向き直り、車の鍵を取り出した。
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三月二十九日の朝、ツムギはベッドに渡した食事台の上に白木の絵馬を置いた。ゆうべミナトが神社からもらってきた一枚だ。
ツムギはボールペンを握り直して木目に当てた。引っかかるたびに手を止めながら、一字ずつ書いていく。
ナギが、無事に生まれますように。
名前が一行目にある。十月の戌の日にツムギが掛けた一枚は、『無事に生まれますように』の一行きりだった。
「掛けてきてもらえますか。私は行けないので」
「名前、書いてよかったのか?」
「いいかどうかは知りません。でも、書きました」
廊下を通りかかった助産師が開いた戸口で足を止めた。
「名前を書いたの?」
「はい、書きました」
「……そう」
名前を聞かずに四十年やってきた人が、聞いてしまったときの声だった。助産師は戸枠に手をかけてしばらく絵馬の字を見ている。やがて何も言い足さずに廊下の奥へ歩いていった。サンダルの音がいつもよりゆっくり遠ざかっていく。
ツムギは絵馬をミナトに手渡し、空いた手でお腹を撫でた。
「母に電話したんです。名前のこと。母は何も言いませんでした。呼ぶなとも、呼べとも。電話の向こうで長いこと黙ってて、最後に、そう、とだけ」
「そう、の一言か」
「はい。でも、母のそう、は、私の頭を撫でるときと同じ声でした。たぶん、母にもあるんです。決めてあった名前が。言わなかっただけで」
ツムギはお腹を撫でる手を止めない。
その朝、ミナトは補給拠点へ向かう途中で神社に寄った。
境内の雪はもう日陰にしか残っていない。『女の子でありますように』の並びの端には、十二月にリンが掛けた『満の日に、大きいのが来てくれますように』がある。すぐ隣にはツムギの十月の一枚が下がっている。ミナトは二枚のあいだに紐を通して新しい絵馬を掛けた。日に焼けた古い絵馬のなかで白木はひときわ目立つ。
竹箒を手にしたチトセがいつのまにか絵馬掛けの前に来ていた。ツムギの字をゆっくり目で追っている。
「初めて見ました」
「何を?」
「絵馬に名前があるのを」
ミナトがここへ来て間もない十月に、チトセはこの絵馬掛けの前で名前の書かれた絵馬を一度も見たことがないと言っていた。
チトセはしばらく絵馬を見上げていたが、やがて箒を動かしはじめた。掃きながら言う。
「明日、石田さんが来ます。書き直しに来ると言っていました。中身は聞いていません」
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リンの絵馬に一行増えていた。
翌日の夕方、補給拠点からの帰りにミナトは早瀬の車を待たせて鳥居の脇の絵馬掛けに寄った。『満の日に、大きいのが来てくれますように』の下に名前が書き足してある。
石田リン。
願いの一行の下で名前の字だけが少し震えている。十二月、居住区の門の前で行き会ったリンは「名前は書きませんでした。書けなかったんです」と言った。
その隣の少し低いところに小さな絵馬がもう一枚下がっていた。背の届く高さを選んで掛けたように見える。願いの行はなく、名前だけが書いてある。
早瀬ミオ。
大きさのそろわない、十二歳の字だった。早瀬はこれまで何度も妹の話をしてきたが、名前を口にしたことは一度もない。
車へ戻ると、早瀬が運転席のドアを開けた。
「ミオっていうんだな」
早瀬はドアに手をかけて、しばらく黙っている。
「……はい。妹が、自分で書くと言いましたので」




