刻の栞
自宅から電車で15分。
駅から5分ほど歩いたところに、俺の勤めるオフィスはある。
各々のデスクにはノートパソコンが置かれ、すでに人の姿もまばらになっていた。
壁に掛けられた時計は、午後8時を指している。
定時から残業すること1時間。
部下の進捗確認と上司への引き継ぎを済ませ、ようやく今日の仕事を切り上げる。
「相澤、今終わりか? 1杯付き合ってくれないか?」
帰り支度をしていたところで、背後から声を掛けられた。
桜井瑞稀
俺が入社した当時の教育担当であり、今でも職場で最も信頼している先輩だ。
グレーのパンツスーツを美しく着こなし、すらりとした体型にはショートカットがよく似合う。
誰に対しても分け隔てなく接する姿勢と仕事の速さは、尊敬のひと言に尽きる。
そんな彼女からのお誘い。
独り身の男に断る理由もない。
「お酌させていただきます」
「ふっ……やめてくれ。私とお前の仲だ。こういうときくらい気楽に飲ませてくれ」
「すみません。調子に乗りました」
軽口を言い合う金曜日の夜。
お互いに切羽詰まった仕事を抱えていないときは、無礼講という名目で、こうしてよく飲みに誘われる。
俺としても、先輩に遠慮なく仕事の愚痴を吐ける貴重な場だ。
これまで何度助けられたか分からない。
「桜井先輩、終電何時でしたっけ?」
久しぶりのお誘いに、つい悪ノリしてしまう。
「おいおい。もう若くはないんだ。終電までなんて飲んでいられるか」
そう言って笑う桜井先輩は、かなり酒に強い。
長い付き合いだが、潰れたところはほとんど見たことがなかった。
「先輩でも歳取るんですね」
女性に対して年齢いじりは御法度。
もちろん分かっている。
だが、先輩は別だ。
「ほう……言うようになったな、小僧」
笑っていた先輩の目が細くなる。
「飲み潰してくれる」
どこぞの魔王のような圧を放ちながら、俺を飲み屋へと連行する桜井先輩。
前言撤回。
女性への年齢いじりはダメ。
――絶対。
◇
職場の最寄り駅に隣接した建物にある、個室の座敷タイプの居酒屋。
先輩と飲むときは、大体ここだ。
人目を気にせず肩の力を抜いて飲めるのは、職場での俺たちの立場を考えても好都合だった。
「最近はどうだ? 部下の仕事ぶりは」
乾杯の生ビールをひと口で半分以上飲み干した先輩が、さっそく仕事の話を始める。
「よく働いてくれてますよ。それぞれの仕事量のバランスを調整するのには、少し苦労しましたけど」
「ははっ、少しか」
先輩が呆れたように笑う。
「少しで済ませてしまうお前の才能が、私は怖いよ」
「桜井先輩の指導の賜物ですよ。俺はただの凡人ですって」
「それを本気で言ってるから可愛くないんだ、お前は」
そんなことを言っている間に、先輩は1杯目を飲み干した。
――ガラッ。
「追加の生ビールです」
居酒屋の店員が、つまみと一緒に追加の生ビールを置いていく。
「こういうところだよ、相澤」
「何がです?」
「上司の酒は切らすな。新入社員のときに教えたことを、いまだに続けているところだ」
確かに、新入社員の頃に叩き込まれた教えではある。
もっとも――
「いや、先輩、酒を切らすと暴れるじゃないですか……」
「人聞きの悪い。教育的指導と言いたまえ」
「はいはい。いつもご指導ご鞭撻のほど、ありがとうございます」
酒の席では冗談が多くなる桜井先輩。
そんな先輩の相手をするのが、いつの間にか俺の役目になっていた。
普段の真面目な仕事ぶりからは想像できない姿を見るのは、結構面白い。
そんなことを考えていると――
――ゴンッ!
日頃のストレスを吐き出すように、桜井先輩がジョッキをテーブルへ叩きつけた。
寸前でおしぼりを滑り込ませる。
危ない。
テーブルに傷でもつけたら、店員さんに申し訳ない。
「聞け、相澤。先日の取引先の某商事のハゲがな――」
始まった。
桜井先輩は気の強そうな立ち居振る舞いをしているが、容姿もスタイルも、控えめに言って美人だ。
それゆえに、取引先の重役からたびたびセクハラすれすれのことをされるのだとか。
俺には分からない悩みがあるものだ。
心の中で合掌しながら相槌を打ち、追加の酒を注文する。
「生ビール3つと、イカ下足の唐揚げを1つ。あ、マヨネーズと七味多めでお願いします」
注文を終え、改めて先輩へ向き直る。
「聞いていたのか、相澤!」
「聞いてますよ。某商事のハゲですよね」
「その話は終わった! 今は某重工の話だ!」
「すみません。イカゲソに目を奪われてました」
「私を前にしていい度胸だな。先日も、とある企業の重役から食事に誘われた私を差し置いてイカゲソか?」
「そうですね。七味マヨは外せないっす」
「ったく……段々扱いが雑になってないか?」
「そんなことないですよ。先輩の分のビールも、ほら」
俺は手元に置かれたジョッキを指差す。
2杯。
先輩はこうなると、飲むペースが一気に上がる。
先手を打たないと、店員さんの提供が間に合わなくなるのだ。
「はぁ……有能なのも考えものだな……」
何に呆れられたのか分からない。
まぁいい。
とりあえず使命は果たした。
うん。
ゲソうま。
「それで、どうしたんです?」
先ほどの食事のお誘いについて話を戻す。
「ん? ああ、食事の話か。もちろん断ったさ」
「そうなんですか。先輩、結婚相手が見つからんとか言ってる割に、そういうのはきっぱり切り捨てちゃいますもんね」
「お前は本当に可愛くないやつだな。それと、今回は相手が悪い」
珍しく、心からの苛立ちを見せる桜井先輩。
少し言いすぎたか?
そう思ったところで、再び捲し立てるように先輩が続ける。
「大体だな! 奥さんが亡くなって間もないというのに、すぐ別の女性を口説こうとするなんて何事だ!」
「ははっ……」
まぁ、言いたいことは分かる。
そんな人が本当にいるんだな、と呆れるのと同時に――ふと、今朝見た夢が頭をよぎった。
「それに!」
どうやら、まだあるようだ。
ここまで来ると呆れを通り越して、興味すら湧いてくる。
「私と大して歳も変わらない娘がいながら、何を考えてるんだ! 27だぞ!?」
「娘さんが?」
「そうだ!」
先輩が30歳なのを考えると……。
うん。
確かにこれはキレるかもしれない。
「世の中、すごい人もいるもんですね……」
自分の家族を思い返す。
少なくとも、こういう話を聞いたあとでは随分まともに思えた。
今度実家に帰ったら、少しくらい親孝行でもしておこう。
そんなことを心の中で決めるのだった。
◇
先輩の止まらぬ愚痴を聞き続けること、2時間半。
そろそろ終電が近づいていた。
「先輩、そろそろ終電なんで会計済ませますよ。お冷置いておくので、しっかり飲んでから来てくださいね」
「ああ……いつもすまないな……」
珍しく、かなり酒が回っている。
会計を済ませ、足元がおぼつかない先輩を支えながら店を出る。
……仕方ない。
帰りの電車はなくなるが、今日は送っていくか。
ここまで酔った先輩を見るのは久しぶりだ。
万が一のことがあっても困る。
そのまま先輩を連れて駅へ向かう。
先輩の自宅には、以前にも1度だけ送り届けたことがあった。
記憶を頼りに切符を購入し、電車へ乗り込む。
それから約1時間後。
「ほら。スポドリ、ここに置いておきますからね」
「んん……相澤ぁ……」
「はいはい。鍵閉めてくださいよ」
レジ袋とスポーツドリンクを持たせ、先輩を玄関へ押し込む。
扉が閉まり、内側から施錠する音を確認する。
よし。
任務完了。
何やら扉の向こうでぼやいていた気もするが、酔っ払いの戯言だ。
聞かなかったことにしよう。
時刻は午前0時30分。
「……眠い」
小さくため息を吐く。
さすがに調子に乗って飲ませすぎた。
少し反省する。
当然ながら、ここから自宅へ戻る電車はすでになかった。
仕方なく、夜道を歩き始める。
夜になるとコートが欲しくなる程度には冷え込んでおり、朝の自分の準備不足を呪った。
◇
線路沿いを2駅分ほど歩いた頃。
住宅街にある小さな公園で、何やら若者が騒いでいた。
若者か。
……いや、俺もまだ28だ。
一応、若者でいいのか?
どうでもいいことを考えながら、そのまま通り過ぎようとする。
だが――少し様子がおかしい。
「なぁ? いいだろ? 行くとこねぇんだろ?」
公園に設置された小さな街灯。
その頼りない明かりだけでは、顔まではよく見えない。
ただ、状況は分かる。
20歳前後だろうか。
若い女性を、素行の悪そうな男2人が取り囲んでいた。
「すみません……離してください」
あまりにも力のない声。
恐怖に震えているというより、無気力。
まるで、自分が今置かれている状況にすら興味がない。
そう感じてしまうほど、女性には緊張感がなかった。
「俺たちが面倒見てやるって言ってんの。分かる? お代はこれで――」
男の1人が、女性の髪へ手を伸ばす。
――ガシッ。
気がつけば、その手首を掴んでいた。
「……あの、そろそろやめといたほうがいいと思いますよ?」
「あん?」
男の手首を放す。
すると、2人はこちらを睨みつけ、俺を囲むように立ち位置を変えた。
兄貴と違って、俺は鍛えた身体をしているわけでもない。
正直、2対1で喧嘩なんてしたくない。
というか、眠い。
絶対にしたくない。
だから――喧嘩にならない方法を選ぶ。
「あそこ」
俺は公園の入り口付近を指差した。
「防犯カメラあるんですよ。ここ、結構綺麗に顔が映るんですけど……知りませんでした?」
「何言ってんだ、コイツ……」
「いや、でも……」
1人の男がわずかに動揺する。
もうひと押しか。
「俺、このまま交番に行ってもいいんですよ?」
「は?」
「ただ、面倒なんで。今帰るなら行きません」
なるべく淡々と告げる。
「これ以上面倒なことになりたくなければ、帰ることをおすすめします」
「おい!」
男の1人が声を荒らげる。
思わず身体に力が入った。
頼む。
殴ってくるなよ。
俺、喧嘩強くないからな。
「やめとけ。めんどくせぇ。帰るぞ」
「……チッ」
2人は悪態をつきながら、逃げるように公園を出ていった。
その背中が完全に見えなくなるまで見届ける。
「…………はぁ」
よかった。
マジで。
安堵の息を漏らし、女性へ向き直った。
女性は、いまだに俯いたまま。
上下スウェットにサンダルという、この季節にはあまりにも心許ない格好をしていた。
「……寒くないのか?」
こんな時間に外を出歩くには、あまりにも心配になる格好だ。
コンビニへ行くだけだとしても、もう1枚くらい羽織るべきだろう。
さすがに、このまま放っておくのも忍びない。
俺はジャケットを脱ぎ、彼女の肩へ掛けた。
「大丈夫か?」
「…………」
一瞬。
先生に叱られて泣いていた、幼い頃の妹の姿が重なった。
こんな時間に。
こんな場所で。
どうして、そんな格好で1人でいたのか。
聞きたいことはいくらでもある。
だが、今それを問い詰めるのは野暮だろう。
とりあえず交番か?
いや。
できれば面倒事は避けたい。
何より眠い。
そんなことを考えていた、そのときだった。
「…………あの」
小さな声。
俯いていた女性が、ゆっくりと顔を上げる。
それまで影に隠れていた顔が、街灯に照らされた。
「もしかして……相澤……さん……?」
「……え?」
こんな場所で自分の名前を呼ばれるとは思っていなかった。
思わず彼女の顔を見つめる。
どこか見覚えがある。
いや。
知っている。
最近見たような。
それでいて、ずっと昔に見たような。
そんな奇妙な感覚。
記憶の奥。
深く、深く。
1つずつ手繰り寄せる。
そして――
ひときわ鮮明に残っていた、1つの記憶へ辿り着く。
ああ。
そうか。
君は――
「栞……ちゃん?」
今朝、夢に見たばかりの女。
元カノ――榊原美麗。
その妹である榊原栞が、そこにいた。
7年前に止まった刻が――
再び、動き出した。
最後までお読みいただきありがとうございます。
楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります!




