嵐の前の静けさ
いつもより遅い歩調で、静かな夜道を歩く。
夜も遅く、誰かとすれ違うこともなかった。
ぽつり、ぽつりと言葉を交わしたあとは、お互い口を開くこともない。
静かな夜。
2人の息遣いだけが、今、確かにここにいることを証明していた。
公園から歩くこと10分ほど。
1人暮らしには少し贅沢なマンションが見えてくる。
住戸の明かりもまばらで、静まり返ったロビーの照明が、俺たちを暖かく迎え入れた。
◇
オートロックを解除し、エレベーターに乗る。
4階建ての最上階。
エレベーターを降り、廊下の最奥へ。
406号室。
玄関の前に立ち、スマートロックに暗証番号を入力する。
ロビーでもそうだったが、栞ちゃんは暗証番号を見ないよう、さりげなく顔を逸らしていた。
「…………」
――ガチャ。
短い機械音のあと、鍵が開く。
ドアを開けると、自動で玄関の明かりが点いた。
「上がって」
どこか遠慮している彼女にそう告げ、先に靴を脱ぐ。
「お邪魔……します……」
栞ちゃんが中へ入ったのを確認し、ドアを閉める。
ガチャリ。
自動で施錠された音に、彼女の身体が一瞬びくりと揺れた。
警戒している――というよりは、どこか落ち着かない様子だ。
「あっ、お手洗いと洗面所はそこだから」
そう言って、廊下の先を指差す。
俺自身、初めて訪れる場所ではトイレの位置を把握しておきたい性分だ。
知らないと困るだろうと思い、先に伝えておいた。
「あの……早速ですが、お言葉に甘えて、お借りしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、どうぞ。タオルは掛かってるの使って。今朝取り替えたばかりだから」
どうやら、先ほどから落ち着かなかったのはトイレを我慢していたかららしい。
気づかなかったとはいえ、少し悪いことをしたかもしれない。
そう思ったが、こちらが気にするほうが恥ずかしいだろう。
何も言わず、俺はリビングへ向かった。
外よりは幾分マシだが、この薄着ではまだ寒いはずだ。
暖房をつけ、部屋を温める。
俺も冷えた身体を温め、眠気を覚ますためにコーヒーでも淹れようと、電子ケトルに水を入れた。
しばらくして、栞ちゃんが少し恥ずかしそうにリビングへ入ってくる。
「…………」
明るい場所で改めて見ると、顔色は青白く、手と指先は真っ赤になっていた。
それだけじゃない。
サンダルから覗いていた足先は、ところどころ擦り切れている。
相当余裕がなかったのだろう。
とりあえず座らせるより、ここは――
「栞ちゃん、寒かったでしょ。お風呂、そろそろ沸くから先に入ってきな」
「えっ、いつの間に? それに、お風呂までなんて……」
「帰る途中にアプリで沸かしておいた」
スマホから遠隔で風呂を沸かせる、我が家の給湯器。
通称――フロ子さん。
「最近は色々と便利だよな。それより、早く身体温めてきな。足の傷も洗っておかないと、ばい菌入るよ」
「足……?」
言われて初めて気づいたのか、栞ちゃんが自分の足元を見る。
よく見れば、手のひらにも数か所擦り傷があった。
膝の辺りも少し汚れている。
途中で躓いたり、転んだりしたのだろう。
……これは、着替えも用意しておくか。
それでもまだ逡巡している栞ちゃんの背中を押すため、俺は少しだけ軽口を叩く。
「それとも、1人で入るの怖い?」
「けっ、結構です! 自分で洗えますから……その、お風呂、お借りします……」
身体が温まったせいなのか、それとも照れているのか。
追及するのは可哀想なので、やめておこう。
「タオルと着替えは脱衣所に置いておくから。何か困ったら、浴室の通話ボタンで呼んでくれ」
脱衣所の前まで同行し、シャンプーなど家庭によって違いそうなものをひと通り説明してから、リビングへ戻る。
「ふぅ……」
ソファに腰掛け、淹れたコーヒーをひと口。
短く、深く息を吐く。
今日は色々ありすぎた。
緊張が解けたからか、どっと疲れが押し寄せてくる。
天井を仰ぎながら、これからどうしたものかと考える。
まずは、彼女の状況を把握することが先決か。
一瞬、姉である美麗に連絡することも頭をよぎった。
だが、美麗の連絡先はとっくに削除していたことを思い出す。
時計を見る。
時刻は午前2時を回ろうとしていた。
そりゃ眠くもなる。
細かいことは明日聞くとして――ふと、気になった。
もし家出なのだとしたら。
自分なら、どんなときに家出したいと思うだろうか。
「…………」
考えた。
考えた結果――分からなかった。
そう思うと、俺は家族に恵まれているのかもしれない。
試しに妹へメッセージを送り、聞いてみることにした。
『お前が家出したくなるとしたらどんな時だ?』
さすがに、こんな夜中だ。
返事は明日になるだろう。
そう思っていたのだが――
ピロン。
「早っ」
そうか。
明日は土曜日で休みだから、夜更かしでもしてるのか。
いや、もう日付は変わってるから厳密に言うと今日か。
通知を開く。
『おにぃが誰かと結婚したら、ヒナ悲しくて家出しちゃう、ぴえん』
「…………」
ふぅ。
聞く相手を間違えた俺が悪い。
そう反省し、既読だけつけてメッセージアプリを閉じた。
◇
待つこと30分ほど。
浴室のほうから、控えめなドライヤーの音が聞こえてきた。
それに合わせて立ち上がり、冷めてしまったケトルの湯をもう1度沸かす。
「お風呂と、その……お着替えまで、ありがとうございました」
「いいよ。救急箱置いておいたから。絆創膏とか必要なら使って」
そう言いながら、改めて彼女を見る。
「…………」
風呂で身体が温まったからだろう。
先ほどの青白さは消え、頬には健康的な血色が戻っていた。
艶のある黒髪は、中学生の頃と変わらない。
ただ、あの頃は肩に掛かる程度だった髪が、今では背中まで伸びている。
透き通るような肌。
おそらく、先ほどまでも化粧はしていなかったのだろう。
7年前より、顔立ちは大人びている。
それでも、どこかにあの頃の面影が残っていた。
――本当に、大人になったんだな。
すっぴんでここまで綺麗な人を見たのは、初めてかもしれない。
……まぁ、褒め言葉のつもりでも、受け取り方次第では色々と言われかねない。
口には出さないでおこう。
「じゃあ、俺も風呂入ってくるから。寝るなら、寝室のベッド使っていいよ」
「いえ、そこまでお世話になるわけには!」
「いいよ。明日休みだし。今日は疲れてるでしょ。先にゆっくり休んで」
「ありがとう……ございます」
カチッ。
電子ケトルが役目を果たしたようだ。
「そうだ。飲み物淹れるけど、夜だしコーヒーよりココアのほうがいいかな?」
「…………」
「栞ちゃん?」
何やら考え事をしていたのか、聞こえていないらしい。
仕方なく、妹が突然やって来たときのために常備させられたココアを用意する。
カップに注ぎ、俯いたままの彼女の前へそっと置いた。
「どうぞ」
「あっ……」
顔を上げた栞ちゃんを見て、言葉を失った。
今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「…………」
何か言わなければ。
そう思うのに、かけるべき言葉が見つからない。
事情も知らない俺が、下手に慰めるのも違う気がした。
「……じゃあ、俺、風呂入ってくるから」
結局俺は、逃げるようにリビングを後にした。
◇
シャワーを浴び、軽く湯船に浸かる。
酔いもすっかり醒め、逆に目が冴えてしまった。
とはいえ、朝から活動していたこともあり、身体は疲れ切っている。
15分ほどで風呂から上がり、髪を乾かす。
「そろそろ切らないとな……」
前髪が目に掛かるくらいには伸びていた。
風呂上がりに髪を乾かす時間が、俺はどうにも好きになれない。
男の俺ですら、そう思うのだ。
栞ちゃんのように髪の長い女性は、本当によくやっていると思う。
そんなくだらないことを考えながら髪を乾かし終え、リビングへ戻った。
「…………」
ソファでは、栞ちゃんが――
寝ていた。
テーブルの上には、ココアが少しだけ残ったカップ。
起こすべきか迷ったが、これだけ疲れているんだ。
今さら起こすのも可哀想だろう。
かといって、このままソファで寝かせて風邪でも引かれたら困る。
「……仕方ないか」
許可なく女性の身体に触れるのは憚られる。
けれど、こればかりは致し方ない。
そう自分に言い聞かせ、なるべく起こさないように彼女を抱き上げる。
「…………」
軽い。
そう思った。
寝室まで運び、静かにベッドへ寝かせる。
そのとき――
目元に、うっすらと残る涙の跡が見えた。
「…………」
何があったんだろうな。
聞くのは、明日でいい。
掛け布団を掛け、部屋を出る。
ココアの残りを片付けてから、俺はリビングのソファへ腰掛けた。
冴えていた頭も、だんだんとぼんやりしてくる。
そのまま横になり、ブランケットを身体に掛けた。
暖房もついている。
ひと晩くらいなら、これで大丈夫だろう。
照明を消す。
「……おやすみ」
誰に言うでもなく呟き、目を閉じた。
ピロン。
ピロン。
ピロン。
「…………」
繰り返し鳴る通知音。
薄目を開け、スマホの画面を見る。
差出人は――妹。
「…………」
俺は通知を開くことなく、そっとスマホの電源を落とした。
おやすみ、雛乃。
心の中でそう呟き、今度こそ目を閉じた。
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