限界。
8月2日、土曜日。
雛乃が溶けていた。
「あーつーいー……」
リビングの床に寝そべり、手足を投げ出している。
本人はお星様などと抜かしていたが、あれではまるで干からびたヒトデだ。
「暑いならソファに座れよ。床の方が暑いだろ」
「おにぃ……何もわかってないね……」
「何がだよ」
「人間はね……限界を迎えると……床と一体化するんだよ……」
「そうか。じゃあ、そのまま床になってろ」
冷房はちゃんと効いている。
にもかかわらず、雛乃は「あつい」「とける」「むり」を繰り返していた。
栞ちゃんが苦笑いしながら、麦茶を差し出す。
「雛乃ちゃん、水分補給してくださいね」
「ありがとぉ……栞ちゃんは命の恩人だよぉ……」
雛乃は麦茶を飲み干すと、むくりと起き上がった。
「……よし」
「ん?」
「決めた」
何をだ。
雛乃は突然立ち上がると、勢いよくベランダの窓を開け放った。
むわっ。
真夏の熱気が一気に流れ込んでくる。
「おい! 暑いだろ! 窓閉めろ!」
「ふっふっふ……」
聞いちゃいねぇ。
雛乃はベランダの中央に立ち、両手を広げて風を感じ始めた。
……いや、風なんてほとんど吹いてないだろ。
そして両足を大きく開いた。
腰を落とし、片手を天に掲げる。
最後に大きく息を吸い込む。
「すぅーーっ……」
……おい。
「よぉうっ! せいっ!!」
ピシャーーッ!!
ガチャ。
ふぅ。
俺は窓を閉め、鍵をかけた。
「……恭佐さん?」
栞ちゃんが不思議そうにこちらを見ている。
「ん? どした?」
「あ、あはは……」
苦笑いする栞ちゃん。
俺は冷房の設定温度を1度下げた。
まったく。
あいつは何をしてんだか。
ドンドンドンッ!!
「おにぃ!! 開けて!!」
「…………」
ドンドンドンッ!!
「おにぃーー!!!」
無視。
「ねぇ!! ちょっと!!」
「うるせぇな。お隣さんに迷惑だろ」
ドンドンドンッ!!
「暑いの!! ねぇ!! ほんと!!」
知ってるよ。
だから窓を閉めろって言ったんだろ。
「おいっ!!」
ジジッ。
ジジジジーーッ!!
「うわっ!? セミ!! 無理無理無理!!」
どうやらベランダにセミが飛び込んできたらしい。
「ねぇ! ごめん! ごめんてぇ!!」
ドンドンドンッ!!
「おにぃ!!」
ドンドンッ!!
「お兄ちゃん!!」
ドンドンドンッ!!
「いえ、お兄様ぁ!!」
呼び方を変えても無駄だ。
「限界なの!! 私のホットがリミット迎えてるからぁ!!」
「…………」
「恭佐さん、そろそろ……」
栞ちゃんが心配そうにベランダを見る。
まあ、これ以上はご近所さんに迷惑だからな。
仕方ない。
ガチャ。
ガラガラッ。
「ふにゃぁぁ……」
窓を開けた途端、雛乃が室内へだらりと倒れ込んできた。
「はぁ……はぁ……くそおにぃ……」
床に転がったまま、こちらを睨みつけてくる。
「危うく……妖精たちに連れていかれるところだった……」
「セミだろ」
「違う……あれは……夏の妖精……」
やかましいやつだな。
そもそも自分から出ていったんだろうが。
「雛乃ちゃん、大丈夫ですか?」
栞ちゃんが心配そうにしゃがみ込む。
「だいじょばない……もう、限界……」
さっきから何回限界を迎えるつもりなんだ、こいつは。
ソルジャーとしての自覚が足りん。
「少し待っててくださいね」
そう言って栞ちゃんが冷凍庫へ向かった。
しばらくして戻ってきた栞ちゃんの手には、2人でシェアすることで有名なチューブのアイスが握られていた。
真ん中の繋ぎ目を割いて2つに分けられるコーヒー味のやつだ。
「雛乃ちゃん、これ食べますか?」
「あぁ……ありがとぉ……」
雛乃が床から手を伸ばす。
「やっぱり持つべきものは栞ちゃんだね……」
じとーっとした目で俺を睨んでくる。
自業自得だ。
むしろアイスを食べられるだけ感謝しろ。
「はい、これ」
雛乃はアイスを2つに分けると片方を栞ちゃんに差し出した。
「あ、ありがとうございます」
栞ちゃんが嬉しそうに受け取る。
うん。
悪くない光景だ。
「はい、おにぃ」
おっ、俺にもくれるのか。
そう思って差し出されたものを受け取る。
「…………」
アイスの先端だった。
なんなんだろうなこの部分。
小さな蓋のような部分。
中には、ほんのわずかなアイスが残っている。
「…………」
こいつ、また締め出してやろうか。
そんなことを考えていると、栞ちゃんと目が合った。
「…………」
栞ちゃんは俺の手元を見る。
次に、雛乃の手元。
そして、自分の手元。
順番に見比べる。
「あっ……!」
何かに気づいたように目を見開いた。
「ど、どうぞ!!」
そう言って、自分のアイスを差し出してきた。
いや、気持ちは嬉しいがそこまで食べたい訳でもない。
「大丈夫だよ。夜、あいつの分もらうから」「ええ!? 聞いてない!!」
雛乃が勢いよく起き上がった。
「今言ったからな」
さっきまで死にかけていたくせに、急に元気になったじゃねぇか。
そんな雛乃とは対照的に、栞ちゃんは何やらそわそわしていた。
手元のアイスを見つめたり、俺の顔を見たり。
そして、何かを決心したように口を開く。
「で、では……!」
「ん?」
「一口、どうぞ!」
差し出されたアイス。
栞ちゃんは両手でそれを持ち、こちらをじっと見つめている。
「おおぉーー……」
隣から妙な声が聞こえた。
雛乃だ。
何やら感心した様子で、こちらを見ている。
……なんだよ。
「……溶けちゃい……ますよ?」
栞ちゃんが小さな声で呟いた。
頬が赤い。
雛乃のせいで室温が上がったからだろうか。
いや、冷房はちゃんと効いているはずだが。
「……あ、ああ……」
俺は差し出されたアイスに顔を近づけた。
そして、そのまま一口。
ひんやりとした甘さが口の中に広がる。
「おおぉーー!! そのままいったかー! やるねぇー!!」
何やら外野がうるさい。
「…………」
ん?
ちょっと待て。
改めて状況を確認する。
栞ちゃんがアイスを持っている。
俺はそのアイスを、直接口にした。
そしてなぜ俺は手で受け取らなかったんだ?
今更ながら、その事実に気づいた。
そして、栞ちゃんを見る。
「…………」
栞ちゃんは茹だっていた。
なるほど。
これは確かに。
冷房が故障してるかもしれない。
◇
アイスを食べ終えた俺たちは、だらだらと休日を満喫していた。
テレビに映し出されているのは、レースゲーム。
アイテムを使って相手を妨害しながら、順位を競う人気タイトルだ。
雛乃がみんなでやろうと準備してきたものだった。
「飛ばすぜぇ〜!」
「雛乃ちゃん、速いですね!」
「暇なんだろ、こいつ」
「インベタのさらにインをいくぅー!」
雛乃は慣れた手つきでコントローラーを操作し、次々とショートカットを決めていく。
それに比べて、俺と栞ちゃんは安全運転だった。
まあ、俺はともかく、栞ちゃんはゲーム自体にあまり慣れていない。
「あっ」
栞ちゃんの操作するキャラクターが、コースの外へ落ちていった。
「あっ、難しいですね」
「まあでも、アイテムもあるし逆転できるよ」
「はい、頑張ります!」
そう言って、真剣な表情で画面を見つめる栞ちゃん。
「…………」
なんでも一生懸命なんだよな、この子。
そんな姿が、なんだか愛おしく感じられた。
「アイテムぅー?」
雛乃が鼻で笑った。
「そんなもので私とおにぃの差は埋まらないよ?」
……おい。
見ると、雛乃は最終ラップのゴール手前で停車していた。
「お前、何やってんの?」
俺の問いには答えず、雛乃は妙にしんみりとした声を出した。
「もう、いいよね?」
「…………?」
栞ちゃんが困惑している。
あっ、また落ちた。
「もうゴールして……いいよね?」
知らねぇよ。
勝手にしろ。
「あかん! ゴールしたらあかん!」
なんなんだよ。
さっさとゴールしろ。
ムカつくな。
そんなことをしている間に、俺もようやく雛乃に追いつこうとしていた。
雛乃は画面を見つめたまま、満足そうに微笑んだ。
「ヒナ、頑張ってよかった。だからもう、ゴールするね!」
だるっ。
栞ちゃんがいなかったら、どついているところだった。
「ゴーるぅうぇぇっ!?」
ドカーン!!
突然、雛乃のキャラクターが爆発した。
「えっ!?」
見ると、栞ちゃんが放ったアイテムが見事に直撃していた。
キノコ頭のキャラクターが宙を舞う。
「あっ! 当たりました!」
栞ちゃんが嬉しそうに声を上げる。
「ナイス、栞ちゃん!」
そして、俺の手元にはブーストアイテム。
なるほど。
これは、いけるな。
「ちょっ! 待っ……!」
雛乃が慌ててアクセルを踏む。
だが、もう遅い。
俺はブーストアイテムを使用し、雛乃のキャラクターを轢き殺……。
いや、弾き飛ばした。
ドカーン!!
「ぎゃああああ!!」
雛乃が再び宙を舞う。
その横を、俺のキャラクターが駆け抜けた。
そして。
ゴール!!
「よっしゃ、一着!」
「えっ!? 嘘!? ちょっ、待って!!」
雛乃が必死にコントローラーを操作する。
しかし、焦ったところでどうにもならない。
続いて栞ちゃんがゴール。
「あっ、やりました!」
「おお、栞ちゃんもおめでとう!」
さらに、後続のCPUたちが次々と雛乃を轢き…弾き飛ばして追い抜いていく。
「待って! 待ってってば!!」
そして。
雛乃、最下位。
「…………」
俺は窓の外を眺めた。
青空が、どこまでも遠くまで続いている。
今年も夏が来た。
◇
「なぜ……」
雛乃が呟いた。
「どうして……こうなった……?」
知らん。
舐めプしたからだろ。
しかも、雛乃の悲劇はそれだけでは終わらなかった。
その後のレースでも、栞ちゃんが神がかり的なアイテム運を発揮。
雛乃がトップを走っているときに限って、強力な妨害アイテムが飛んでくる。
そのたびに、
「なんでぇぇぇ!?」
と、悲鳴が上がった。
結局、全レースを終えた時点で、雛乃の総合順位は3人の中で最下位だった。
「…………」
雛乃が項垂れている。
俺と栞ちゃんは顔を見合わせた。
「やりましたね、恭佐さん!」
「おう!」
パチンッ。
ハイタッチを交わす。
「いやー、たまにはこうやって遊ぶのも悪くないな」
ちらっと雛乃を見る。
悔しそうな顔が、たまらなく気持ちいい。
アイテム程度とはよく言えたものだ。
「初心者にも優しいゲームで楽しかったです」
栞ちゃんが満足そうに微笑む。
確かに、ゲームの腕前による差を埋める仕組みはある。
だが、今日の栞ちゃんのアイテム運は、それだけでは説明できないものだった。
まるで雛乃を狙い撃ちにしているかのような、絶妙なタイミング。
正直、途中から笑いをこらえるのがやっとだった。
「またやりましょうね」
栞ちゃんが雛乃に向けて、無垢な笑顔を浮かべる。
「…………」
雛乃の肩がぴくりと動いた。
……ああ。
これは相当ダメージが入ったな。
そう確信した、そのときだった。
「……まだ……」
「ん? どした?」
雛乃がゆっくりと顔を上げる。
その目には、謎の闘志が宿っていた。
「まだ夏は終わらねぇ!!」
いや、そりゃ始まったばっかりだからな。
雛乃は勢いよく立ち上がると、どこからともなく一枚のチラシを取り出した。
「じゃじゃーん!!」
そこにはこう書かれていた。
『8月2日(土)花火大会開催!』
という文字。
……ん?
8月2日?
今日じゃねぇか。
「花火大会……ですか?」
栞ちゃんがチラシを覗き込む。
「そうっ!!」
雛乃が満面の笑みを浮かべた。
「さぁ、栞ちゃん!! 美容室行くよ!!」
「ふぇ?」
栞ちゃんが目を丸くする。
どうやら、雛乃の夏はまだ終わっていなかったらしい。
前回に引き続き雛乃ワールド全開でお届け致しました。
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それでは次回。
読んでいただければ幸いです。




