第三十三話 前夜
三日おきの刻みでいけば、四月十四日は警報の鳴る日にあたる。
早瀬の車が第三防衛線の補給拠点に着いても、壁の無線は区画の名前をひとつも読み上げなかった。監視窓の向こうには薄青い空が広がっている。第一防衛線のほうへ目を凝らしても煙の筋ひとつ見つからない。
処置室の机にはノートが二冊重ねて置いてある。下の一冊は医官がこの三年使いつづけてきたのと同じ型で、角が丸くすり切れている。上の一冊はそれよりひと回り大きく、表紙にはまだ折り目もついていない。
医官は下のノートを抜き出して開き、残量の欄に一字だけ書き入れた。
「五日で満ちました」
医官はペンを置いて続けた。
「産院の分は一日に1%ほど。五日で5%。それを差し引いて、満に届きました。昨日は、届く計算です、と言いました。今日は、届きました、と言います。三年で初めて計算どおりの字を書きました」
医官はノートを閉じ、その表紙をしばらく手のひらで押さえている。
「明日の分はこのノートには書きません。余白の分だけ大きいのを、昨日、用意しておきました」
医官は手のひらを上の一冊へ移し、まだ硬い表紙を指の腹で一度だけ叩いた。
朝の補給でもミナトは何も流さずに二人の手を握った。ヒサメは三分のあいだ握られた自分の指に目を落としていて、離れぎわに指先でミナトの袖口の縫い目を一度なぞっていった。カグヤは二分のあいだまっすぐミナトの目を見ている。耳の先も今朝は赤くない。
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夕方、ミナトは産院の三階の奥で予定表の十四日の升目に斜めの線を引いた。
三月と四月の紙を外すと、壁には画鋲の穴がいくつも残っている。一ヶ月半ここで寝起きしたが、荷物は来たときの鞄ひとつに収まる。畳んだ予定表を机の上の無線と一緒に鞄の口へ押しこんだ。
隣の病室の戸を開けると、ベッドの脇の丸椅子からツムギの夫が立ち上がった。男はミナトに椅子を譲り、黙って廊下へ出ていく。
ツムギはベッドの背を起こして座っていた。掛け布団の上からでも分かるほど大きく張りだしたお腹に両手を重ねてのせている。窓を塞いだ板の隙間から夕方の光が細く差しこみ、布団の上に縞を作っている。
「今日の分、握りに来た」
丸椅子に座ってツムギの手を取る。握ったそばから流れていくものがいつもより太い。満の日に握るのは一月以来になる。十分のあいだツムギは目を閉じて、お腹にのせたもう片方の手を動かさずにいた。
「いよいよ明日ですね」
ツムギは目を開けずに言った。
「ああ。助産師は朝だろうって言ってた」
「朝。ナギも朝が好きだと思います。いちばん動くので」
ツムギは目を開け、お腹の上の手で小さく円を描いた。
「行ってきてください、特区に。明日、会いましょう。ナギも待ってます」
「ああ。必ず」
ミナトが手をゆるめかけると、ツムギのほうから指に力をこめてきた。
「ミナトさん」
「どうした?」
「明日、全部使うんでしょう。早瀬さんから聞きました」
「ああ。全部使う」
「なら、今日はこれで十分です。もう1%も私のために使わないでください。明日のために」
ツムギは自分から指をほどき、その手でお腹を撫でた。
「ナギ。明日ね」
ツムギがふっと口もとをゆるめた。お腹の中でナギが動いたのだとミナトにはそれで分かった。もう握っていない手には何も伝わってこない。
病室を出ると、廊下の壁にもたれていた夫が背中を離した。四月五日に港を休みはじめてから今日で十日目になる。男は口を開かずに深く頭を下げ、その姿勢でしばらくじっとしている。ミナトも同じ深さまで頭を下げ、男が顔を上げるのを待ってから体を起こした。
階段の最後の段を下りたところで助産師が前に回りこんできた。
「取り上げるのは私の仕事。握るのはあなたの仕事。明日は、二つとも同じ日にあるのね」
「二つが重なる日は、初めてか?」
「初めてよ。あなたがいなくてもいいわ、仕事が違うんだから。気をつけて行ってらっしゃい」
助産師は裏の戸を押し開け、ミナトが外へ出るまで端を手で押さえていた。川のほうから吹いてくる風にはもう冬の冷たさが残っていない。装甲車の列の先で早瀬の車がエンジンをかけて待っている。
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居住区へ戻ると、食堂は卓の端まで埋まっていた。
A級の五人がいつもの卓に並び、その奥をB級の小隊が占めている。壁ぎわには候補生たちが列になって座り、チトセは回収係の隅の席にいる。入口の順位表の前で足を止める者は一人もいない。
献立はいつもと同じだ。椀を置く音と箸の触れ合う音が天井の低い食堂の中で細かく重なっている。ミナトが盆を持って向かいの席に着いても、ヒサメは目を上げずに飯を口へ運んでいた。
五つの包帯を巻いた石田リンが盆を持ってチトセの隣に腰を下ろした。話しかけるわけでもなく、ただそこに座る。少しして五番の松本ユカが反対側に来ると、チトセは左右の顔を順に見てから自分の椀に目を戻した。三人はそれきり口をきかずにそろって味噌汁をすすった。
候補生の列の中ほどで、早瀬とよく似た目もとの黒髪の子がミナトのほうへ顔を向け、隣の候補生の耳もとに口を寄せた。早瀬の妹のミオだとすぐに見当がつく。声までは届かないが、唇の動きは読めた。
同じ色になった人。
あの人も魔法少女なの、と十二月に妹に聞かれて、早瀬はそう答えたと話していた。
盆を返しに立ったカグヤがミナトの椅子の後ろで足を止めた。
「今夜は、廊下に出ないから」
背中越しに低い声で言う。
「端にも立たない。部屋で寝てる。……ってことにしときなさいよ」
ミナトが振り向いたときには、カグヤはもう盆を返す棚のほうへ歩いていた。向かいのヒサメは汁の椀を両手で持って、縁から目だけを上げた。
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夕飯のあと、ミナトは神社への坂を上がった。
食堂から先に出たチトセが鳥居の脇で竹箒を動かしていた。石段の上の境内から掃きはじめて、もう下の絵馬掛けの前まで下りてきている。
「最後の掃除です」
ミナトに気づくと、チトセは手を止めずに言った。
「明日は、掃けないので」
雪はもう日陰にも残っていない。乾いた石段の上を暮れかけた空の色が薄く覆っている。
絵馬掛けには名前の入った絵馬が五枚になっている。ナギ、石田リン、早瀬ミオ、早瀬と妹の名を並べた一枚。そこへ今日の日付の入った一枚が加わって、松本ユカと書いてある。
「終わったら、私が書きます」
チトセは最後のひと掃きで落ち葉を寄せた。
「四十人分です。一枚には入らないので、何枚も。明日の分も、もし増えたら」
「増えないようにする」
「はい。増えないように、私も行きます」
「四十人、全部覚えてるのか?」
「覚えています。字は、引き出しの紙片を見て書きます。ずっと写してきた字なので間違えません」
チトセは箒を物置にしまって戸を閉めると、絵馬掛けの柱の根元の乾いた土をしばらく見ていた。
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その夜、ミナトは庁舎の三階を訪ねた。廊下の灯りはもう落ちていて、神楽坂ユノの部屋にだけ明かりが残っている。
「明日、残らず注ぐ」
椅子には座らずに背もたれへ手をかけて、ミナトは言った。
「明日から補給源はいない。言いに来たのはそのことだ」
机の上には電灯がひとつ灯っているきりで、ユノの総白髪がその光を受けている。ユノは手もとの書類を開こうとせず、ミナトの顔に目を据えている。
「……記録します」
「ほかに言うことは?」
「ありません。今夜は」
机のペンにもユノは手を伸ばさない。
「明日、あなたは私に何か頼むつもりでいる。顔に書いてあります。七ヶ月、読んできた顔です。明日、聞きます。今夜は聞きません。あなたには別の用事がある」
ミナトが口を開くより先にユノは扉のほうへ手のひらを向けた。
「帰りなさい。廊下に椅子が戻っています」
ミナトは椅子の背から手を離し、扉の取っ手に指をかけた。そこで背中に声がかかった。
「ひとつだけ。あなたが九月に来た夜、私は、傷ひとつつけずに、と言いました。七ヶ月で、傷は三つになった。髪が二束と、胸の奥の、裂けた場所。三つとも、私がつけさせた傷です。それを、記録に残します。机の下ではなく、上に」
振り向くと、ユノは机の上で両手の指を組んでいる。
「上に出すのか?」
「出します。明日、出すべきものと一緒に。今夜はここまでです」
扉を閉める前に振り返ると、ユノはようやくペンを取っていた。
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宿舎の三階に上がると、ミナトの部屋の扉の脇に畳んだパイプ椅子が立てかけてあった。
廊下の突きあたりの窓の下まで目をやっても、今夜は誰の姿もない。
一ヶ月半ぶりの部屋は二月の終わりに出ていった朝と同じだった。ベッドの脇の床に毛布が一枚置いてあるところだけが違う。窓の外には第三防衛線の壁が黒く横たわり、その上に灯りが点々と並んでいる。
ミナトは鞄から無線を出して机に置いた。予定表も取り出しかけたが、壁に留める前に手を止めた。十五日の枠しか残っていない紙をもう一度貼る理由が見つからない。結局鞄に戻して机の引き出しを開けた。
塗りの剥げたハサミが奥に収まっている。候補生の部屋でヒサメたち六人が使い回していたもので、二月の初めにカグヤが髪を切るのに持っていき、あとで返しに来た。ミナトはそれを手のひらにのせ、地の金属がのぞいている持ち手を親指でなぞってから元の場所へ戻した。
十時を回っても、机の上の無線は鳴らない。
ミナトはベッドの縁に腰を下ろした。窓の外の灯りを数えかけてはやめ、三十分ほどして立ち上がる。扉を開けた。
階段のほうからヒサメが歩いてくるところだった。手袋をしていない左手を体の脇に下ろしている。
ヒサメは畳んだ椅子の脇で足を止めた。
「袖、いい?」
ヒサメは左手を伸ばし、ミナトの右の袖をつまむように掴んだ。
「九月の夜、ヘリの中であなたの袖を掴んでたって、あとで早瀬に聞いたの。隊員の報告書に書いてあったって。自分では覚えてないのよ」
「掴んでた。ずっと」
「今度は覚えてるわ。ちゃんと掴んでる」
ヒサメは袖に目を落として、指先に少しだけ力をこめた。廊下の灯りがうつむいた頭の上で白く光っている。
「選んだのよ。命令じゃない。私が。八日の十時、無線に誰も出なかったわね。あの日はあの子に譲ったの。今夜は私が選んだ。それでいい」
顔を上げずにヒサメは続けた。
「言って。帰るかどうか」
ミナトはすぐには答えなかった。
産院の三階では壁の向こうから毎晩聞こえていた。ナギ、と呼んで、少し間をおいてまた呼ぶ。返事が来なくてもツムギは呼ぶのをやめなかった。
「……帰る」
「そう」
ヒサメは袖を掴んだ指をゆるめない。
「決めたのね」
「ああ、決めた。理由は明日、全部注いだあとで言う。先に言ったら、注ぐ手がゆるみそうな気がするんだ」
「いいわ。理由は明日聞く。帰るって知ったうえで、明日立つ」
ヒサメが笑った。ミナトがその顔を見るのは冬を越したと告げた三月の朝に続いて二度目になる。
「……冷たくて、ごめんなさい」
袖をつまんだ指の先がときどき手首に触れる。そのたびにひやりとする。二月の初めに産院でナギのいるお腹に手を置いたときにも、ヒサメは同じ言葉を口にした。
「冷たくない」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃない」
「今夜は流さないでね。明日の分よ」
「ああ、流さない」
ヒサメは袖を掴んで敷居をまたいだ。扉が閉まった。
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ミナトが無線の雑音で目を覚ましたとき、窓の外はまだ暗かった。ガラスを雨が細かく打っている。
ベッドから腕を伸ばして机の上の無線を掴むと、産院に詰めている早瀬の声が流れてきた。
『始まりました』
『四時四十分、陣痛です。助産師の見立てでは昼までに生まれます。もうひとつ』
『外が鳴っています。内地の全部が』
ミナトは窓のほうへ顔を向けた。
第三防衛線の壁の上が白んでいる。夜明けの色とは違う白さで、その向こうの特区のあらゆる区画から光が立ちのぼっている。四十年閉じずにきた裂け目が朝を待たずに口を広げている。
泣き声は壁とは反対の方角から聞こえてきた。内地のほうから、町じゅうから、未生獣の声が何千と重なって押し寄せてくる。赤ん坊と同じ泣き方で、窓ガラスを細かく震わせている。
『これから、そちらへ迎えに上がります』
「分かった。待ってる」
無線を机に戻しながらミナトは胸の奥を探った。蓄えはゆうべから少しも減っていない。
隣でヒサメが目を開けた。廊下の先で誰かが階段を駆け下りていく。ヒサメは肘をついて上体を起こし、窓の白さに目を細めた。
「……来たわ」
窓から目を離さずに、ヒサメは言った。
「十年、毎年、大きいのが来た。今年のは、大きいのじゃない。全部よ」
ヒサメはベッドを下り、足もとに置いてあったコートに腕を通した。留め具をかけながらミナトの袖に目をやったが、今度は手を伸ばさなかった。
「行きましょう。順番は、今日はない。同時だから」
四月十五日の朝だった。




