第三十四話 決戦(一)産声を待つ街
特区じゅうの裂け目が開いた朝なのに、第三防衛線の壁からは砲の音がひとつも聞こえてこない。
ヒサメのあとから宿舎の階段を下りていくと、踊り場の窓から壁が見えた。夜明け前から降りつづく雨の向こうで、持ち場についた隊員たちが身を乗りだして壁の外をのぞきこんでいる。撃つ相手を見つけた者は一人もいない。
ヒサメのコートの襟もとの無線から観測員の報告が聞こえている。
『裂け目から出たものが、出たそばから地面へ沈んでいく。特区の区画に未生獣は一体も残っていない』
報告が途切れたところで、指揮車にいる神楽坂ユノの声が全隊への回線に入った。
『補給拠点は駅前に置きます』
ヒサメは段の途中で足を止め、襟の無線に指を添えた。
『アンカーは駅前へ。氷堂隊、火神院隊、駅前へ。A級は各隊に随伴。B級は内地の住民の避難誘導。回収係は——』
そこでユノの声が雑音に呑まれた。
『回収係は指揮車へ』
駅前に何が立っているのか、ユノは言わない。
少女たちを集めて四十年避雷針にしてきた特区を、あれは今朝素通りして内地の真ん中まで来た。
ヒサメは無線から指を離し、残りの段を下りはじめた。
一階の廊下へ下りると、食堂のほうからカグヤが歩いてきた。
二人ともコートの留め具をいちばん上までかけている。ふだんは襟もとをくつろげているカグヤまでそうしていた。食堂の入口の掲示板では一番の欄に氷堂と火神院の名前が並んでいて、その前を二人は廊下の両端から近づいていく。
すれ違う手前で二人は互いを見た。カグヤが左手を胸の高さまで上げた。今朝は手袋をしていない。白く濁った三本の指先が廊下の明かりを受けて鈍く光る。ヒサメも九月の夜に生えた左手を上げた。
二人は手を下ろし、足をゆるめずにすれ違った。ここへ来て七ヶ月、互いに手を上げてみせるところをミナトは初めて見た。ヒサメは玄関へ、カグヤは訓練用の広場のほうへ振り返らずに歩いていく。
玄関を出ると、医療棟の物置の前に装甲車が一台、後ろの扉を開けて待っている。
チトセが担架を一台ずつ抱えて荷台へ積みこんでいる。留め具はどれも締め直してあり、柄を金具に掛けるたびにチトセは張った布を手のひらで一度だけ叩いた。雨に濡れた黒い髪が額に貼りついている。
「八台、持っていきます」
七台目を荷台の奥へ押しこみながらチトセが言った。
「ああ。頼む」
「聞こえたら、聞こえたと言います。聞こえなかったら——」
「それも言ってくれ」
「はい」
チトセは最後の一台を抱え上げて荷台に載せ、扉に手をかけたところでミナトを振り返った。
「今朝、番号のない箱の前に一回立ちました。あなたの分と、私の分と、一回で」
「一回で足りたのか?」
「足りました。今日は、立つより、行く日なので」
チトセは扉を閉め、運転席の隊員に小さく頭を下げた。
宿舎の角を曲がって石田リンが走ってきた。五つの包帯を巻いた体で、水たまりをよけもせずにまっすぐ駆けてくる。
「満の日に、来ましたね」
ミナトの前で足を止めるなり、リンは言った。
十二月の終わり、リンは神社の絵馬掛けに『満の日に、大きいのが来てくれますように』と書いた一枚を掛けている。
「大きいのが。満の日に」
「ああ、来たな」
「願いが叶うって、こういうことなんでしょうか」
リンは返事を待たずに背を向け、ヒサメの隊が集まっている玄関の前へ駆け戻っていった。
門のほうから早瀬の車のライトが雨の中を近づいてくる。
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内地の道は泣き声で埋まっていた。
閉めきった窓ごしでも、エンジンの音よりそちらのほうが大きい。道の両側の建物を小さいのが這っている。壁にも屋根にも窓の庇にも張りつき、電柱のてっぺんにまでしがみついて、数は何百にもなる。どれも同じ方角へ頭を向けている。駅前のほうだ。
道沿いの家々には人の顔が見えた。カーテンの隙間や打ちつけた板の節穴から、内地の住民が外をのぞいている。四十年、壁の向こうの話として聞いてきたものが、今朝はガラス一枚の外にいる。
交差点ではB級第一小隊の坂本ナツが両腕を振って住民を地下の避難所へ下ろしていた。順位表に名前の載らない少女が、銀の混じった髪から雨をしたたらせて内地の大人たちの背中を押している。
やがて産院の前を通った。
壁には小さいのが何十と張りついていた。表の道に装甲車が六台並び、三十人ほどの隊員がそこへ向けて撃ち続けている。一体が撃たれて剥がれ落ち、地面で身をよじってからまた這い上がっていく。三階の窓にはどれも板が二重に打ちつけてある。
ミナトの手の中で、産院とつないだ無線が鳴った。
『ツムギさん、五センチ』
助産師は前置きもせずに言った。
『昼までには生まれると思うわ。外の音が、部屋の中まで来てる』
声の後ろで板を引っかく音が途切れずに続いている。
「ナギを呼んでやってくれ」
ミナトは無線を口もとへ寄せた。
「名前を呼んでいれば、あれは少しは止まる」
『呼んでるわ。ずっと。陣痛のあいだも。ご主人も隣で一緒に呼んでる。港の声でね』
車が産院を過ぎたところで、早瀬がバックミラーに目をやった。
「ついてきます」
ミナトは後ろの窓を振り返った。産院の壁から小さいのが何体も這い下り、道へ出て車と同じ速さで追ってくる。どれもねだる声で泣いている。
「産院から離れていきます。あなたについて」
「いい。それでいいんだ」
駅前の大通りへ出ると、道の端に指揮車が停めてあった。
四月三日、ユノは産院の裏の川岸で整列した隊員を前に「十五日は私がここにいます。指揮車ごと」と言った。川岸に置くと言っていたのに、今は駅前の広場まで歩いて三分の道端に出てきている。
早瀬は速度を落とさずに指揮車の脇を抜けた。
「早瀬さん」
「はい」
「今日は走る」
早瀬はハンドルを握って、しばらく前だけを見ている。
「走らないでください、と言うのは今日で最後にします。止めても走るので」
早瀬はダッシュボードに挟んだ許可証の行き先の欄を指で押さえた。
「今日は駅前と書きました。空欄でなくなったのは、庁舎の日以来です。今日の行き先が駅前でよかったと思っています。産院と書くことになっていたら、あれが産院に出たということですから」
ワイパーがフロントガラスの雨を左右へ払い続けている。
通りをそのまま進むと、その雨が宙で止まっていた。
浮いた粒は灰色の光を受けて大きな弧を描き、広場の真ん中を町のひと区画ほどもある丸い形に囲っている。目には見えないはずの障壁の形が、止まった雨粒ではっきり見えた。
その真ん中に最大級の個体がいた。
立っていると言っていいのかどうか、ミナトには分からない。広場の地面が割れ、そこから指の数も揃わない出来かけの腕が何本も伸びていた。どれもが下の腕の手首を掴んでは上へ積み重なり、駅前の十階建てのビルより高くなっている。頭はない。いちばん上に口がひとつだけ開いていて、泣いている。
広場の半分は白く凍っていた。
アスファルトを覆ったヒサメの氷に何百という小さいのが閉じこめられ、それでもまだ口を動かしている。残りの半分ではカグヤの火が燃えている。焼かれた小さいのは地面で丸まり、煙を上げて消えていく。広場の割れ目からはすぐに新しいのが這いだしてきた。火に落ちた雨がじゅっと白い湯気に変わる。
まわりのビルの壁にも屋上の手すりにも、小さいのが鈴なりになっている。あちこちの通りから這いこんでくる群れを、広場の縁に並んだ装甲車の隊員たちが撃ち落としていく。車を追ってきた何十体も、縁を越えたところでヒサメの氷に呑まれた。
補給拠点の装甲車は障壁から五十メートルほどの位置に停めてあった。ミナトが車を降りると、医官が駆け寄ってきて手首に計器を巻いた。
「満です」
医官はひと回り大きい新しいノートを開き、最初のページに「満」と一字だけ書いた。早瀬は車を装甲車の陰に寄せ、運転席を降りてすぐ後ろについた。
ミナトは息を吸って胸の奥の重さを確かめた。八日の夜とゆうべに開いた二本の経路には、まだ何も通っていない。
氷の広がる側にヒサメの背中が見えた。肩ごしにこちらを見て、装甲車の脇にミナトがいるのを確かめるとすぐに前へ向き直る。火の側ではカグヤが燃える群れの向こうに立ち、一度も振り向かない。
A級の五人は氷と火の境目に散っていた。五番の松本ユカの風が小さいのを裂き、四番の光がそれを焼き、リンの目に見えない力が残りをまとめて叩き割っていく。ユカはリンの背中を守る位置から一歩も退かない。二月の終わりから一度も補給を受けていない五人が包帯の数を数えもせずに前へ出ている。
無線からまた助産師の声がした。
『八センチ。早いわ。ナギも急いでるって、ツムギさんが』
その後ろで、男の低い声がナギと呼んでいた。港で荷を揚げるときの掛け声と同じ調子で、間をおかずに繰り返している。
ヒサメが障壁の前へ進みでた。宙に止まった雨粒の手前で足を止め、左手を上げる。
「——【絶対零度】」
広場から音が消えた。
泣き声も銃声も雨の音も途絶えた中を、白く凍った空気が障壁へ走った。当たったところでガラスの割れるような音が響く。冷気は宙で細かな氷の粉になり、止まった雨粒のあいだをさらさらと落ちていった。
反対側でカグヤが右手を上げた。
「——【紅蓮】」
炎が障壁を舐めた。食いこむ手前で表面を滑り、そのまま広場の空へ散っていく。降ってきた火の粉が氷の上に落ちて、小さな穴をいくつか溶かした。
「届かないわ」
ヒサメが左手を下ろさずに言った。
「一月の終わりと同じよ。人型が言ってたでしょう。覚えたから、もう、触らせない。熱いも冷たいも、もう要らないって」
「なら、何が要るのよ」
カグヤが無線に怒鳴り返した。襟にかかる銀の髪が火の色に赤く染まっている。
最大級の個体のいちばん上で、口が泣くのをやめた。
代わりに言葉が落ちてきた。氷の中のものも火の縁を這うものも、声をそろえて同じことを口にする。
『二つの器』
足もとのアスファルトが震えた。宙に止まった雨粒が障壁の弧に沿っていっせいに揺れる。ミナトの手の中の無線からも同じ声が聞こえてきた。産院の壁に張りついたものたちまで口をそろえている。
『揃った。今日、揃った。産まれる方と来た方と。僕たちは今日、生まれる』
『来た方』
町じゅうの声がミナトのほうへ向きを変えた。計器を巻いた手首をミナトはもう片方の手で握りしめた。
『なぜ、お前だけが愛される。なぜ、お前だけが身体を持って来られた。僕たちは来られなかった。数えられて、間引かれて、名前もなく、天災ということにされた』
「精神攻撃よ。聞かないで」
ヒサメはそう言いながら、自分も積み上がった腕のいちばん上の口から目を離せずにいる。
『間引いた家。火神院。そこにいる。なぜ、お前は火を持って僕たちの前に立てる』
カグヤは答えない。右手を上げて障壁の前に立ち、手袋のない左手を体の脇で固く握りこんでいる。
『答えろ』
何千の声がほんの少しずつずれ、重なりあってひとつに縮まっていく。一月に無線の向こうで聞いた人型の声だ。
『答えろ。……僕たちは、何でもなかったのか』
広場が静まり返った。
町じゅうの未生獣が同じ問いを口にして、答えを待っていた。
『間引いたのは、いい。母親が死ぬなら、それはいい。ただ、僕たちは何でもなかったのか。数えられただけで。何でもないものとして捨てられたのか。名前もなしに』
誰も答えなかった。
ヒサメもカグヤも、装甲車の陰の隊員たちもA級の五人も、通りの先の指揮車も。医官は新しいノートを開いて、「満」の一字の下に何も書き足さずにいた。十月の朝、処置室で医官は「書類に書けない出来事は、最初から起きなかったことにするしかありません」と言っている。
指揮車を呼ぼうと切り替えに親指をかけたとき、耳に当てた無線からユノの声がした。ミナトにだけつないだ回線だった。
『頼みは、まだ聞きません。あれが言い終わるまで』
「もう言い終わっただろう」
『……まだです。答えを待っているあいだは、言い終わっていません』
ミナトは障壁の向こうの口を見上げた。
なぜ間引いた、という言葉は表に出ているだけで、芯にあるのは今の問いのほうだ。七ヶ月、特区で聞いてきた泣き声の底にも、この問いがずっと沈んでいた。
あれは何を欲しがっているのか。ミナトはずっと、自分の身体だと思ってきた。泣き声はずっと、答えをねだっていた。
ミナトは無線の切り替えを回し、指揮車とは別の回線を選んだ。
「チトセ」
『はい』
「行けるか?」
『行けます』
通りの先で指揮車の後ろの扉が開き、チトセが降りてきた。黒い髪には銀が一本も混じっていない。厚い手袋をはめ、胸に計器と無線を下げている。護衛もつけず担架も持たずに、一人で通りを歩いてくる。積んできた八台は補給拠点の装甲車の脇に並べてある。
チトセは広場へ入った。
凍ったアスファルトの上を渡り、火の縁に沿って歩く。その足もとを小さいのが這って通りすぎていった。町じゅうが答えを待って黙りこんでいる広場で、チトセのほうへ顔を向けるものは一体もいなかった。
障壁の手前でチトセは一度だけ振り返った。
ミナトを見て、ヒサメとカグヤと通りの先の指揮車を順に見る。最後にリンを見ると、深い頷きが返ってきた。
『聞こえたら、聞こえたと言います』
声はミナトの無線から届いた。
チトセは障壁に入った。
止まった雨粒の層をくぐるとき、髪の先に触れた何粒かがチトセの肩へこぼれ落ちた。障壁はそれ以外に何ひとつ応えない。丸い形の内側では雨のない空気がしんと澄んでいる。チトセの小さな背中が積み上がった腕の根元へまっすぐ向かっていく。
『……誰か、いる?』
声が言った。
『いない』
問いと答えを同じ声が続けて口にした。チトセは足を止めずに歩いていく。
『誰も、いない。……なのに、足音がする』




