阿呆。
8月下旬。
〜栞視点〜
「……えっ」
どくん、どくん。
心臓が、大きな音を立てています。
少し先に見えるコンビニ。
その前に、彼がいました。
帰りを今か今かとお待ちしていた、恭佐さん。
そして、その隣には。
スラリとしたスーツスタイルを格好よく着こなす、一人の女性。
すらっと伸びた背筋。
落ち着いた雰囲気。
いかにも大人の女性といった、魅力的な方でした。
何かを話しているのでしょうか。
恭佐さんが、その女性に微笑みかけます。
すると彼女も笑って。
恭佐さんの頭を、わしゃわしゃと撫でました。
「…………っ」
きゅうっと、胸が締めつけられます。
どうしてでしょう。
ただ、知り合いの方とお話ししているだけかもしれないのに。
私は、その光景から目を離せませんでした。
恭佐さんは、嫌がる素振りも見せません。
むしろ、少し照れくさそうに笑っているように見えました。
……あ。
そっか。
恭佐さんにも、私の知らない世界があるんですね。
そんな当たり前のことを、今更ながら思い知らされました。
気づけば私は、来た道を逃げるように走り出していました。
今日のお夕飯の付け合わせに使う調味料を切らしてしまったこと。
それを近くのコンビニで済ませようとしたこと。
そんな些細なことに、罰が当たったのでしょうか。
恭佐さんにも、恭佐さんの人生があります。
私が知らないお仕事での顔も。
私が知らない人間関係も。
きっと、たくさんあるのでしょう。
なのに。
そんな当たり前のことを、私は考えていなかったのかもしれません。
あの方は、どなたなのでしょう。
お仕事の先輩でしょうか。
それとも。
「…………」
嫌です。
そんなこと、考えたくありません。
私は、なんて嫌な人間なのでしょう。
恭佐さんが誰とお話ししていようと、私には関係のないことなのに。
どうして、こんなに悲しいのでしょうか。
どうして、胸が苦しいのでしょうか。
夏の暑さのせいでしょう。
頬を、汗が伝います。
慌てて手の甲で拭いました。
けれど。
どうしてでしょう。
拭っても、拭っても。
その汗は、止まりませんでした。
◇
〜恭佐視点〜
カタカタッ。
キーボードを叩く音だけが響く、静かなオフィス。
定時を過ぎ、周囲では徐々に帰宅する社員が増えていた。
そんな中、俺は一人、パソコンの画面とにらめっこをしていた。
「…………」
どうにも仕事が捗らない。
普段なら、とっくに片づいているはずのタスク。
それが今日は、なぜか終わらなかった。
「珍しいな、相澤。お前が残業なんて」
顔を上げると、桜井先輩が立っていた。
「まぁ、ここ最近してなかっただけですから」
「そうだな。ここ半年……いや、もう少しか? お前が残業しなくなったのは」
「……そうでしたっけ」
「そうだとも。以前のお前なら、頼まれもしないのに遅くまで残っていたからな」
先輩は茶化すように笑った。
「何か心境の変化でもあったのか?」
「……どうでしょうね」
自分でも不思議だった。
いつからだろう。
残業をせず、早く帰りたいと思うようになったのは。
仕事が嫌になったわけじゃない。
むしろ、以前より効率よく終わらせようと考えるようになった。
ただ。
早く帰りたい。
そう思うようになったのだ。
「まぁいい。プライベートな話まで聞き出すつもりはない。ただの戯れだ」
「……はい」
「邪魔して悪かったな。ああ、それと」
一度立ち去ろうとした先輩が、足を止めた。
「先日、榊原さんから感謝されたよ。お前のお陰で娘と話ができたとな。喜んでいた」
「そう、ですか……」
栞ちゃんがお父さんと話した日。
帰宅した彼女は、どこかすっきりとした表情をしていた。
その顔を見て、俺は安心した。
少しでも、彼女の心が軽くなったのなら。
それは喜ばしいことだ。
……けれど。
同時に、一つの不安が生まれていた。
この生活は、いつまで続くのだろう。
過去がなかったことにはならない。
けれど、これから先を選ぶことはできる。
俺自身が、彼女の背中を押した。
家族と向き合うことを勧めたのも、俺だ。
それなのに。
今更になって、彼女が選ぶ未来を怖がっている。
家族との関係が改善されれば、いつか栞ちゃんは家に帰るのかもしれない。
むしろ、それが本来あるべき姿なのだろう。
でも。
この9ヶ月。
何気ない毎日を、彼女と共に過ごして。
いつしか俺は、こんな日々がいつまでも続いてほしいと願うようになっていた。
「……桜井先輩」
「ん?」
「少し、相談いいですか?」
◇
夏の暑さが残る夜。
自宅近くのコンビニ。
その駐車場の端で、俺は桜井先輩と並んでいた。
「すみません。わざわざうちの近くまで来てもらっちゃって」
「気にするな。たまにはこういうのも悪くない」
先輩はコンビニで買ったコーヒーを片手に、軽く肩をすくめた。
「それで? 話というのは?」
「……実は」
俺は、栞ちゃんのことを話した。
もちろん、取引先の榊原さんの娘だということは伏せている。
今、一緒に暮らしている女性がいること。
最初は、責任感の方が強かったこと。
けれど、共に過ごすうちに、何気ない日常が心地よくなっていったこと。
そして。
いつか、その日常を失ってしまうのが怖いこと。
自分でも、何をどうしたいのかわからなかった。
だからせめて、客観的な意見を聞いてみたかったのだ。
「……というわけでして」
「…………」
先輩は黙ってコーヒーを口に運んだ。
しばらくの沈黙。
やがて、重い口を開く。
「そうか、相澤……」
「……はい」
「阿呆か、お前は?」
ぱちーんっ!
「いってぇっ!?」
突然、額に強烈な衝撃が走った。
「な、何すんすか!?」
「阿呆だと言ったんだ」
「いや、そうじゃなくて!」
「どうもこうもない。お前が阿呆だから、くらわせてやっただけだ」
「……なんすか、それ」
こっちは真剣に相談しているというのに。
先輩は呆れたようにため息をついた。
「つまりだな。そんなこと、自分で考えろ! そう言っただけだ」
「なっ……」
「実際に何かトラブルがあるわけでもないのだろう?」
「……まぁ、そうですけど」
「なら、考えることなんて一つだけだ」
「と言いますと?」
「かーーっ! お前というやつは!」
先輩が大げさに天を仰いだ。
「仕事では周囲に気を配れるくせに、自分のこととなると、とんだポンコツだな!」
「すんません……」
「いいか? よく聞け」
先輩は俺の額を指さした。
「お前は、その人と一緒にいたいのか?」
「…………」
一緒にいたい。
そんなこと。
答えは、決まっている。
「……はい」
「なら、それでいいじゃないか」
「……え?」
「その人がどうするかなんて、今のお前にはわからんだろう」
「……そうですね」
「だったら、まずは自分がどうしたいのか。それを考えろ」
先輩が笑う。
初めて見せる。
仕事として、ではない笑顔だった。
「相手の幸せを願うのは結構。だが、お前自身の気持ちまで、勝手になかったことにするな」
「…………っ」
言葉が出なかった。
俺はずっと、栞ちゃんがどうするのかばかり考えていた。
栞ちゃんが家に帰るかもしれない。
栞ちゃんが、いつか俺の元を離れるかもしれない。
でも。
俺自身は。
俺は、どうしたい?
「……先輩」
「ん?」
「ありがとうございます」
「ふっ。礼を言われるようなことはしていないさ」
先輩は残ったコーヒーを飲み干した。
そして、ふと何かを思い出したように俺を見つめる。
「……相澤」
「はい?」
「お前があと三年早く、うちの会社に来てくれていたらな……」
「……ん? どうしたんすか、急に?」
「…………」
先輩は少しだけ目を細めた。
それから、ふっと笑う。
「何でもないよ。ただ、頑張りたまえ。そう言っただけだ」
そう言って。
先輩は俺の頭を、わしゃわしゃと撫でてきた。
「ちょっ、先輩! 髪が!」
「ははは! いいじゃないか。どうせ帰るだけだろう?」
「いや、そういう問題じゃ……」
せっかくセットした髪が、ぐしゃぐしゃになっていく。
まったく。
人を犬か何かだと思っているのだろうか。
けれど、不思議と悪い気はしなかった。
「相澤」
「……はい」
「頑張れよ」
「……ありがとうございます」
先輩は満足そうに微笑んだ。
俺も、つられて笑っていた。
◇
桜井先輩を駅まで見送り、帰路につく。
いつもより、一時間ほど遅い帰宅。
夜になっても、夏の熱気はまだ残っていた。
歩きながら、先ほどの言葉を思い返す。
『お前は、その人と一緒にいたいのか?』
……そんなこと。
考えるまでもない。
栞ちゃんと一緒にいたい。
これからも。
あの何気ない日常を、ずっと。
ただ、それだけのことだった。
「…………」
ふと、足が速くなる。
今頃、栞ちゃんは何をしているだろう。
夕飯の支度だろうか。
それとも、雛乃とくだらない話でもしているのだろうか。
そんなことを考えていると、自然と頬が緩んだ。
……早く帰ろう。
気がついた時にはもう、俺は走り出していた。




