第三十二話 臨月(二)
四月一日の朝、一分の補給を終えたカグヤは手袋をはめた左手を耳の横へやった。
二月の初めに耳の下で切りそろえた髪が二ヶ月でもう襟にかかっている。毛先をつまんで目の前まで引き寄せ、根元のほうへ指をすべらせていく。紅く染めていた部分は切ったときに一本残らず落ちて、あとから伸びてきたのも銀ばかりだ。カグヤはしばらく眺めてから手を離し、黙って丸椅子を立った。
半分開いた扉の向こうで、先に一分を済ませたヒサメが待っていた。出てきたカグヤにヒサメのほうから声をかける。
「見たわね」
「見たわよ」
「どう思った?」
「同じ色だと思ったわ。三人で」
「三人で、ね」
二つの足音が並んで遠ざかっていく。
ミナトは前髪の真ん中に混じった銀の一束を指先でつまんでみた。
医官はノートに今朝の二人分を書き終えると、ペンの尻で紙の右上を軽く叩いた。
「今朝、順位表は貼り替えませんでした。かわりに、一枚目の右上に書き足しました。決戦、四月十五日。あと十四日」
「毎朝、数えていくのか?」
「明日から私が書き直します。十三、十二と」
医官はノートを脇に抱えて立ち上がった。
「食堂に入る前に、少女たちは残量の欄より先にそちらを見ていました」
四月十五日はツムギの予定日でもある。
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四月三日、内地の隊が産院のまわりに集められた。
朝の分を握り終えて階段を下りると、裏の戸の外は装甲車で塞がっていた。いつもの三台が六台に増え、川沿いの道には隊員が肩を並べて立っている。三十人はいそうだ。列の奥に閉じこめられた車の運転席から早瀬がミナトに向かって首を横に振った。長官の話が済むまでは動かせないという。
ミナトは三階の部屋へ引き返し、裏の川に面した窓の前に立って塞いだ板の隙間に目を寄せた。
川岸には指揮車が一台止まっていた。後ろの扉が開き、神楽坂ユノが降りてくる。チャコールグレーのスーツに総白髪。整列した隊員の前に立つと、ユノの声は板の隙間までまっすぐに届く。
「四月十五日、あれは総力で来ます。目標は二つ。特区のアンカーと、この産院の胎児。どちらも、あれが宿ろうとする器です。産まれ落ちる瞬間がこの産院の器に宿れる最後の機会です」
隊員たちは身じろぎもせずに聞いている。
「特区はS級とA級が守ります。内地はあなたたちが守ります。この産院は、私が守ります。十五日は私がここにいます。指揮車ごと」
「長官が、内地にですか?」
列の端で若い隊員が声を上げた。
「私がいます。十五日、朝から。この産院の妊婦は判定を受けていません。記録上は不明の妊婦で、守るのは内地の警備の仕事です。ほかに理由は要りません」
内地の警備の仕事だというなら、長官が自分で指揮車に詰める理由にはならない。ユノはそれ以上言わずに話を終えた。
ユノは川岸を横切り、裏の戸の中へ入っていった。
階段を上がってくる靴音が廊下を進み、隣の病室の戸が開いて閉まる。
ミナトは窓の前から動かずにいた。ツムギが夜ごとナギに話しかけるのまで聞こえてくる薄い壁なのに、ユノの低い声は言葉の形になる前にくぐもって消えていく。
十分ほどして靴音が階段を下りていった。
ほどなく川岸にユノの姿が現れた。指揮車の手前で足を止め、産院の三階を見上げる。板のどの隙間からミナトが見ているのか、知っているのかどうかは分からない。ユノはしばらくそこに立っていた。いつも固く結んでいる口もとを少しゆるめ、眉のあいだの力も抜いている。
ユノは前に向き直り、指揮車の扉の中へ消えた。
その晩、寝る前の分を握りに病室へ入るとツムギのほうから口を開いた。
「長官さん、十五日も来るんですね」
「ああ。指揮車ごとここに詰めるって、川岸で言ってた」
「お会いしたのは今日が初めてです。それまでは声だけでした。十月の、神社の無線の」
十月の戌の日に神社で早瀬が無線で報告を上げると、ユノの短い声が返ってきた。
「声、覚えてます、って言ったんです。そしたら」
ツムギはユノの口ぶりをまねかけて途中でやめた。
「『記録に残しなさい、全部、と言ったのは私です』って」
ミナトは丸椅子に腰を下ろし、ツムギの手を取った。
「そのあと、お腹を長いこと見てました。手を当てて、しばらく何も言いませんでした。やっと口を開いたと思ったら、名前は決めてあるの、って」
「なんて答えたんだ?」
「ナギです、って。そうしたら」
ツムギは空いているほうの手でお腹を撫でている。
「そう、って」
「長官も、そう、か」
「母のそう、と同じでした」
ミナトは握っていた手を持ち直した。
同じ返事ならミナトも待合室で聞いている。ツムギの隣に座った女は「そう」と返し、しばらくしてから「決めてはあったのよ」と打ち明けた。
長官にも決めてあった名前があるのかもしれない。
「ナギに何か言ってやってください、って頼んだんです。一言でいいので、って」
「長官はなんて?」
「『……十五日に。それまでは、言うことがありません』って」
ツムギは天井に目をやってからお腹を軽く叩いた。
「ナギ。長官さんが来るよ。怖い人だって、ミナトさんが言ってた」
「言ってないだろ」
「顔に書いてありました」
ツムギは肩を揺らして声を立てずに笑った。
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翌日の夕方、補給拠点からの帰り道で早瀬は神社の鳥居の脇に車を止めた。助手席の足もとには裏返しにした白木の絵馬が一枚置いてある。
「少しだけ、待っていてもらえますか」
早瀬はその絵馬を取り上げ、ミナトの返事を待たずにドアを開けた。灰色の制服の背中が絵馬掛けの前で止まる。
早瀬は手ぶらで戻ってきた。運転席に座ってキーを回し、車が居住区の外れを抜けたところでミナトのほうを見ずに言う。
「二度目です。欄の外に出たのは」
「何を書いたんだ?」
「名前を二つ。上に早瀬、その下にミオ」
早瀬はハンドルを握り直した。
「掛けてから、逆のほうがよかったかもしれないと思いました。でも、どちらが上でも二つ並べば絵馬になるのだと、妹に教わりました」
「願いも書いたのか?」
「空けてきました。書き方が分からないのは私も同じでした。二十五歳でも」
特区の門の明かりが近づいてくる。早瀬は内ポケットから許可証を出し、ハンドルの上で一度だけ指先で伸ばした。
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四月五日の朝、ツムギの夫は作業着を着ていなかった。
いつもは港の仕事を終えてから夜に来る男が、朝のうちから病室の丸椅子に座り、ツムギのお腹に大きな手を当てている。十五日まで港を休むのだという。
「港は休めるのか?」
「休めなくても休む」
男はお腹から手を離さずに答えた。
「四十年、港は休んだことがない。俺も二十年休んでない。十五日に港が止まったら止まったで、誰かが動かす。港の決まりだ」
男はひと息ついてからベッドの反対側のミナトへ顔を向けた。
「あんたの世界の港も、そうか」
「たぶんな。港には行ったことがないんだ」
「そうか。帰ったら行け。港は、いい。船が帰ってくるのが見える」
男は当たり前のように「帰ったら」と言ったが、帰るかどうかはミナト自身もまだ決めていない。
戸口でサンダルの音がして助産師がモニターを押して入ってきた。男が丸椅子を壁ぎわへ引き、ミナトはベッドの頭のほうへ回ってツムギの手を取り直す。助産師はツムギのお腹にプローブを当ててしばらく画面に見入っている。
「頭が下りてきてる。予定日ちょうどに来る子なんてめったにいないのに、この子は来るわ」
「そんなことまで分かるのか」
「四十年取り上げてれば分かるわ。来る子は画面の上でもう来る支度をしてるの」
助産師はプローブを台に戻すと、ツムギでも夫でもなくミナトのほうへ向き直った。
「あなた、十五日、ここにいないんでしょう」
「ああ。特区の壁の中にいる」
「そう。じゃあ、私が取り上げるのをあなたは見ないのね」
「見られないな」
「見なくていいわ。取り上げるのは私の仕事で握るのはあなたの仕事。同じ部屋にいる必要はない。……いてほしい気もするけど」
最後のひと言はモニターを押して戸口をくぐりながら背中越しに言った。サンダルの音が廊下を遠ざかっていく。
ツムギは握られた手に少し力をこめた。夫は丸椅子の上で腕を組んで、空になった戸口を見ている。
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四月八日、チトセは補給拠点の処置室の前の通路に担架を八台並べていた。
一台ずつ床に広げては留め具を締め直していく。たるんだ布を張り直し、柄を両手で握って体の重みをかけてきしまないかを確かめる。
「決戦の日の分です。八台、全部持っていきます」
八台目の前にしゃがみこんだチトセが言った。
「核へは持っていけません。障壁の内側で担架は要らないので。外に置いておきます。出てきたときに誰かを乗せて帰れるように」
「誰を乗せるんだ?」
「それは分かりません。でも、八台です」
チトセは最後の留め具を締め、床から顔を上げてミナトを見た。
「三月、番号のない箱の前に二回立ちました。一人分ずつ。四月、あなたが戻ってきたら、一回でいいですか」
ミナトが内地へ移ってから、チトセは毎朝その分まで箱の前に立っている。
「ああ、一回でいい。ありがとう」
「では、あなたが戻る日から一回にします。十五日の朝も、一回」
門のほうから石田リンが通路を歩いてきた。右の肩に三日前の襲撃で巻いた新しい包帯がのぞいている。
「五つです」
リンはミナトの前で足を止め、自分で数えて言った。
「十五日まで、あと七日です。増えてもひとつか二つ。六つになっても七つになっても歩けます」
「もし歩けなくなったら?」
「歩けなくなったら、回収係の担架です。八台あるって聞きました」
リンは通路に並んだ担架へ顎を向けて笑った。包帯の数を言うときはいつも生真面目に口を結んでいたのに。床のチトセがその顔を見つめ、また留め具に目を戻す。
「絵馬に名前を書いたんです。もう聞きましたか」
「見たよ。いい字だった」
「書いたら、少し軽くなりました。どこがとは言えません。五つの包帯は重いままです」
リンは医療班へ続く通路へ戻っていった。
四十四度目の警報はリンが戻って一時間もしないうちに鳴った。アンカーを使える最後の襲撃になる。無線が区画の名前を読み上げているあいだに、チトセは並べた担架を一台ずつ壁ぎわへ立てかけていく。
レベル三、第五区画。カグヤは右の腿を膝の上まで透かして運ばれてきた。ミナトはカグヤの手を取り、もう片方の手のひらを透けたところへ当てて、欄に残っていた20%を流しきった。ガラスは白く固まる前に退いた。カグヤは担架の上から自分の脚に当てられた手のひらをじっと見ている。
「残り、ゼロです」
医官の声を聞くと、カグヤは天井に目を向けて長く息を吐いた。
裏に回した車の脇で早瀬が手帳を閉じた。
「今夜は、産院には私が一人で戻ります。空の手で握っても、渡すものがありませんので。朝の十分で、明日の朝まではもつそうです。ツムギさんには私から伝えておきます」
「頼む。明日の朝は行くって、ツムギに伝えてくれ」
車の尾灯が門の向こうに消えるのを見送ってから、ミナトは宿舎への道を歩きだした。
玄関を入って階段を上がりかけると、踊り場の段に腰かけていたカグヤが顔を上げた。
膝の上に左手をのせている。手袋はしていない。人差し指から薬指までの三本の指先が裸電球の下で白く濁っている。
「今日は外しておくわ」
カグヤは自分の左手に目を落として言った。
「隠すものじゃないって、ようやく思えたから。半年かかったわ」
「そうか。よかった」
カグヤは段から立ち上がり、ミナトの脇をすり抜けて廊下へ出た。一度も振り返らずに歩いていき、自分の部屋の扉の前で足を止める。
「入りなさいよ」
扉を押し開け、カグヤは先に入っていった。机の上には黒い手袋が片方だけ裏返しに置いてある。
ミナトが入ると、カグヤは扉を閉めてそこに背中をつけた。
「命令じゃない。私が選んだ」
「本当に、いいのか」
「聞かないで」
カグヤは短く息を吸った。
「赤くなるから」
もう耳から首まで赤い。カグヤはそれを隠そうともせず、まっすぐミナトを見ている。
「十五日、私は核を焼く。長官は包めって言ったけど、私の火は焼くことしかできない。だから十五日は、できないことをするの。そのために今日がある」
カグヤは顎を上げた。
「あの子は十四日って決めてる。同じ夜に並ぶのは嫌。順位表の上だけで十分よ」
十四日という日をミナトはカグヤに話していない。
「もう決めたのか。俺が帰ったあとのこと」
「決めたわ。でも言うのは、あんたが帰る日。今日じゃない」
カグヤは扉に背中を預けて、後ろ手に鍵を回した。
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九日の朝、欄はゼロだった。
ミナトは胸の奥の二度絞った場所を探ってみた。大攻勢の日に裂けた縁にも、二月に裂けた先にも、新しい傷はない。銀は耳の上と前髪の二束きりだ。ゆうべ開いたのは経路だけで、そこを通っていったものはまだ何もない。
十日の朝、処置室の机に開いてある医官のノートには、ページのいちばん上に一行だけ書き写してある。
『本日より決戦まで、アンカーの使用を停止する。産院を除く』
今朝、宿舎の順位表に貼り足された一行だという。その下には残量の欄に医官の字で20%とあるきりで、ほかは空白だ。
ヒサメは丸椅子に座ると、医官が計器を用意するのを待たずに左手を差し出した。
「流さないで握るだけなら、減らないでしょう」
「ああ。流さなければ減らない」
「なら三分ちょうだい」
ミナトは冷たい指を握って、何も流さずに三分を過ごした。
カグヤは手袋を外した左手でいつもどおりにミナトの手を掴んだ。二分のあいだ、握り合ったところに目を落としている。耳の先だけが少し赤い。
「流れないのに、握るのか?」
手を離したところでミナトは聞いた。カグヤが手袋をはめながら答える。
「流れないから握るのよ。何か流れてたら、そっちが目的になるでしょ。流れない手なら、握ること自体が目的」
戸口で待っていたヒサメが小さくうなずいた。
「九月に、そう言えばよかった。七ヶ月かかったわ」
欄は十一日に40%、十二日に60%と書き換えられていった。十一日の四十五度目は、ミナトにとっては戸口の脇の丸椅子で無線を聞いて終わった。
十三日の朝、欄に80%と書きこんでから医官は言った。
「明日の朝、満に届く計算です」
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その夜、壁の向こうからツムギの声が聞こえてきた。
「ナギ。あと二日だよ」
返事のかわりに蹴られたのか、ツムギが小さく笑った。
十時になると、机の上の無線から雑音が流れた。
『護衛より報告。異常なし』
「異常なし、了解」
『……寒い?』
「寒くない」
『そう。明日、言うわ。十四日の夜に。無線じゃなくて』
「ああ。ちゃんと聞く」
『聞いたら、あなたも言って。帰るかどうかを。言えなかったら、それでもいいわ。私が勝手に帰るって決めて十五日に立つから』
言い終えるとヒサメのほうから無線を切った。
一分もしないうちに、無線がもう一度鳴った。
『……二番より。異常なし』
「異常なし、了解」
『それだけよ。氷堂が毎晩してるのを、端で聞いてたの。一回くらい、私もしていいと思って。寒いかどうかは聞かないわ。あの子と同じになるから』
「十四日のことも、そこで聞いたのか」
『……聞かないで』




