あなたにとって
薄明かりの下。
遠い記憶の彼方で閉じられていた頁が、7年ぶりに開かれた。
「栞……ちゃん?」
「はい……お久しぶりです」
小さく頭を下げる女性。
やはり、そうだ。
7年前、美麗と付き合っていた頃に何度か顔を合わせた少女――榊原栞。
面影は確かに残っている。
けれど、記憶の中にいる彼女よりも背は伸び、顔立ちも大人びていた。
「久しぶり……だな」
「はい」
7年ぶりの再会。
あまりにも突然すぎて、何を話せばいいのか分からない。
いや、それよりも――
改めて栞ちゃんの格好を見る。
上下スウェットにサンダル。
上着すら持たず、こんな時間に1人で公園にいた。
今から家に……いや、もう終電はない。
それに、この格好。
もしかして――家出か?
聞きたいことはいくらでもある。
だが、こんな寒空の下でする話でもないだろう。
「とりあえずさ。俺の家、ここから近いから寄っていきなよ。終電ももうないし」
「いえ、ご迷惑ですし……」
栞ちゃんはそう言うと、肩に掛けていたジャケットへ手を添えた。
「それに、これもお返しします。相澤さんのほうが薄着になってしまいますから」
傍から見ても、大丈夫そうには見えない。
そんな状況でも自分より他人に気を配る姿に、余計に不安が募る。
「ああ、それはいいよ。俺、さっきまで飲んでて、そのあとずっと歩いてたから、身体も温まってるし」
お節介かもしれない。
けれど、放っておくことはできなかった。
「でも……」
「気にするな。それに、そんな薄着じゃ風邪引くぞ」
我ながら、少し強引だっただろうか。
だが、このまま1人にして帰るという選択肢はない。
「それに、こんな時間に1人でいたら補導されても困るし、職質なんてされたら――」
「…………」
「ん?」
なんだ?
栞ちゃんが、少し頬を膨らませているような。
「あの、相澤さん」
「はい」
妙に真剣な声に、思わず背筋が伸びる。
「私、こう見えて21歳。大人です!」
「…………あ」
そうだった。
完全に忘れていた。
いや、忘れていたというより――俺の中の栞ちゃんが、7年前で止まっていた。
当時の彼女は、まだ中学生。
その頃の感覚のまま接してしまっていたらしい。
「そうか。もう、大人……なんだな……」
「そうですよ」
少し得意げに胸を張る栞ちゃん。
再会して初めて、彼女の表情に笑顔が浮かんだ。
そうだよな。
7年も経ったんだ。
俺が21歳から28歳になったように、栞ちゃんだって当然、大人になっている。
7年。
その時間の長さを、今になってようやく実感した気がした。
そして同時に、忘れていたもう1つのことを思い出す。
後悔――というほど大袈裟なものではない。
心残り、と言ったほうが近いか。
当時、俺は栞ちゃんの高校受験を手伝っていた。
勉強のやり方を一緒に考え、苦手なところを教え、受験対策に付き合った。
けれど――俺がその結果を知ることはなかった。
結果を聞く前に、美麗と別れたからだ。
俺と栞ちゃんを繋いでいた縁は、1人の女性から始まり、その女性によって終わりを迎えた。
それ以来、榊原家を訪れることもなくなった。
挨拶をすることもないまま、その関係は唐突に終わりを告げた。
栞ちゃんは、俺のことをどう思っているのだろう。
見届けるという約束を果たせなかった、俺のことを……。
だから俺は、最終的に栞ちゃんがどこの高校へ進学したのかすら知らない。
「そういえば、栞ちゃん――」
そこまで言ったところで、ふと思う。
いや。
その話はあとでいいか。
まずは、この状況をどうにかするほうが先だ。
「……まぁ、話が逸れたけど、とりあえず俺の家まで来なよ。ここから近いから」
「…………」
「終電もないし、今から行くところも――」
言いながら、自分の発言を頭の中でもう1度再生する。
深夜。
久しぶりに会った若い女性。
家近いから寄っていきなよ。
終電もないし。
…………ん?
なんか俺、ナンパ男みたいじゃね?
「相澤さん」
「はい?」
「なんか……手慣れてます?」
じとーっとした視線。
「…………」
ほらぁー。
だよね。
そうだよね。
そう思うよね?
俺もそう思う。
「あー……酒、飲みすぎたかなぁ……」
思わず額を押さえる。
あー、反省。
7年ぶりの再会と酒のせいだろうか。
いつもよりテンションが高くなっているのが、自分でも分かる。
対する栞ちゃんは、控えめながらもニコニコと、どことなく楽しそうだった。
……もしかして、からかわれた?
いや。
今はとにかく、それどころじゃない。
ここは可及的速やかに、この状況を打開しなくてはならない。
なぜなら――
「君たち! そこで何してる!」
「…………」
声のしたほうを振り返る。
暗闇を切り裂く懐中電灯。
腰には警棒。
そして拳銃を携帯した国家権力。
そう。
警察官様のご登場である。
ほらぁ――!
ほらぁぁぁ――!
内心、自分でも訳の分からないテンションでツッコミを入れてしまった。
落ち着け。
俺は何も悪いことをしていない。
深呼吸だ。
「こんばんは。少しお話いいですか?」
「……はい」
明日が仕事休みでよかった。
いつもお勤めご苦労様です。
心の中でそう呟きながら、俺は透き通る夜空を見上げた。
そして――人生でそう何度も経験したくはない職務質問に、粛々と応じるのであった。
◇
無事に職務質問を終え、ようやく帰路につく。
警察官には身分証を確認され、栞ちゃんにもいくつか質問があった。
もちろん、何もやましいことはない。
だから問題なんて起こるはずもなかったのだが――
「ふふっ……」
隣から、小さな笑い声が聞こえた。
「……なんだよ」
「いえ」
栞ちゃんは俺のジャケットを羽織ったまま、口元を押さえている。
「相澤さんも、あんなふうに取り乱すんだなって」
「…………忘れてくれ」
「ふふっ」
「まだ笑ってるだろ」
「笑ってませんよ?」
「いや、笑ってるじゃん」
「気のせいです」
どこがだ。
どう見ても笑っている。
7年前の栞ちゃんは、俺に対してこんなふうにからかってきただろうか。
記憶を辿ってみるが、よく思い出せない。
それとも――これが、今の栞ちゃんなのだろうか。
少しだけ先を歩く彼女を見る。
そこには確かに、俺の記憶に残る少女の面影がある。
けれど、その横顔はもう、あの頃の少女のものではなかった。
7年。
俺の知らない時間を、彼女も生きてきたのだから。
「……なんだか、不思議ですね」
「ん?」
「いえ。なんでもないです」
「そう?」
「はい」
それ以上、栞ちゃんは何も言わなかった。
俺も深くは聞かなかった。
静かな夜道を、2人並んで歩く。
彼女がさっきまで何時間も1人で彷徨っていたことも。
この先どこへ行けばいいのか分からずにいたことも。
このときの俺は、まだ知らなかった。
ただ――
7年前に途切れた会話の続きをするように。
俺たちはゆっくりと、同じ場所へ向かって歩いていった。
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