第三十六話 決戦(三)なかったことなんかじゃない
差し出された二つの左手をミナトは両手で取った。
右手に収まったヒサメの指は雨に打たれて冷えきっていた。左のカグヤの手のひらは温かく、三本の指先だけが硬く当たる。二人は手を離さずに障壁のほうへ向き直った。カグヤが握られた左手を後ろへ回し、ミナトは二人のあいだの半歩後ろに立つ。指揮車からついてきた早瀬は少し離れたところで足を止めた。
握った瞬間に分かった。レベル一の補給とも、レベル二とも違う。手のひらの先に道が二本通じている。八日の夜とゆうべ、二人がそれぞれ選んで開けた道だ。右の道の先はしんと冷えていて、左の道の先には熱がこもっている。どちらにも人の気配があり、ヒサメの内側とカグヤの内側が一度に感じ取れる。
「来てるわ」
ヒサメは目を閉じずに息を詰め、手の中に来たものを確かめている。
「来てるわよ。あんたの中まで、全部見える」
カグヤの耳はどこも赤くない。歯を食いしばって障壁の向こうの腕を睨んでいる。
「順番は?」
カグヤは振り向かずに聞いた。
「ない。同時だ」
ヒサメが小さく息を吐いた。
「同時ね。こんなの初めてよ」
「行くぞ」
蓄えは満だった。ミナトはその全部を二本の道へいっぺんに流しこんだ。
胸の奥に溜めてきたものが両腕を通り、手のひらから出ていく。その減る速さまで内側からはっきり分かる。送り出したものが道を下るにつれて右の冷たさは澄み、左の熱はやわらいでいく。握り合った手の隙間から白い光がこぼれ、広場の凍った半分と燃えている半分を同じ白さで照らした。
ヒサメが左手を上げた。つないだミナトの右手ごと障壁のほうへ持ち上げる。
「——【絶対零度】」
白く凍った空気が障壁へ走った。三十分ほど前にこの広場で砕けたのと同じものだ。ミナトはそれが砕ける音を待った。
何も鳴らなかった。
冷気は宙に止まった雨粒の層をくぐって障壁の内側へすっと抜け、積み上がった腕に触れる。白く染まりもせず、粉になって崩れることもなく、腕は動きだけを止めた。下の腕の手首を掴もうと伸びていた指が開いたまま宙に浮いている。いちばん上で泣いていた口がゆっくりと閉じていき、寝入りばなの赤ん坊のように唇の端をゆるめた。広場の氷の中でも小さいのがそろって口を閉じていく。
「凍らせてないわ」
ヒサメはミナトの手ごと上げた自分の左手に目をやった。
「なのに止まった。これは冷たいんじゃない。静かなのよ」
カグヤが右手を上げた。
「——【紅蓮】」
炎は障壁の表面を滑らずに抜け、腕に届いても焼かなかった。まわりの空気がゆらゆらとたわみ、そこに色がついていく。火の赤よりずっと淡い夜明けの空の端に出る色で、いちばん下の腕を伝って核のある根元へ流れこんでいく。
「熱くない」
カグヤは自分の右手を見上げた。
「私の火なのに。温かいだけよ。人の体温くらい」
焼くことしかできない火で、十五日にはできないことをする。八日の夜、カグヤは自分の部屋でそう言っていた。いまは右手を高く掲げて淡い色の火を見つめている。
胸もとに留めた無線からチトセの声がした。
『核の氷が溶けています。冷たいのではなくて、静かなものが周りにあります。温かいものが中に入ってきます。何千が泣きやんでいます。眠るのではなく、聞いています。町の声を』
三月二十一日に庁舎三階の窓のない部屋で、ユノは覚書の言葉を読み上げた。安寧の冷たさと体温の温もり。原初の羊水と光の揺りかご。書いた者が何を見てこう書いたのか分からない、とも言っていた。
二本の道の先でヒサメの静けさが母親のお腹の中の水になって核をくるみ、その内側へカグヤの火が人肌の温かさで染みこんでいく。三人の手からこぼれた白い光がその全部を下から抱えてゆっくりと揺らしている。凍ったまま泣いていた何千が、水と温もりのあいだで口を閉じ、耳を澄ませている。
宙に止まっていた雨粒がひと粒残らず落ちた。
丸く囲っていた雨の弧がいっぺんに崩れ、アスファルトを叩く音が四方へ広がっていく。障壁の消えた広場の真ん中にも外と同じ雨が降りはじめた。根元に立つチトセの肩にも落ちる。カグヤの火に降りかかった粒は湯気も立てず、朝の色の中を通り抜けて地面に落ちた。
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手首に巻いた計器の針がゼロに落ちた。
蓄えが尽きても、ミナトは流しつづけた。どこから出せばいいかは探すまでもない。
三度目はありません、と二月の終わりの夜にユノは言った。
胸の奥で二度傷めた場所がもう一度開いた。痛みは遅れずに来て、真ん中から背中まで突き抜けていく。崩れかけたミナトの体を、握った二つの手が両側から引き留めた。今度は端から端まで開き、蓄えを生む元が丸ごと流れ出していく。生まれたときからそこにあって、名前も知らずに十八年持っていたものだ。
髪の根元がすうっと冷えていった。
耳の上と額から頭の後ろへ回っていく。カグヤの手を握っている左手の、指の付け根の肌まで色が薄くなっている。
「ちょっと、減ってるじゃない」
カグヤが首をひねってミナトの頭を見た。
「あんた、全部よ。私たちと同じ色になってる」
「ああ。分かってる」
「氷堂! こいつ、止めないと——」
「止めないわ」
ヒサメは障壁のあった場所から目を離さずに答えた。
「あの人が決めたことよ。その代わり」
ヒサメが左手でミナトの右手を握り直した。指の骨がきしむほど強い。自分で決めた強さだった。
「私が持つ」
二本の道の重さが片方へ寄っていった。ヒサメが自分の側の道を押し広げ、カグヤの側を細くしている。右の手のひらからその動きがじかに伝わってくる。左の道でカグヤが押し返そうとするのも分かったが、ヒサメの側の力のほうが強い。
「氷堂、何を——」
「あなたの指先はもう戻らないでしょう。これ以上は減らさせない」
ヒサメはカグヤのほうを見ずにミナトの右手を見つめている。
「順番は一番よ。今日は私が一番。同率でも、無線で一番と呼ばれるのは私でしょう」
カグヤは口を開きかけて唇を噛んだ。右手は下ろさない。温かい火を障壁のあった場所へ送りつづけている。
ミナトは口を挟まずに流しつづけた。
ヒサメの左手が震えはじめたが、指はゆるまない。ミナトには分からない何かが横顔から少しずつ抜けていく。ヒサメは唇を引き結び、まばたきもせずに核のほうを見ている。
「……冷たい」
ヒサメが小さくつぶやいた。
「あなたの手が。さっきまで温かかったのに、今は冷たいのだけが分かるの」
ヒサメは手をほどかなかった。
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広場の外から名前が寄せてきた。
町じゅうの窓と道と地下の避難所の口から上がった声が、何百も何千も広場の上へ集まってくる。スピーカーのハルも産院の回線のナギも、早瀬が今日初めて聞いた名前も、その中に混じっている。ほとんどはミナトの知らない名前で、知らない声だ。大きな声で呼ばれた名前も唇だけで呼ばれた名前も、同じ速さでミナトの手の中を通っていく。
湊。水の集まるところ。船が帰ってくるところ。
この世界に来てから誰にも聞かれたことのない字のとおりに、町の声がミナトに集まり、ミナトを通って二人の手へ、核へと流れていく。アンカーと呼ばれてきた体がいまは町の声を核の底まで沈める錨になっている。ミナトは流れてくるものをひとつも止めずに通した。
胸もとの無線からチトセの声がした。
『聞こえます。全部、聞こえます。核の中で。何千が上を向いています。自分の名前かどうかも分からずに、名前を聞いています』
寝入りばなのように閉じていた口がもう一度わずかに開いた。
『……僕たちは』
泣き声はもう混じっていない。
『何でもなかったのか』
ミナトは息を吸った。濡れたアスファルトと、燃え残りの煤のにおいがする。
この問いに返す言葉を、九月の夜のミナトは持っていなかった。チトセが箱の前で読み上げる名前と、壁越しに毎晩聞いたナギの名前と、ヒサメが廊下の椅子で言った半分から、少しずつ受け取ってきた。
ミナトはその全部を声にした。
「聞こえるか」
声は二人の手を伝い、核まで下りていった。
「呼ばれてるぞ」
積み上がった腕が根元から震えた。
「お前たちは、なかったことなんかじゃない」
核の氷が割れる音がした。
「ちゃんと、命だったんだ」
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核から光が昇りはじめた。
積み上がった腕の根元から小さな光がひとつ、またひとつと離れて浮かんでいく。すぐに何十になり、何百になり、何千になった。どれも手のひらに収まるほどの大きさで、雨粒のあいだを昇っていく。泣き声はどこからも聞こえない。代わりに町の声が広場を満たし、名前を呼ぶ声のひとつひとつが光を上へ押し上げている。
『上がっていきます』
根元に立つ小さな黒い頭のそばを光がいくつもかすめていく。
『ひとつずつ。呼ばれた方へ。私の横を通っていきます。見えていないのに、通るとき少しだけ止まります。足音の方を向いて。そのあとで上へ』
氷と火の境目でA級の五人が空を見上げていた。リンは包帯を巻いた手を目の上にかざしている。
十一月に神社の境内で、チトセは竹箒を止めて「……強くなかったら、ここにいてはいけなかったのですか」と聞いた。ミナトはまだ半分だと答え、残りが分かったら必ず言うと約束していた。
『……聞こえました。なかったことなんかじゃない、って。私にも。あなたが私に言ったんじゃないのは分かっています。でも、聞こえました』
「チトセにも言ったんだ。半分だったのが、全部になった。十一月の半分と、今日の半分で」
『……はい』
最大級の個体が崩れはじめた。
積み上がった腕が上のほうから一本ずつほどけてそのまま光になって昇っていく。指の数の揃わない手も、下の腕の手首を掴んでいた手も、握っていた指をゆるめてから光に変わった。最後にいちばん上の口だけが宙に残った。
『……呼ばれた』
そう言い終えて、口も光になった。
氷に閉じこめられていた小さいのがその中でひとつずつ光になった。火の縁を這っていたものも、ビルの壁に鈴なりになっていたものも、次々に光に変わって空へ向かう。無線には各隊の報告が重なって入ってくる。大通りの電柱から、駅の屋根から、産院の壁から、光が上がっている。町じゅうの未生獣が空へ還っていった。
空が光で埋まった。
特区の方角で夜明け前から立ちのぼっていた白い光が消えている。四十年開いたままだった裂け目が空を埋めた光の中で口を閉じた。
ミナトの手から力が抜けた。
ヒサメの手がほどけ、カグヤの手が離れていく。二人はそろってその場に膝をついた。カグヤは濡れた地面に両手をついて肩で息をし、ヒサメは離れた左手を胸もとへ引き寄せている。ミナトはそれより先に倒れ、氷の溶けたアスファルトに肩を打って仰向けに転がった。路面の冷たさが背中に染みてくる。後ろから早瀬の靴音が水たまりを跳ね上げて近づいてくる。
顔に当たる雨粒がひとつもない。いつのまにかやんでいた。
目の端に濡れた前髪がかかっている。
全部、銀だった。
空いっぱいの光がまだ上へ昇っていく。いちばん上まで行ったら、降ってくるのだろうか。ミナトは見上げていようとしたが、目を開けていられない。これまで気にもとめなかった明るさが、痛いほど眩しい。
窓からも地下の避難所の口からも、名前を呼ぶ声はまだ続いていた。返事をする相手がいなくなっても、町は四十年ぶんの名前を呼びつづけている。
胸もとの無線では産院の回線が開いている。ツムギの荒い息の合間に、ナギ、と呼ぶ声がかすかに聞こえる。産声はまだだった。
それが聞こえてくる前にミナトは目を閉じた。




