第三十八話 産声
第七区画の交差点は凍っていなかった。
横倒しのバスも折れた街路樹もひっくり返った乗用車も、九月の夜に見たまま残っている。霜だけがどこにもない。傾いた日が割れたガラスに当たってアスファルトの上に細長い光を落としている。
産院を出てからここまで、早瀬はほとんど口をきかなかった。内地の通りでは朝に開いた窓がまだいくつも開け放されていて、窓辺に立って空を見上げている人もいる。昼から降りつづいていた光の粒は境の門を抜けるころには数えるほどになった。特区に入るとどの防衛線の壁の上でも砲台が空を向いて止まっている。電柱のスピーカーは朝からつながったきりで、いまは声を流さずにときおり小さな雑音を立てている。
早瀬の車は速度を落として交差点を抜け、二つ先の角で止まった。歯医者の壁には金属の標識が打ちつけてある。
『境界特区 第七区画 指定避難経路』
すぐ先で地下道の入口が口を開けていた。塞いでいたコンクリートは跡形もなく、階段が下へ続いている。暗がりの奥に向こうの出口が小さく四角く光っている。入口の脇の歩道では別の車で先に着いた三人が待っている。
早瀬はエンジンを切った。
「ここまでです」
キーを抜いて早瀬が言った。
「私は運転しただけです」
「ありがとう。ずっと世話になった」
早瀬は小さくうなずき、もう一度口を開いた。
「走らないで——」
そこで唇を結び、早瀬は首を横に振った。
「言うのは今日で最後、と今朝言いました。残りの一回は、使わずに取っておきます」
「歩いて行くよ」
「はい」
早瀬は真顔でうなずいて、膝の上で指を組む。
「妹は今日、満期です。十三で。昼に電話すると、母は喜んで、今朝呼んだ名前をもう一度言っていました。私が知らなかった名前を」
「よかったな」
「はい。妹の髪は、黒いままです」
早瀬は制服の胸ポケットに手を当てる。
「欄は、作りました。手帳の最後のページに」
「何て書いたんだ?」
「名前と、今日の日付です。母の欄は、それで埋まりました」
胸ポケットから指を離し、早瀬はハンドルの縁に手を置く。
「行き先の欄に、今日は、第七区画の地下道、と書きます。最後の行き先を空欄にするのは、私の欄の外なので」
ミナトはドアに手をかけた。
「ミナトさん」
「なんだ?」
「……お気をつけて」
「早瀬さんも。元気で」
ミナトは車を降りた。早瀬は運転席からフロントガラス越しにこちらを見ている。
地下道の入口からひんやりした風が吹き上がってくる。ミナトはそちらへ歩いた。
三人は間をあけずに並んでいる。カグヤは腕を組んでつま先で歩道の縁を小さく蹴り、チトセは両手を体の前で重ねている。ヒサメは左手をコートのポケットに入れて、ミナトが近づくのを見ていた。
数歩手前で立ち止まると、カグヤが先に歩いてきてミナトの前で黙って左手を突き出した。
手袋ははめていない。ミナトがその手を取ると、カグヤは握り返しもせずにしばらくじっとしていた。やがて自分の手に目を落とし、すっと引いた。
「……お礼なんて言わないからね」
「言われる筋合いもないだろ」
十月一日、一度目の襲撃のあとの補給拠点でカグヤの右肘に残った結晶を消してやったときにも、同じやりとりをした。あのときはそのあとに「任務だ」と付け足した。今日は続ける言葉が出てこない。
「……ありがとう」
カグヤはミナトの顔を見ずに言ったあとで耳を赤くした。
「耳が赤いわ」
後ろでヒサメがつぶやいた。
「うるさいわね」
カグヤは振り向いてヒサメを睨み、赤い耳のまま咳払いをひとつした。
「帰る日に話すって言ったでしょ。決めたこと、言うわ」
カグヤは引いた左手を胸の前で軽く握る。
「回収室に入る。チトセの隣で紙片を書く。火が出せなくなった手でも、字は書ける。三本の指先が硬くても、鉛筆は持てる。火神院の娘が、数えられた子たちの名前を書く。売った家の娘が。それが、私が決めたこと」
医療棟の地下の机にチトセと並んで座って鉛筆を握っているカグヤを、ミナトは思い浮かべた。湿気で字の掠れた紙片を二人で一枚ずつ書き写していく。
「それで、いいのか」
「いいのよ。書く側になれば、番号なんて要らないでしょ。それに、チトセ一人に書かせとくのは癪なのよ」
カグヤは歩道のチトセへ顎をしゃくってから自分の短い髪の毛先をつまんだ。
「もう染めないわ。この色のまま大人になるって、藤井が言ってたでしょ。この髪で二十になって、三十になる。ひと足先に慣れておくわ」
毛先を離すとカグヤは一歩下がって腕を組んだ。
カグヤと入れ替わりにチトセが前へ出た。
左手の甲に今朝の広場で擦った新しい傷が一本走っている。ミナトの手が届かなかった身体に、光の雨も届かなかった。
「答え、聞こえました。核の中で、全部」
チトセはミナトの顔をまっすぐに見上げる。
「無線でも言いました。顔を見て、もう一度言いたかったので」
「チトセが名前を覚えてたから、言えたんだ」
チトセは少しのあいだミナトを見ていたが、やがて小さくうなずいた。
「半分だったのが、全部になった。私が覚えておきます。減らない側なので」
チトセは頭を下げた。深くはない会釈で、ミナトも遅れずに返した。
「名前、覚えました。あなたの。四十人と、あなたと、あと一人」
「あなたの名前は、紙片には書きません」
「書かないのか?」
「呼んでいる人がいるなら、書かなくていいです。いるかどうかは、聞きません」
十一月の終わり、回収室でナギの名前を聞いたときの答えだった。
「俺も、覚えてる分は持って帰る」
「全部ではないですね」
「ああ、全部じゃない」
「足りない分は、私が覚えています」
チトセは少しも笑わずにそう言った。ミナトは笑いそうになって口の端だけで止めた。
「絵馬も頼めるか」
「書きます。明日から。終わったら、と言いましたから。名前のある絵馬はまだ五枚なので、何枚も。火神院さんが手伝ってくれるそうです。字が上手いかどうかは、まだ知りません」
「聞こえてるわよ」
後ろからカグヤが言った。
「聞こえるように言いました」
チトセは振り返らずにそう返し、もう一度だけ小さく頭を下げた。
顔を上げたチトセにミナトは右手を差し出した。
「握っても、何も流れませんよ」
「知ってる。握りたいだけだ」
チトセは差し出された手をしばらく見ていたが、やがて傷のある左手をそっと重ねた。冷たくも熱くもない、ふつうの手だ。十月に処置室で握ったときは医官が計器の針を見ていた。いまは誰も何も測っていない。手の甲の新しい傷はふつうの傷と同じように日にちをかけて治っていく。
「ありがとう、チトセ」
「お礼を言われることは、していません。回収係の仕事ですから」
「これは仕事じゃない」
チトセは少し考えてから、こくりとうなずいた。手が離れた。
ヒサメが残った。
朝の広場で濡れたコートをヒサメは乾いたものに着替えている。腰まで届く銀の髪の先が夕方の風に少しだけ揺れている。ヒサメはしばらくミナトの前で黙っていたが、やがてポケットから左手を出し、ミナトの右の袖を掴んだ。
「理由を、言うって言ったわね。全部注いだあとに」
「ああ、言う」
ミナトは地下道の入口に目をやった。
「向こうで、母さんが呼んでる。……俺の名前を」
ヒサメは黙ってミナトの顔を見ている。
「どんな声なの」
「普通の声だ。どこにでもいる母親の」
「そう」
身寄りのない子どもばかりの施設で育ち、名前はそこの大人が適当につけた。十月の夜、廊下の椅子に腰かけてヒサメはそう話していた。
「ここに来て四日目に、代わりはいないって言われた。この国のどこを探しても、って。向こうじゃ、代わりはいるって言われる。……母さんにだけは、いないんだ」
ヒサメは袖を掴んでいる自分の指に目を落とす。
「順番のない場所に帰るのね」
「ああ」
「温かいって、知ってる」
ヒサメは袖から目を離さずに言った。
「九月の夜から、ずっと温かかった。それで足りるわ」
ミナトは袖にかかった白い指を見下ろした。九月の夜、ヘリの座席でヒサメは無意識のうちにミナトの袖を掴んでいた。腕を引けば、指はすぐにほどける。ミナトは腕を動かさずに待った。
「あなたのいない冬を越すわ。言う相手がいなくても」
ミナトは黙ってうなずいた。
ヒサメの指が一本ずつ袖から離れていった。人差し指、中指と順にほどけ、最後の一本が布の上をすべって落ちる。生えた手はもう加減を間違えなかった。袖が軽くなった。ヒサメは離した手をコートのポケットに戻し、顔を上げてまっすぐにミナトを見た。
「呼んでる人のところへ、行って」
「……行く」
ヒサメは下がって二人の隣に並んだ。銀の髪が二つと、黒い髪がひとつ。誰も手を振らなかった。
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ミナトは三人の顔をもう一度順に見てから背を向けた。
階段を一段ずつ下りながら持って帰るものを数えた。多くはない。根元まで銀になった髪と、色の薄くなった肌と、覚えている分だけの名前。右の袖にはヒサメの指の跡が皺になって残っている。
階段を下りきると地上の物音が急に遠くなった。地下道の蛍光灯は消えたままだ。明かりになるものは何も持っていない。湿った土のにおいのする暗がりの先で、向こうの出口が四角く光っている。
最初の一歩を踏み出す前に、頭の上で放送が鳴りはじめた。
地上のスピーカーの音が階段の口から地下道の中へ下りてくる。昼から雑音しか流していなかった放送に声が乗っている。ユノの声ではない。年配の女の声と、短く交わされる指示と、金属の器具が触れ合う音。産院の三階で何度も聞いた助産師の声だ。産院を見張ってきた監視の回線を、ユノが町じゅうのスピーカーにつないだのだ。
『吸って。そう。……止めて』
『もう少しよ。ツムギさん、もう一回』
ミナトは息を詰めて暗い天井を見上げた。
言葉にならないツムギの声が長く続き、ふつりと途切れた。スピーカーは少しのあいだ雑音だけを流した。
『——元気な、男の子ですよ』
その声は地下道の中まで届いた。語尾がかすかに上ずっている。
すぐに泣き声が上がった。
赤ん坊の声だった。
九月の夜、この地下道を抜けた先でも赤ん坊の泣き声を聞いた。泣いていたのは、ビルの三階に頭が届く何かだった。
いま聞こえる泣き声は力強い。地下道の壁に跳ね返って、少し遅れてもう一度聞こえてくる。息を吸っては泣き、吐ききるとまた吸って泣く。この町で四十年ぶりに生まれた男の子の声を、九月の夜に避難を呼びかけていたスピーカーが流している。神社の絵馬掛けの下でも、回収室の番号のない箱の前でも、同じ声が鳴っている。
『ほら、ツムギさん。抱いてあげて』
布のこすれる音がして泣き声が少しだけ近くなる。
『ナギ』
ツムギの声が泣き声に重なった。
『ナギ。……お母さんだよ。ちゃんと、来たね』
そのうしろで、ツムギの夫の低い声が同じ名前を呼んだ。助産師が小さく「四十年」とつぶやくのも聞こえる。
ミナトは地下道の壁に片手をついてその声を聞いていた。
湊、と呼ぶ母の声をミナトは耳の奥で聞いた。九月から一度も聞いていないのに、少しも遠くなっていない。夕飯ができたときも、なかなか起きてこない朝も、母は同じ調子で呼んだ。
ミナトは一度だけ振り返った。
階段の上の四角い光の中に三人が立っていた。入口の脇から降り口まで出てきていたらしい。夕日を受けて、二人の銀の髪が赤く染まっている。三人ともミナトのほうを見ずに、声の降ってくる空を見上げている。ヒサメは左手を胸に当て、カグヤは左手で口を押さえている。チトセはただ上を向いていた。通りの車の中では早瀬も同じ声を聞いているはずだ。
呼べば届く距離だった。ミナトは声をかけずに前を向いた。
ユノのもとに置いてきたスマホの中には、九月のあの日の昼に届いた母からのメッセージが未読のまま残っている。
『今日は何時ごろ帰る?』
返事は、まだしていない。
ミナトは壁から手を離し、出口の光へ歩きだした。一歩ごとに四角い光が大きくなっていく。背中では産声が続いていて、その合間に、ナギ、と呼ぶツムギの声が何度も聞こえる。
泣いているのは、今度こそ、赤ん坊だった。




