第三十五話 決戦(二)最初の名前
障壁の内側を歩いていたチトセが、積み上がった腕の根元で足を止めた。
補給拠点の装甲車の脇から見ると、根元に立つチトセは腕一本の太さにも届かない。障壁の外では夜明け前からの雨がまだ降りつづいていて、丸い形の内側だけが乾いて白っぽく見える。チトセは胸に下げた無線へ手を持っていった。
『腕の根元に着きました』
無線から届いたチトセの声は、氷を渡り火の縁を歩いてきたあとなのに息ひとつ乱れていない。
『氷のようなものがあります。腕は全部、ここから生えています。氷の中に、何千といます。どれも小さいです。特区で見てきたどれよりも小さい。全部凍っていて、凍ったまま泣いています』
「それが核か?」
『はい。人型が核と呼んだものです。これから触れます』
しばらくのあいだ、無線からは核のそばの泣き声だけが聞こえていた。
『触れました。氷より冷たいです。聞いています。中の全部が、聞いています。私を探しています。見えないのに、探しています。足音がしたから』
積み上がった腕のいちばん上で口が開いた。
『足音』
『誰か、いる。誰でもいい。僕たちの名前を』
少し間があってチトセの声が無線に戻ってきた。
『知りません、と答えました。あなたたちの名前は誰も知らない、と。泣き声が大きくなりました』
装甲車の陰で若い隊員が片手で耳を押さえている。雨の音はもう障壁から漏れてくる声に紛れて聞き分けられない。
『核が、番号のない箱みたいに思えました。番号もなくて、紙片も貼れなくて、私が毎朝前に立つことしかできない箱。それが、何千』
二月に門の前でチトセから人型の話を聞いたとき、ミナトは「名前なら、ある」と答えて「まだ半分だ」と付け足した。
何千の箱に貼る名前を持っているのは母親たちだ。ミナトは大通りの先に止まっている指揮車へ目をやった。
無線の切り替えを全隊の回線へ回す。
「指揮車へ行く。すぐ戻る」
氷の側でヒサメの銀の髪がわずかに揺れた。振り向きはしない。
『行って。待ってるわ』
『早く戻りなさいよ』
火の向こうからカグヤの声が重なった。
ミナトは装甲車の脇を離れ、大通りを指揮車のほうへ歩きだした。
三分ほどの道のりだ。走れば半分で着くが、肩で息をしながら頼みごとを切り出すつもりはない。
広場の縁を回りこむと、ヒサメの氷が大通りの入口まで張りだしていた。靴底の下に閉じこめられた小さいのが目も鼻もない顔を上げ、ミナトが一歩進むたびに少しずつ向きを変えてついてくる。ねだる声が足の下でくぐもって聞こえる。
大通りに面した建物の窓はどれも閉まっていて、その内側から住民が広場のほうをうかがっていた。早瀬は二歩ほど後ろを歩いている。腰の無線から各隊の報告が途切れずに流れていて、早瀬はそれを聞きながら黙ってついてくる。
指揮車の後ろの扉をミナトは自分の手で引き開けた。早瀬は外で足を止める。
車の中は狭かった。両側の壁に無線の機械が並び、小さな灯りがいくつも点いたり消えたりしている。奥の机には広場を映す画面が二つ据えてあり、その手前に放送の機械がある。黒いスイッチの隣で細い首のマイクが曲がっている。画面のひとつには積み上がった腕の根元が映っていて、チトセの黒い頭が点のように小さく見えた。屋根を叩く雨の音がこもっている。
ユノは放送の機械の前に一人で座っていた。チャコールグレーのスーツも、きちんとまとめた総白髪も、初めて会った朝から変わらない。机の端には表紙に長官印を押した薄い綴りが一冊置いてある。
「頼みがある」
「聞きます」
ユノは機械のつまみに指をかけて、顔を上げずに答えた。
「あれは、言い終わりました」
「放送を開いてくれ。全市に。処置を受けた母親たちに、用意してたのに呼べなかった名前を、今、呼んでくれと。それだけだ。判定の話じゃない。処置の話でもない。名前の話だ」
「それは、公表になります」
ユノはつまみから指を離し、膝の上で両手を重ねた。
「二十年封じられてきた報告が、放送で開きます。明日から判定を受けない母親が増え、何人かは死にます。私は母親を死なせない側に立っている、と言いました。あの日、あなたたちの前で」
「ああ、知ってる」
壁ぎわに折りたたみの椅子が一脚あるが、ミナトは座らない。
「三つ言う。どれも、あんたが知ってることだ」
ユノは何も言わずに重ねていた手をほどいた。
「ひとつ。ツムギは産まれる前からあの子を名前で呼んでる。ナギ、って。毎日。朝と夜と、思い出したとき。呼ぶと動く。今も陣痛の中で呼んでる。旦那も一緒にな。あんたの記録に全部ある」
「あります」
「二つ。名前を呼んだら、あれが止まった。十二月、四十秒。二月、二十秒。何十体が全部聞いてた。呼ばれたことのない者の聞き方で。早瀬さんが数えて、あんたが読んだ」
「読みました」
開いた扉の外で早瀬が顔を上げた。壁の機械のひとつからはチトセの回線の音が小さく流れていて、核のそばの泣き声が雨の音に混じって途切れずに聞こえる。
「三つ」
ミナトは自分の胸に手を当てた。大攻勢の日に裂け、二月にその先がもう一度裂けた場所が手のひらの下にある。
「今日、残らず注ぐ。あんたに昨日言った。明日から補給源はいない。あんたの封印は、戦争が続くのが前提の封印だ。順位表も避雷針も処置も、全部、明日も戦うことが前提だった。それが今日で消える。俺が消す。脅してるんじゃない。自分のことを言ってるだけだ」
ユノは放送の機械の黒いスイッチへ目を移した。
「あんたは全部知ってて、十五年、封印を更新した。十月の戌の日に、記録に残しなさい、全部、と言った。神社で一体が首をかしげたのを、その日のうちに読んだ。あれは聞いてる。四十年、聞いてる。誰も呼ばないから泣いてるんだ」
ユノは膝から右手を上げ、指先がスイッチに触れたところで止めた。
「私が言えるのは、三つともその通りだということだけです。知っていて、十五年しなかった。理由も、あなたは知っている」
「知ってる」
「四つ目は、言わないのですね」
四月三日の晩、ナギという名前を聞いたユノの「そう」は母の「そう」と同じでした、とツムギは病室で話していた。
「四つ目は、俺の材料じゃない」
ユノは椅子を回してミナトを見上げた。初めて会った朝と同じ目で、あの朝には見ていなかったものを見ている。
やがてユノは机の端の長官印の綴りを手に取り、放送の機械の上に置いた。マイクのすぐ隣だ。
「……記録します」
ユノは節の目立つ指でスイッチを押しこんだ。
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『対異界特務省長官、神楽坂ユノです』
目の前のユノの声と車の外のスピーカーが、わずかにずれて二重に聞こえた。電柱の上でも広場を囲むビルの屋上でも、ふだんは警報と避難の呼びかけしか流さない拡声器が、内地と特区のすべてで同じ言葉を流している。
車の外の泣き声がほんの少し低くなった。
『市民の皆さんにお伝えすることがあります。四十年、伝えられなかったことです。十五年、私が封印してきたことです』
書類を読み上げるときと同じ調子でユノは続けた。
『未生獣は、災害の魔力毒で死んだ胎児の怨念である、と説明されてきました。それは全部ではありません。処置により命を落とした胎児も未生境界へ還り、未生獣に加わっています。二十年前にその報告がありました。検証は未了のまま、私が封印を更新し続けました』
画面の中でヒサメもカグヤも手を止め、スピーカーを見上げている。
『処置は、母体の命を守るための医療です。それは今も変わりません。ただ、それを進化と呼んだのは間違いでした。悼むことを後ろ向きと呼んだのも、名前をつけてはいけないと言ったのも、間違いでした。決めたのは災害の翌年の政府で、席に着いていたのは、災害の前に生まれた男性だけでした。今は、それを私が引き継いでいます』
どこか近くで窓の開く音がした。
『今日、皆さんの町の中心に、あれが立っています。あれは泣いています。四十年、泣いています。何をねだっているのか、今日、分かりました。名前です』
スピーカーにユノが息を吸う音が乗った。
『処置を受けた母親の皆さんに、お願いがあります』
『……その前に』
そこから先が続かない。放送は開いていて、町じゅうのスピーカーからユノの息の音だけが流れていく。
ミナトはユノの真後ろに立っていた。スーツの背中は機械に向いて少しも動かない。
『私にも、呼べなかった名前があります』
『三十三年前、私は男の子を宿しました。判定を受けて、処置を受けました。名前は決めてありました。呼んではいけなかった。三十三年、一度も呼んでいません』
機械の縁にかけたユノの指の節が白く浮いている。
『ハル』
マイクがやっと拾うほどの小さな声だった。
『……ハル。お母さんだよ。ごめんね。遅くなって』
ミナトの手の中の無線にチトセの声が入った。
『……聞こえました』
『ひとつ、止まりました。何千の中のひとつ。泣きやんで、上を向いています』
画面の中で積み上がった腕のいちばん上の口が動いた。
『……誰か、呼んだ』
何千とは重ならない、ひとつきりの声が無線から届く。
『……僕を、呼んだ』
ユノは振り返らなかった。機械の縁から指を離し、マイクのほうへ少しだけ身を寄せる。
『用意していたのに呼べなかった名前があるなら。今、呼んでください。窓からでも、部屋の中でも、声に出さなくても。呼ぶかどうかは一人ひとりが決めてください。呼べない方は呼ばなくていい。誰も責めません。私が責めさせません』
書類を読み上げる調子はもうどこにも残っていない。マイクは開いたままだ。ミナトは声をかけずに指揮車の扉から外へ出た。
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大通りの両側で窓が開きはじめていた。
広場に近い三階で女が一人身を乗りだしている。口は動いているが、泣き声に紛れて言葉までは届かない。道の向かいの二階では年配の母親が男の子の名前をひとつ口にした。一音ずつ確かめるようにゆっくりと言って、返事を待つあいだだけ黙り、もう一度同じ名前を呼んだ。
その隣では窓枠に両手をついた女が唇だけを動かしている。さらに奥には、開けた窓から外を見ているだけの人がいて、後ろから誰かがその肩に手を添えている。
早瀬は扉の脇に立って、腰の無線を胸の前に持ち上げている。
『内地の各所で声が上がっています。窓から。道で。避難所の中からも。放送を聞いて、名前を呼んでいます』
『氷の中の何体かが、動きを止めました』
『火の縁で、一体が上を向いて——』
報告が重なる途中で、産院の回線が鳴った。
『——ナギ!』
陣痛の波の中でツムギが呼んでいた。息が乱れて途切れても、続きからまた呼ぶ。
『ナギ! ナギ、大丈夫だからね! お母さんだよ、大丈夫、ナギ——』
その切れ目を、ナギと呼ぶ夫の低い声が埋めた。
チトセの声が割りこんできた。
『聞こえました』
『二つ目。三つ目。四つ目。増えています。ひとつずつ止まっていきます。氷が、溶けかけています。中から』
どこかの避難所の入口から上がってきた報告の後ろで、何十という声が重なって名前を呼んでいる。無線を握りしめ、うつむいて早瀬が言った。
「……母が、名前を呼んでいます。無線で聞こえました。妹でも私でもなくて、私の前の。私が知らなかった名前です。今日、初めて聞きました」
母が自分を身ごもる前に流産した男の子のことを、早瀬は十月に産院へ向かう車の中で話していた。名前は与えられなかった、と。
早瀬は無線を握り直した。
「報告書に書きます。母の欄はありませんが、あとで作ります」
「ああ、書いてくれ。きっと要る欄だ」
ミナトは広場のほうへ走りだした。少し遅れて早瀬の靴音がついてくる。走らないでください、とはもう言わなかった。
来るときに閉まっていた窓が今はほとんど開いていた。走るミナトの頭の上を名前が行き交う。一階の戸口では腰の曲がった女が柱につかまって、古い響きの名前を呼んでいる。その向かいの女は最初の音で声が裏返り、そのたびに初めから言い直している。どこかの窓では年配の母親と娘らしい若い女が並んで、同じ名前を呼んでいた。放送で聞いたばかりの言い方をなぞって、名前のあとに「お母さんだよ」と続ける声もある。足もとの鉄格子の下からは、地下の避難所に下りた人たちの声が何人ぶんも重なって上がってきた。
交差点で住民を誘導していたB級の少女が、両腕を下ろして窓を見上げている。
広場の縁まで戻ると泣き声の聞こえ方が変わっていた。ねだる声は目に見えて少なくなり、その隙間を町の声が埋めている。窓からも道からも避難所の口からも、何百という知らない名前が広場へ流れこんでくる。足もとの氷の中では、来るときにミナトを追って向きを変えていた顔が口を閉じて上を向いている。補給拠点の装甲車の脇を過ぎるとき、医官のペンが新しいノートの上で動いているのが見えた。
待合室で「決めてはあったのよ」と打ち明けた女も、電話の向こうで「そう」とだけ答えたツムギの母も、この町のどこかにいる。聞き分けられるはずのない二人の声を、ミナトは走りながら名前の中に探した。
障壁に近づくと、ヒサメとカグヤがそろってこちらへ向き直り、左手をミナトのほうへ差し出した。
「待たせた。行こう」
スピーカーからはまだユノの声が流れていた。町じゅうの名前に紛れるほど小さく、ハル、ともう一度。




