嵐、来る
夢を見た。
懐かしい夢。
俺がまだ、小学3年生だった頃。
高熱を出して寝込んだときのこと。
2、3日、寝ていただけ。
そう。
ただ、それだけ。
けれど――
当時の雛乃は、泣いていた。
◇
「寒っ……」
肌寒さに、自然と目が覚める。
どうやら自動オフタイマーがきっちり仕事をして、暖房を切ってくれていたらしい。
「…………」
見慣れたリビングの天井。
身体の下には、いつものソファ。
そういえば昨日は、ベッドを譲ったんだったな。
危ない危ない。
ここで俺が風邪でも引いたら、余計な気を遣わせるところだった。
時計を見る。
午前6時24分。
「早すぎるだろ……」
再び暖房をつけ、ブランケットを被り直す。
夜更かししていなかったとしても、休日に起きるには早すぎる時間だ。
目が冴える前に、二度寝を謳歌するとしよう。
俺はもう1度目を閉じ、そのまま眠りへ落ちていった。
そう。
この何気ない繰り返しが、心地よかったりする。
◇
〜栞視点〜
身体を覆う心地よい重みと、暖かな温もり。
その感覚に包まれながら、私はゆっくりと目を覚ました。
「…………」
見慣れない天井。
見慣れない部屋。
それなのに――どこか懐かしい香りがした。
ぼんやりとしていた頭が覚醒するにつれ、昨日の出来事が少しずつ蘇ってくる。
姉の、唖然とした顔。
父の、生気が抜けたような顔。
何を叫んだのかは、もうよく覚えていない。
ただ1つ、確かなこと。
私は――家族を捨てた。
そして。
7年前、私の人生が変わるきっかけをくれた人。
相澤恭佐さんと再会した。
それから――
「そっか……昨日、泊めてもらって……」
枕元に置かれたデジタル時計へ目を向ける。
午前11時17分。
「…………え?」
一瞬、思考が止まる。
「そうだ、バイト行かないと……!」
いつもなら、とっくにバイトへ向かっている時間だ。
慌てて身体を起こす。
けれど――
「…………あ」
すぐに思い出した。
「そっか……今月は、バイト休みにしてもらったんだ……」
自分で口にして、改めて実感する。
家を出た理由。
働いていた理由。
これまで、自分が必死に積み重ねてきたもの。
「何も……なくなっちゃったな……」
思わずこぼれた言葉が、自分の胸を締め付けた。
何もない、私。
これから何をすればいいのか。
どこへ行けばいいのか。
自分では、もう分からない。
それでも――
彼なら。
7年前のあの日のように、私の進むべき道を示してくれるのではないだろうか。
そんな淡い期待を胸に、私はベッドから降りた。
そして――部屋のドアを開け、リビングへと向かった。
◇
惰眠を貪る俺を叱りつけるような、手足の痺れで目を覚ました。
「いでで……」
風邪こそ引かなかったものの、さすがに身体の節々には若干の怠さが残っている。
ソファから這い出し、痺れた脚を引きずりながらトイレへ向かう。
リビングから廊下へ出ようと、ドアに手を掛けて引いた。
「ん?」
いつもより妙に軽い。
そのせいで、ドアは思いのほか勢いよく開いた。
どうやら向こう側でも、栞ちゃんがドアに手を掛けていたらしい。
「わっ……!」
ドアに引っ張られるようにバランスを崩した栞ちゃんが、そのまま俺の胸へ飛び込んできた。
「うおっ!?」
咄嗟に受け止める。
だが、痺れて感覚の鈍い脚では、2人分の体重を支えきれない。
そのまま見事にバランスを崩し、背後へと倒れ込んだ。
ゴンッ!
「――ってて……!」
盛大に後頭部をぶつけ、思わず頭を押さえる。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」
慌てて俺の顔を覗き込む栞ちゃん。
元気になったかどうかまでは分からない。
それでも、昨日の顔つきと比べれば幾分か明るさが戻っているように見えて、少しだけ安心した。
「ちょっとぶつけたけど、大丈夫……」
そう言って起き上がろうとしたところで、栞ちゃんに肩を押さえられた。
「え?」
なんで?
寝起きの頭で困惑していると、栞ちゃんが真剣な表情のまま顔を近づけてくる。
「じっとしててください……」
「…………」
どきり、と心臓が跳ねた。
近い。
あまりの距離の近さと、何が起きているのかを寝起きの頭では処理しきれず、思わず身体が固まる。
そのときだった。
玄関の外から、コツ、コツ、とリズミカルなヒールの音が響いてきた。
『ゆーあーまーそーそー、いーつーもっ♪』
「…………」
独特の発声の癖。
幼さを残しながらも、正確に音程を捉えた歌声。
そして、聞き覚えのある懐かしいアイドルソング。
まさか――
ガチャリ。
「…………は?」
無情にも、スマートロックが解除される。
そして――
「まきおーこーせっ……あ」
「げっ……」
玄関に立つ女と目が合った。
一瞬の静寂。
間違いない。
ひと言で表すなら――嵐。
すべてを飲み込み、吹き飛ばすがごとく荒れ狂う、生ける災害。
相澤雛乃
俺の実の妹が――上陸した。
◇
目を見開いたまま、玄関で完全に停止する実の妹――相澤雛乃。
肩に触れるくらいの髪は、ピンクを帯びたブラウン。
外へ跳ねた毛先と、頭の上で好き勝手に主張するアホ毛が、こいつの落ち着きのなさをそのまま表しているように見える。
年齢よりも幼く見える顔立ちに、大きな瞳。黙っていれば愛嬌のある可愛らしい女性で、昔から周囲の受けもいい。
実際、外面だけは非常にいい。
だが、その見た目に騙されてはいけない。
「…………」
俺を見る。
栞ちゃんを見る。
また俺を見る。
また栞ちゃんを見る。
その瞳の往復速度は、反復横跳びなら余裕で10点を叩き出していただろう。
しかし、そんな嵐の上陸にまだ気づいていない栞ちゃんは、俺の後頭部を確認しながら小さく息を吐いた。
「よかった……大丈夫そう」
「…………」
そう言って緊張の糸が切れたのか、そのまま俺の上へへたり込む。
栞さん?
今は、ちょーっとまずいかな?
なんか室温が、ぐんぐん下がっていってる気がするんだよね?
栞さーん?
「…………」
「…………」
「…………」
三者三様。
混沌とした空気。
その沈黙に口火を切ったのは――雛乃だった。
「初めまして〜♡」
「…………」
気色悪いほどの猫撫で声。
「ひゃっ!?」
ようやく背後の存在に気づいた栞ちゃんが、びくりと身体を跳ねさせた。
俺でなくても感じただろう。
雛乃は笑っている。
満面の笑みだ。
なのに、その笑顔の裏側から冷気が漏れている。
「私ぃ〜、雛乃〜って言います♡ あなたのお名前は?」
「あっ、そのっ、榊原栞と言いましゅ! 相澤さんにはお世話になっております!」
噛んだ。
盛大に噛んだ。
そして栞ちゃんは慌てて姿勢を正し、雛乃へと向き直った。
「っ……!」
俺の腹の上を支点にして、ぐるりと方向転換しながら。
痛い。
皮が捻れて、痛い。
人体の皮膚というものは、身体と一緒に都合よく回転してくれるわけではないらしい。
そして――
そう。
栞ちゃんは、いまだに俺の上に乗ったままだ。
「あの……栞ちゃん?」
とりあえず俺から降りてもらおうと声を掛けたところで、雛乃に遮られる。
「おに――恭佐は黙ってて!」
「…………」
今、おにぃって言いかけたよな?
というか、なんでお前が彼女面してんだよ。
「いや、まず栞ちゃんに降りてもらわないと――」
「今、私が栞ちゃんと喋ってるの!」
「だから、俺の腹の上で喋るなって」
「いいから黙ってて!」
「…………」
なんで?
お前はどの面でそれ言ってんの?
そして雛乃は、意図的にあることを隠している。
そう。
俺の妹であるということを――
「ご、ごごごごめんなさい! 私、全然知らなくて!」
「…………」
ほらみろ。
完全に勘違いしてるじゃねぇか。
「その、本当に何もしてませんから! 少しお風呂とベッドをお借りしてしまっただけで……!」
「お風呂とぉ〜?」
雛乃の口角が、わずかに上がる。
「ベッドぉ〜?」
「は、はい! でも本当に、それだけで!」
栞ちゃんが慌てて両手をぱたぱたと振る。
「いっ……!」
動くたびに腰まで動く。
そのたびに、俺の腹の皮も巻き込まれる。
栞ちゃん。
俺はいま、別の意味で大丈夫じゃない。
「昨日から?」
「は、はい……」
「2人で?」
「はい……」
「夜から?」
「…………はい」
「ふぅ〜〜〜ん♡」
「…………」
こいつ。
完全に楽しんでやがる。
「違う。色々と違――」
「恭佐は黙ってて!」
「…………」
もういい。
好きにしてくれ。
「私、本当に何も知らなくて……! ごめんなさい!」
「いいの……」
「え……?」
突然、雛乃の声が震えた。
「あなたは……悪くないから……」
「…………」
何が始まった?
雛乃がゆっくりと俯く。
「全部……恭佐が悪いの……」
「おい」
「私……ずっと信じてたのに……」
「何をだよ」
「今までのことも……全部……」
「存在しない過去を生成するな」
「もう私、恭佐のことが分かんないよっ!」
そう叫び、雛乃は両手で顔を覆った。
「…………」
だから、お前は誰なんだよ。
「あ、あの……」
栞ちゃんの声が、明らかに弱くなっていく。
対する雛乃は、顔を覆ったまま小刻みに肩を震わせていた。
迫真の演技。
なのだが――
栞ちゃんの角度から見えているかは分からない。
だが、俺からは丸見えだった。
おい。
口元。
がっつりニヤけてんぞ。
「私……私とは……!」
「…………」
雛乃が勢いよく顔を上げる。
潤んだように細めた瞳。
震える唇。
そして――
「私とは! 遊びだったの!?」
「…………」
迫真の演技だった。
だから。
お前は誰なんだよ。
「ち、違うんです! 本当に私、何も知らなくて……!」
ほらみろ。
栞ちゃんの顔が、完全に青くなっちまったじゃねぇか。
さすがに、そろそろ止めに入るか。
そう思った、そのとき。
「大丈夫……」
雛乃が力なく首を振る。
「栞ちゃんは悪くないから……」
「雛乃」
「全部……恭佐が悪いんだから……!」
「…………」
もういい。
こいつに弁明することは諦めた。
というより、そもそも俺には弁明しなければならないことなど何1つない。
土曜の昼。
いつもなら、過ぎていくのが惜しい休日の時間。
けれど今だけは、1秒でも早く過ぎ去ってほしいと心の底から願ってしまう。
栞ちゃんは青ざめ。
雛乃は悲劇の女を演じ。
俺は、いまだ栞ちゃんに腹の上を占拠されている。
この状況を説明する気力は、もう残っていなかった。
このあとに待っている妹からの追及を考えると――
3度目の睡魔に身を委ねるのも、悪くない。
そんなことを、本気で思ってしまった。
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