エゴイスト。
8月29日、金曜日。
「おかしい……」
デスクでキーボードを叩きながら、ここ数日のことを思い返していた。
どういうわけか最近、栞ちゃんとあまり話せていない気がする。
いや、食事や掃除といった家事はいつも通り。
……いや? むしろ、いつも以上に片づけられていた。
それなのに、気がつくと。
『明日は朝早いので、お先に失礼しますね』
『お弁当はそちらに用意してありますので〜』
といった具合で、なかなか顔を合わせる時間がなかった。
いつからだ?
何かいつもと違うことがあったとすれば、月曜日に桜井先輩へ相談したことくらいだろう。
でも、なぜだ?
せいぜい一時間、帰りが遅くなっただけだ。
残業ならたまにはするし、そんなに特別なことではなかったはずだ。
それに、どこか栞ちゃんも落ち着かない様子だった。
何より、少し元気がないように見える。
どうしたものか。
そう思案していたところで、先輩の言葉を思い出す。
『自分がどうしたいのか。それを考えろ』
雛乃や栞ちゃんに、散々言ってきたことだ。
それなのに、いざ自分のことになると、それができない。
「……だっせぇな」
ため息とともに、自嘲気味な笑いがこぼれた。
栞ちゃんが今、何に悩んでいるのかはわからない。
そんな状態で自分の話をするのもどうかと思う。
けれど。
ここは少し、エゴイストに行かせてもらおう。
俺は残っていた仕事を片づけ、帰路についた。
そして、いつもと変わらぬ我が家。
栞ちゃんの待つ家へ。
◇
家に帰ると、いつもならあるはずの出迎えがなかった。
「……栞ちゃん?」
返事はない。
電気はついているし、靴もある。
家にいるのは確かなようだ。
少し胸の奥がざわつく。
恐る恐る、リビングへとつながる扉を開けた。
温かな料理の香りに包まれた部屋。
そこには、ソファに腰かけた栞ちゃんの姿があった。
テーブルには大学のノートと筆記用具。
課題でも片づけていたのだろう。
けれど、当の本人はソファで寝落ちしていた。
スマホを握りしめ、クッションを抱えたまま。
すやすやと寝息を立てている。
「きょう……すけ……さん……」
「……っ!?」
不意に名前を呼ばれ、どきりとした。
しかし、声の主は眠ったままだ。
まったく、心臓に悪い寝言をしてくれたもんだ。
そう思った、そのとき。
ごとん。
栞ちゃんが握っていたスマホが、床に落ちた。
開きっぱなしだった画面が、上を向く。
「…………」
そこに映っていたのは、一枚の写真だった。
恥ずかしそうに微笑む、浴衣姿の栞ちゃん。
そして、その隣には。
カメラとはまったく違う方向を向いている、俺。
以前、雛乃が見せてきた写真とは別のものだ。
まるで、俺と栞ちゃんのツーショットのような構図になっていた。
「…………」
数秒間、時間が止まった気がした。
「あれ……恭佐さん……お帰りなさい……」
「……え?」
寝ぼけた栞ちゃんが、こちらに両手を広げてくる。
まるで、小さな子どもを抱き止めようとするように。
……なんだ、その両手は。
まさか、抱きしめてくれるつもりなのだろうか。
「た、ただいま……その、疲れてる?」
「……へ?」
栞ちゃんは、ぱちぱちと瞬きをした。
テーブル。
床に落ちたスマホ。
そして、自分の両手。
順番に状況を整理できたのだろう。
寝ぼけていた顔が、みるみる赤くなっていく。
もしかしたら、今までで一番赤いかもしれない。
一瞬、お酒でも飲んでいるんじゃないかと心配になるほどだ。
「あ、あのののののっ!! これは! そのっ! 違うんです!!」
何やらバタバタと慌てている。
……何か違うらしい。
できれば詳しく説明していただきたいところだ。
などと、内心で意地悪なことを考えてしまう。
今日はエゴイストに行くと決めたからだろうか。
「栞ちゃん」
「は、はいっ!」
「少し、話いいかな?」
俺は慌てふためく栞ちゃんに向き合い、そう告げた。
◇
コーヒーとココアを淹れ、栞ちゃんの隣に腰を下ろす。
まだ少し動揺しているのだろうか。
いや、ここ数日のこともあるのかもしれない。
どこかそわそわしている栞ちゃんに、俺は話を切り出した。
「今後の生活について、なんだけど」
「……っ」
びくりと、栞ちゃんの肩が震えた。
ココアを一口含み、そのまま俯いてしまう。
「そう、ですよね……」
「……ん?」
ですよね?
まさか、栞ちゃんの中ではすでに何か考えていることがあるのだろうか。
「えっと……少し言いにくいんだけど」
「わかってます。恭佐さんにも、恭佐さんの人生がありますから……」
「……ん?」
まぁ、そうなんだが。
なんだろう。
微妙に話が噛み合っていない気がする。
「ああ。それでな? 今後について、ちゃんと話したくて」
「……はい……」
「その、できればなんだけど……この先、この家から……」
「……ぐすっ」
「……栞ちゃん?」
「わかってます……いつかはそうなるって……思ってましたから……」
……あれ?
どうして栞ちゃんが泣いているのだろう。
いや、待て。
どうしたらいい?
マジでどういう状況?
本当にすまん。
誰か教えてくれ!
そんな俺の願いも虚しく、しんみりとした空気が続く。
「あの、栞ちゃん……なんの話を……」
「いいんです。恭佐さんは優しい方ですから……気を遣ってくださってるのも、わかります。でもっ……」
「あのー……」
……栞さん?
「甘えてばかりじゃいけないって……甘えてばかりの私じゃ、恭佐さんのお荷物だって……」
「…………っ」
待て。
お荷物?
栞ちゃんは、自分のことをそんなふうに思っていたのか?
……いや、違う。
俺が、そう思わせるような何かをしてしまったんだ。
ああ。
俺はまた、彼女を傷つけてしまったのか。
だんだんと、自分への怒りが募っていく。
「栞ちゃん、一度しっかり……」
そこまで口にしたときには、栞ちゃんはぼろぼろと涙をこぼし、とても話せる状態ではなくなっていた。
どうする。
どうすればいい。
俺が何か言おうとした、そのときだった。
ガチャ。
玄関の扉が開く音。
スタスタスタ。
廊下を軽快に歩く足音が響く。
そして。
「バーーンッ!! 地獄に舞い降りたプリティエンジェル! アスモデウス・雛乃! 降・臨!!」
「…………」
馬鹿が、等活地獄だったこの場の空気を阿鼻地獄へ。
最下層まで、一気に突き落とした。
「あっれれー……?」
なんとなく空気を察したのだろう。
雛乃の顔が盛大に引き攣り、そして青ざめていった。
◇
雛乃は登場早々、俺たちの前にちょこんと座った。
そして、栞ちゃんに淹れたココアを一口。
「ふぅ……。さ、続けて?」
「…………」
何事もなかったかのように、話の続きを促してくる。
なんなんだ、こいつは。
よりにもよって、こんなときに。
「……栞ちゃん。その、この先のことでさ」
「……はい」
「もし、うちから出ていきたい。そう思ったなら……」
「……はい?」
「……え?」
栞ちゃんが顔を上げた。
「あの、恭佐さん。一つ伺ってもいいですか?」
「ああ」
「恭佐さんは、私がこの家から出ようとしていると考えている。ということでしょうか?」
「……まぁ、その。可能性として」
「……そうですか」
「だから、もしそう思っていたのなら。俺に止める資格はないと思ってた」
「…………」
先ほどまでとは違い、栞ちゃんはじっと俺を見つめている。
……言わないといけない。
俺の気持ちを。
「だけど、それはもうやめにした」
「……え?」
「俺は今の生活が好きなんだ。栞ちゃんがいてくれる毎日が、かけがえのないものになっている」
「…………」
「だから、栞ちゃん。この先も、栞ちゃんがここにいてくれるなら嬉しい」
……違う。
まだ恥ずかしがっているのか。
心底、臆病なやつめ。
自分で自分の尻を叩くように、言葉を紡ぐ。
「いや……栞ちゃんに、この先もここにいてほしい」
それが、俺のお願いだ。
ただの利害関係なんかじゃない。
彼女が笑って、温かく迎えてくれるこの家が。
いつしか、俺の帰る場所になっていた。
「……よ」
「「……よ?」」
不覚にも、雛乃とハモってしまった。
「よかった……よかったです……」
雛乃の登場で一度は泣き止んだ栞ちゃんが、再び涙をこぼし始めた。
「私……恭佐さんに彼女さんができたら、出ていかなくちゃいけないと思ってて……」
「……どうして急にそんなことを?」
「急に、というと少し違うかもしれませんが……でも、その不安が大きくなったのは、ついこの間のことがあったからです……」
そして栞ちゃんは、ぽつりぽつりと話し始めた。
月曜日の夜。
俺と桜井先輩が、コンビニの前で話していたところを見かけたらしい。
しかも、先輩が俺の頭を撫でていたところまで。
それを見て、俺に恋人ができたのかもしれないと思ってしまったのだという。
だから、自分はもう必要ないのではないかと。
「…………」
……何やってんだ、俺は。
まさか、あのときの光景を見られていたとは。
いや、しかし。
桜井先輩と俺が、恋人?
あの人にそんな話をしたら、また額を弾かれそうだ。
そう考えると、失礼ながら少し笑いがこぼれそうになる。
けれど、栞ちゃんにとっては笑い事じゃなかったんだよな。
ここ数日、ずっと一人で悩んでいたのだから。
「……ごめん、栞ちゃん」
「い、いえっ! 恭佐さんは何も悪くありません! 私が勝手に勘違いしてしまっただけですから……」
「いや、俺もちゃんと話しておけばよかった」
「……うぅ」
落ち込んでいた様子から一転。
今度は恥ずかしそうに、栞ちゃんがクッションへ顔を埋めてしまった。
その隣で、雛乃はやれやれといった様子でカップに口をつける。
……なんだか、どっと疲れた。
俺はなんとも言えない後味をコーヒーで流し込もうと、カップへ手を伸ばした。
しかし。
「……あれ?」
無情にも、俺の手は空を切った。
いつの間にか、俺のコーヒーは栞ちゃんの手の中に納まっていた。
「それ、コーヒーだぞ? ココアなら新しいの淹れ直すよ?」
そう言って立ち上がろうとしたところで、栞ちゃんが口を開いた。
「いえ……今はコーヒーが。これが、飲みたい気分ですので」
そう言って、一口。
涙で少し赤くなった瞳を優しく細め、カップを見つめていた。
「……そっか。それなら、俺は新しく淹れ直してくるよ」
「ヒナのもよろしく〜」
「お前は本当に何しに来たんだよ!」
「それは追々〜」
相変わらず勝手なやつだな。
心の中で悪態をつきながら、コーヒーを淹れる。
ぽたり、ぽたり。
少しずつカップに溜まっていくコーヒーを眺めながら、先ほどのことを思い返した。
『栞ちゃんに、この先もここにいてほしい』
「…………」
我ながら、自分の言葉が恥ずかしくなる。
けれど。
言えてよかった。
そう思えた。
やがて、淹れたてのコーヒーの香りが広がる。
その香りに、少しだけ心が落ち着いた。
新しいカップを手に、リビングへと戻る。
すると、栞ちゃんが笑顔で迎えてくれた。
そして。
「恭佐さん」
「どした?」
「もう、出ていってくれ〜って言われても、簡単には出ていってあげませんからね!」
「……ははっ。そりゃ困ったな」
栞ちゃんは一歩俺に歩み寄ると、先ほど淹れたばかりのコーヒーを一口。
……いや、ちょっと待て。
それ、俺のなんだけど。
「責任、取ってくださいね?」
「…………っ」
彼女は悪戯っぽい笑顔を浮かべて、俺を見上げた。
やれやれ。
どうやら、ここにも悪魔がいたようだ。
とびきり可愛い、小悪魔が。
はい。
今回も最後までお読みいただきありがとうございます。
残り10話くらい?でエンディングを迎えられそうです。
ぜひ最後まで見届けていただければと思います。
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ぜひ最後までお楽しみ下さい。
それではまた次回。




