第三十七話 光の雨
瞼の裏が白かった。
目を開けたとたん、その白さが細い針になって奥へ刺さってくる。ミナトは腕を持ち上げて顔をかばい、袖の陰から少しずつ部屋の中を見た。三階の窓を塞いでいた板が外され、昼の光がまっすぐ差しこんでいる。白い壁に跳ね返った明るさにさえまともに瞼を開けていられない。
腕を下ろすと、自分の手の甲が目に入った。
肌の色が薄くなっている。日に焼けたことのない子どもの肌のように白っぽく、甲を走る青い筋まで透けて見える。その手の上に髪がひと房落ちている。指でつまんで目の前へ持ってくると、根元から毛先まで銀で、黒い毛は一本も混じっていない。
胸の奥を探ってみる。目を覚ますたびに確かめてきた重さは満ちている朝にも空の朝にも、そこにあることだけは手ごたえで分かった。いまは探る手の先がどこまでも空いている。
「起きましたか」
机の椅子をベッドの脇まで引いてきて医官が腰かけている。膝の上にはひと回り大きい新しいノートがのっている。
「産院の三階です。きのうの夕方まであなたが使っていた部屋です。早瀬が広場から運びました」
医官は隣の病室との境の壁へ目をやる。
「ツムギさんはまだ陣痛です。朝のうちに八センチまで開いて、そこから先へ進みません。助産師は、夕方だろうと」
「今、何時だ?」
「昼過ぎです。決戦から五時間あまり」
医官はノートを開いた。
「記録を読みます。聞きたくなければ、聞かなくてかまいません」
「聞かせてくれ」
「体質、消失。原初魔力の生成、ゼロ。回復、なし」
医官は一語ずつ区切って読み上げる。
「三日でも四日でも五日でも、戻りません。空のまま、この先ずっとです。肌と瞳の色素、減少。髪、全部。抜けた色は戻りません」
毎朝ひとつずつ書き継いできた残量の数字を医官は明日の朝から書かずに済む。
「資源の欄が、なくなりました」
ミナトは窓のほうへ目をやり、すぐに顔を背けた。目を細めてもう一度見る。
光が降っていた。
雨と同じ速さで音もなく落ちてくる。朝の広場で核から昇っていった光の粒が空の上で向きを変えて町へ戻ってきている。産院の屋根にも向かいの家の物干しにも降り、開いた窓から入ってきて掛け布団にとまる。ミナトの手の甲にもひと粒落ちた。温かくも冷たくもない。肌に触れたところで粒はふっと薄れて消えた。
「光の雨、と呼ぶことになりました」
医官が言った。
「仮に、ではなく。長官がそう名づけました。傷が治っています。町の全部で。進行中の結晶化も引いています。全員です。A級もB級も、順位表に載っていない子も。石田さんの包帯は、五つとも要らなくなりました」
リンは十一月の左のすねから四月の右の肩まで包帯をひとつずつ五つに増やしてきた。巻いた下にはどれも硬貨ほどの白い痕がある。
「完了した部分はどうなる?」
ミナトは聞いた。透明なうちなら引けるが、白く濁ってしまえばもう戻せない。結晶化の決まりはその二つきりだ。
「戻りません」
医官はきっぱりと答えた。
「規則は今日も生きています。奇跡の日でも。石田さんのコインは五つ残りました。包帯が要らなくなっただけです。残った五つを数えてから、石田さんは笑いました」
医官はノートを膝に置く。
「線が、なくなりました」
ミナトは黙って続きを待った。
「十月に申し上げました。名前で呼ばれ慣れてしまうと、引くべき境界線が鈍る、と」
ここへ来て二週間ほどたった朝、医療棟の処置室でのことだ。「……本当に、平気なのか?」と聞いたミナトに、医官は「平気なのだと、自分に言い聞かせているだけですよ」と返した。
「資源の欄がなくなって私が引く線もなくなりました。今の私は線のない場所にただ立っているだけの人間です。……名前を、言います。藤井です」
「藤井さん」
「はい」
藤井はうなずき、膝の上でノートの角をそろえる。
「三年、平気なのだと自分に言い聞かせてきました。今日からは、もう要りません。名前で呼ばれるのは少し変です。港で荷を揚げている人が、変なだけだ、じきに慣れる、と言っていたと聞きました。ツムギさんのご主人です」
藤井は椅子から立ち上がり、扉のほうを手で示した。
「廊下で、氷堂さんと火神院さんがお待ちです」
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ミナトがベッドを下りて扉を開けると、ヒサメとカグヤが並んで立っている。
二人とも朝の広場から着替えていない。雨を吸ったコートはまだ乾ききらず、裾が重たげに垂れている。袖口からのぞく手にも頬にも擦り傷ひとつ残っていない。ヒサメの腰まで届く髪も、襟にかかるカグヤの短い髪も銀だ。二月の初めに紅の残った毛先を切り落としてから根元まで一本残らずこの色になっている。
「同じ色ね」
ヒサメが言った。
「九月に言ったでしょう。魔法を行使した分だけ色が抜ける。戻らないわ、って。あなたの分も、戻らない」
ヒサメは九月の夜に生えた左手で手袋もせずにミナトの右手を取った。
ヒサメは握ったきり、しばらく動かない。目を伏せて、つないだ二つの手をじっと見ている。
やがて指をほどき、離れた自分の手のひらに目を落とした。
「離したあとのほうが分かるわ。冷たくなっていくから、さっきまで温かかったんだって」
部屋の扉の脇に立った藤井がノートにペンを走らせている。
「人の体温を感じ取る感覚の喪失。今朝の代価です」
「そう」
ヒサメは短く答えて手のひらを体の脇へ下ろした。
藤井はページをめくり、二人の髪に目をやる。
「銀も戻りません。お二人とも、この色のまま大人になります」
カグヤは廊下の突きあたりの窓から差しこむ光に左手をかざしている。粒がひとつ濁った指先に落ちて消えたが、白さは少しも薄くならない。
「いいのよ、これで」
カグヤは手を下ろさずに言った。
「第一関節で止まってる。ここから先へは行かなかった」
カグヤは手を下ろし、ヒサメの左手に目をやった。
「礼は言わないわよ」
「要らないわ。一番が持つのは当たり前よ。無線で一番と呼ばれるほうがね」
ヒサメが言い返すと、カグヤは小さく鼻を鳴らした。そのうちにどちらからともなく二人とも口もとをゆるめた。
笑いがおさまるとヒサメは左手の指の腹を親指から順にこすり合わせ、その手をコートのポケットにしまった。
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日が傾きはじめたころ、ユノが部屋へ来た。脇に二つに折った紙を抱えていて、椅子をすすめる間もなく口を開いた。
「未生境界は閉じました」
「裂け目はありません。今朝、光の中で閉じたまま、今も開いていません。魔力の受信機も閉じました。全員です。氷堂も火神院も、候補生も。十歳で開いて十八を過ぎると閉じる、あの器官が、朝のうちに全員の身体で閉じていました。魔法は、この世界から消えました」
「それが、満期か」
十月一日の朝、初めて順位表が貼り出された日の食堂でヒサメがその言葉を教えてくれた。満期まで生き延びれば市民社会に戻れる。ただ、ほとんどの人はその前に全身が砕け散る、とヒサメは言った。
「満期です。今日で全員。早瀬の妹は、十三で満期です。十一で受信機が開いて、前線には一度も出ずに」
ユノは抱えていた紙を広げ、机の上に置いた。食堂の入口から剥がしてきた、順位表と決戦の日付の紙だ。
「貼る場所がなくなりました」
ユノは二枚を机に残して手を引っこめた。
「上には、書類を出しました。ゆうべ話した、傷の書類です。三つと書いた数は、出す前に消しました」
ユノは一度だけミナトの髪に目をやった。
「今朝の放送の全文と、二十年前の、検証が未了のままの報告書を添えて。上からは、読みました、とだけ返ってきました。どういう意味なのかは、私にも分かりません」
ユノは机から目を上げた。
「もうひとつ、あなたのことです。体質を失っても、あなたは資源です。この国には四十年、男の子が生まれていません。若い男はあなただけです。それは今日も明日も変わりません。残るなら、それを引き受けることになる。上はそう扱います。私も、そうせざるを得ない。大勢の中の一人には、この国ではなれません」
「分かってる」
「第七区画の、線路下の地下道が開いています」
ミナトは顔を上げた。
九月の夜、ミナトはその地下道をくぐってこの町に出た。振り返ったときには、入口はもう古いコンクリートで塞がれていた。
「早瀬が確かめました。塞いでいたコンクリートが、光の雨のあと、なくなっていた。三十九年前に塞いだものが。明日も開いているかどうかは分かりません。今日は開いています」
ミナトは窓のほうを向いた。光はまだ降りつづいている。
「帰るなら今日です。残るなら明日から、私はあなたを資源として扱います。四日目の朝、病室であなたに保護を言い渡したときと同じように。選ぶのはあなたです。これは、私が命令できるものではありません」
「ゆうべ、氷堂に言った。帰るって」
「聞いています」
「……廊下だぞ、あれは」
「七ヶ月、私が聞いていなかった場所はありません」
ユノの口の端がわずかに動いた。笑ったのだとしても、まばたきひとつのあいだのことだった。
ユノは上着の内ポケットからミナトのスマホを取りだした。二日目に検査に預けたきりになっていたものだ。画面は黒く沈んで、ユノの指の跡だけを映している。
「お返しします。九月から、預かったままでした」
ユノはスマホを手のひらにのせて差し出した。ミナトは黒い画面に目を落としたが、手は膝の上に置いたきりだ。
「検証は未了なんだろ。続けてくれ」
ユノは一度だけまばたきをした。
「……続けます」
ユノはスマホを上着の内ポケットへ戻した。
「放送は開けたままにしてあります。今朝から。閉じるのは、今日の夕方です」
何のために開けておくのか、ユノは言わず、ミナトも聞かなかった。
扉を半分開けたところでユノが言った。
「ハルのことは、上には書きませんでした」
ハル。今朝の放送の中で、長官の声が三十三年たって初めて口にした名前だった。
「放送の全文には入っています。整理が合わない、と真鍋が言うでしょう。承知で出しました。初めてです」
ユノは振り返らずに廊下へ出ていった。靴音が階段のほうへ遠ざかっていく。
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ミナトは隣の病室の戸を開けた。
ツムギはベッドの上で汗に濡れていた。助産師が脇についてお腹に手を当て、夫は壁際に立っている。陣痛の波が引いたところなのか、ツムギは肩で息をしながら顔だけをこちらへ向けた。
「ミナトさん、髪」
浅い息の合間にそう言ってツムギは目を見開いた。
「全部、ですか」
「全部だ」
「私のせいで」
十二月、耳の上に一束だけ銀が出たときにも、ツムギは同じことを言った。
「十八で白髪かよ、って思っただけだ。それも、もう慣れた」
ツムギは笑おうとしたが、次の波が来て顔がゆがんだ。息を詰めて伸ばしてきた片手をミナトは握った。
何も流れていかない。
十月からこの手を握るたびに、胸の奥から流れ出ていくものがあった。それが届くと、お腹の中でナギが跳ねた。
空の手で握っていても、ナギは動いた。ツムギの手がぴくりと跳ねる。
「動きます」
ツムギが言った。
「ミナトさんが流してなくても。呼ぶと動く。今日は、呼ばなくても」
「ああ。分かる」
「帰るんですね」
ミナトがうなずくと、ツムギはそれ以上は聞かない。
「ナギに、会わないんですか」
「会うさ。声で」
「ナギに言っておきます。ミナトさんのこと。名前、ちゃんと教えます」
ツムギは握った手をゆるめずに続けた。
「字は、どう書くんですか」
「さんずいに、奏でるの奏。……湊」
ツムギは空いているほうの手の指で掛け布団の上に字をなぞった。さんずいを打ち、奏を上から一画ずつ書いていく。途中で波が来て指が止まり、引くのを待ってから最後の払いまで書き終えた。
「きれいな字ですね」
「母さんがつけた」
「そうですか」
ツムギは布団の上の見えない字にもう一度指を置いている。
「港に船が帰ってくるのは、凪のときなんです」
ミナトは黙って握られた手を握り返した。
「湊の字。覚えました。ナギに教えます。字も」
ツムギの指がほどけた。ミナトが手を引くと、壁際の夫が深く頭を下げた。
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ミナトが廊下へ出ると、助産師があとから出てきて戸を閉めた。
「取り上げるのは私。あなたの仕事は、今日で終わりね」
「ああ、終わった」
「終わった仕事の人が、産院にいる理由はないわ。……いてもいいけど」
「いや、行くよ」
「そう」
助産師は閉めたばかりの戸に目をやる。
「じゃあ、どこかで聞いていきなさい。産声を。取り上げたら、私が言うから。いつもの通りに。元気な、って」
助産師はしばらく黙っている。
「四十年、その先には女の子ですよ、としか言ったことがないの。男の子は生まれる前に死ぬから。今日、初めて違う先を言うのよ」
助産師は戸を開け、病室の中へ戻っていった。
ミナトは廊下の窓に寄った。降ってくる光の粒は昼に見たときよりまばらになっている。向かいの家の屋根の上で空の端が夕方の色を帯びはじめている。
ミナトは窓を離れ、階段を下りていった。




