冷めたココアと答え合わせ
ひとしきり話し終えた栞ちゃんは、少し目を閉じたあと、カップに口をつけた。
「…………」
「…………」
誰も、何も言わなかった。
長い間話していたからだろう。
先ほどまで温かかったはずのココアも、すっかり冷めてしまっている。
想像していたよりも、ずっと重い話だった。
母親のこと。
父親のこと。
姉のこと。
そして――栞ちゃんが何年もの間、1人で抱えてきたこと。
なんて声を掛ければいいのか、正直分からない。
大変だったな。
辛かったな。
そんな言葉で済ませていい話ではないような気がした。
「……温め直してくるよ」
「あっ、いえ。大丈夫です」
「いいから」
それ以上の遠慮を聞く前に、テーブルの上のカップを手に取る。
「雛乃のも、ほれっ」
「…………ぐすんっ」
顔をぐしゃぐしゃにした我が妹からもカップを受け取り、キッチンへ向かった。
電子レンジに2つのカップを入れる。
低い駆動音だけが、やけに大きく聞こえた。
「…………」
母親を連れて、家を出ようとしていたこと。
そのために何年も働き続けていたこと。
そして、その母親はもういない。
昨夜、公園で見つけたときの栞ちゃんの姿を思い出す。
寒空の下、薄着で。
サンダルから冷えた足を覗かせ、行く当てもなく、1人でベンチに座っていた。
今なら、少しだけ分かる気がした。
あのときの栞ちゃんが、どんな気持ちであの場所にいたのか。
――ピピッ。
電子音に思考を遮られた。
♢
温め直したココアを手に2人の元へ戻る。
そして、コーヒーを一口。
さて――
「話を戻すけど、それで、あの公園にいたのか」
昨夜、再会した場所へと話を繋ぐ。
「はい。行く当てもなく歩き続けて……気がついたら、あの場所にいました」
「さすがに色々と疲れただろ」
「はい。おかげで今朝はぐっすりでした……」
そう言って、なんとか笑顔を作ろうとしているのが分かった。
何年も前のことだから、ぼんやりとしか覚えていない。
それでも、あの家から歩くにはかなりの距離だったはずだ。
家族との出来事だって、すぐに整理できるようなものじゃない。
もしかしたら、一生抱えていくことになるのかもしれない。
「強いな、栞ちゃんは……」
「えっ……?」
栞ちゃんは、戸惑ったように俺を見つめた。
「…………」
そうだ。
それよりも――
「つまり、あのときにはもう決めてたんだな……」
7年前のあの日を思い出す。
「はい……相澤さんにお会いしたときには。ただ具体的なことを決められたのは、相澤さんのおかげです」
そう言って、栞ちゃんはどこか寂しそうに微笑んだ。
少し、考えてしまった。
俺が彼女と出会わなかったら。
母親と家を出るという願いを、実現できる目標に変える手助けをしていなかったら。
彼女は、こんなにも苦しまなくて済んだんじゃないかと。
ふと、栞ちゃんと目が合う。
けれど今度は、先ほどのように逸らされることはなかった。
「……あのぅ……」
横から、ずびずびとした鼻声が聞こえてくる。
「なんだよ……」
「さっきから、お2人の世界に浸ってません?」
「浸ってねぇよ」
「浸ってますぅ……ヒナ、完全に蚊帳の外なんですけどぉ……」
ずびぃーっと、年頃の女性が出してはいけないような音を立てて鼻をかむ。
「それに……」
「それに?」
「栞ちゃんとおにぃって、どういう関係なの?」
「…………」
ああ、そうか。
こいつ、知らないのか。
登場早々ふざけ倒したせいで、栞ちゃんと俺の関係を説明する機会を完全に失っていた。
栞ちゃんと再び目が合う。
互いに、どうしたものかと首を傾ける。
まぁ、ややこしくなっている原因は、ほぼこいつなんだけどな。
とりあえず説明くらいはしておくか。
そう思ったとき――
「相澤さんには、その……7年前に受験勉強でお世話になったんです」
「受験勉強?」
雛乃が露骨に眉を寄せる。
「おにぃ、人に教えられるほど勉強できたっけ?」
勉強が得意とまでは言わないが、こいつにここまではっきり言われるとムカつくな。
「中学から高校にかけての基礎くらいなら問題ねぇよ」
「ふーーん……おにぃが勉強をねぇ……」
「相澤さんの教え方は、とても分かりやすかったですよ?」
「栞ちゃん。無理に気を遣わなくていいからね?」
「お前は俺をなんだと思ってんだ」
栞ちゃんが、小さく笑う。
「まぁ、教えるのが上手いかどうかは別として、無事に特待生で進学できたんだな」
「はい。相澤さんのおかげです」
「いや、栞ちゃんが努力した結果だよ」
「でも、相澤さんに教えていただかなかったら、きっと――」
「俺が教えたのなんて2、3か月だろ。その後も勉強を続けたのは栞ちゃんだ」
きっかけくらいにはなったかもしれない。
だが、それを結果に変えたのは、間違いなく本人だ。
「おにぃ、むしろ邪魔してたんじゃない?」
「してねぇよ」
「じゃー、おにぃが何を教えたってのさ」
「点数の取り方、ですかね?」
栞ちゃんが答える。
「点数の取り方?」
「はい。配点の高いところや、問題を解く順番。それから、テストでの心構えや勉強習慣の作り方などでしょうか?」
「えー? それって意味あるの?」
「おかげで今があると、私は思っています」
雛乃はまだ、いまいち納得していないらしい。
俺はテーブルの上のスマホを手に取り、メモアプリを開いた。
短い数式を打ち込む。
「雛乃」
「んーー?」
「5秒以内に答えろよ。いくぞ」
「えっ、なになに?」
画面を雛乃へ向ける。
7×8×9×6×5×4×3×2×1×0=?
「これ、答えは?」
「えっ、ちょっ……」
雛乃が慌てて画面を覗き込む。
「えーっと、7かける8が56で、そこに9を――」
「5、4、3――」
「待って待って!」
「2、1。はい、時間切れ」
「ぶーぶー! 鬼畜ー!」
「で、答えは?」
「だから今考えて――あっ」
雛乃の動きが止まる。
「…………0じゃん」
「そうだな」
「…………」
「最初から順番に計算する必要なんてないだろ。最後に0を掛けるんだから、他が何だろうと答えは0だ」
「…………」
雛乃が、もう1度画面の数式を見つめる。
「あっ、そゆことか」
「試験は時間が決まってるからな。全部を真正面から解けばいいってもんでもない。取れるところから取って、分からないところは後回し。それだけでも結果は変わる」
「なるほどねぇ……」
雛乃は妙に納得したように、何度か頷く。
そして――
「つまり、おにぃは意地汚いってことだね♡」
「お前、分かってて言ってるだろ」
「えへへ♡」
まったく。
「でも、そっかぁ……」
もう1度、雛乃が頷く。
「おにぃも、たまには他人の役に立つんだね」
「まずお前が誰かの役に立ってから言え」
「…………ん?」
すると、雛乃が何かに気づいたように首を傾げた。
「でもさ」
「今度はなんだよ」
「なんで、おにぃが栞ちゃんに勉強を教えてたの?」
「…………」
もっともな疑問だった。
「家庭教師とかしてたわけじゃないんでしょ?」
「まぁ、そうだな」
「じゃあなんで?」
「それは……」
なんと説明したものか。
隣を見ると、栞ちゃんも少し言いづらそうな表情を浮かべていた。
「当時、相澤さんは……」
栞ちゃんが、1度言葉を止める。
「私のお姉ちゃ……姉と、お付き合いしていたんです」
「…………」
雛乃の動きが止まった。
「……姉?」
「はい」
「栞ちゃんの?」
「はい」
「…………」
しばしの沈黙。
やがて雛乃の視線が、ゆっくりと俺に向けられる。
表情は、なんというか――【無】だった。
「おにぃ……」
「なんだよ」
「さっきの話に出てきた……お姉さん?」
「…………」
「栞ちゃんの前でごめんだけど、控えめに言ってヤバめの、あの?」
嫌なところで察しだけはいい。
無言のまま目を逸らす。
「まぁじ?」
「…………」
できることなら否定してやりたい。
だが――
「残念ながら……」
「…………」
「そうだ」
俺の人生最大の黒歴史を、まさか妹に掘り起こされる日が来るとは……。
俺はすっかりぬるくなったコーヒーの香りを楽しむふりをして、ひと口飲んだ。
「ふぅ……」
「いや、流されねぇよ?」
「ちっ……」
「おいっ! 舌打ちすんな! マジなやつやめろー!」
妹の相手は疲れる。
だが、栞ちゃんがあそこまで話してくれたんだ。
俺も少しは、腹を割って話そう。
最後まで見届けられなかった心残りもあるしな。
それに栞ちゃんは知らないからな。
なんで美麗と別れたのかなんて。
そうして俺は、栞ちゃんに美麗との出会いと別れを話し始めた。
今思えばどうかと思うが、このときの俺は多分、聞いてほしかったのだろう。
他でもない。
栞ちゃんに。
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