父と娘〈美蕾〉《みらい》
お母さんのお墓を後にしてからも、私たちはしばらく無言のままでした。
遠くから聞こえてくる蝉の声。
隣を歩くお父さんの横顔は、先ほどまでと変わらないはずなのに、どこか違って見えました。
お父さん。
心の中で、そう呼んでみます。
けれど、やっぱり声には出せません。
今までずっと避けてきた人と、こうして隣を歩いている。
なんだか、不思議な気持ちでした。
それでも、このまま帰りたくはありません。
まだ、話したいことがありました。
「あの……」
「どうした?」
お父さんがこちらを向きます。
私は少しだけ迷ってから、口を開きました。
「ご飯、食べませんか?」
「ご飯?」
「はい」
「どこか、お店にでも行くか?」
「いえ、その……私が作ります」
お父さんが驚いたように目を見開きました。
「栞が?」
「はい!」
「そうか。それなら、お願いしようかな」
そう言って、お父さんは嬉しそうに微笑みました。
その表情を見て、私も自然と笑顔になっていました。
◇
お父さんの車に乗り、途中のスーパーへと立ち寄りました。
店内は冷房がよく効いていて、外の暑さが嘘のようです。
「何を作るんだ?」
「そうですね……」
野菜売り場を眺めながら考えます。
せっかくですから、何か特別なものを作ったほうがいいのでしょうか。
でも、今はいつも作っているような料理がいい気がしました。
「肉じゃがにしようかな」
「肉じゃがか」
「はい。それと、お味噌汁と……」
そう言いながら、必要な食材をカゴに入れていきます。
じゃがいも、にんじん、玉ねぎ。
それから、お肉。
食材を選んでいると、お父さんが不思議そうに私を見つめていました。
「どうかしましたか?」
「いや、ずいぶん慣れているんだなと思ってね」
「そうですか?」
「ああ」
「ふふっ。いつも作っていますから」
「そうか」
お父さんはそれ以上何も言いませんでした。
ただ、私が選んだ食材を静かに見つめていました。
◇
およそ8ヶ月ぶりの実家。
車を降りた私は、懐かしい家を見上げました。
外観は、あの日と何も変わっていません。
当たり前のことなのに、なんだか不思議でした。
玄関へ向かう途中、ふと花壇が目に入りました。
お母さんが入院してからは、私が手入れをしていた場所です。
今はもう、花は咲いていません。
けれど、花壇は綺麗に整えられていました。
私はその横を通り過ぎ、お父さんの後に続いて玄関へ向かいました。
扉が開くと、懐かしい匂いがします。
……ただいま。
心の中で、そう呟きました。
けれど、その言葉も声には出せませんでした。
靴を脱ぎ、廊下を進みます。
お姉ちゃんは、いないようでした。
日中ですし、きっとお仕事か、どこかへ出かけているのでしょう。
私はそのまま台所へと向かいました。
「あ……」
思わず、声が漏れます。
懐かしい台所。
お母さんが入院してからは、私が料理を作っていました。
何度も立った場所なのに、こうして戻ってくると、少しだけ不思議な気持ちになります。
「何か、手伝おうか?」
後ろからお父さんの声が聞こえました。
「ふふっ。大丈夫ですよ」
「そうか?」
「はい。座って待っていてくださいね」
「わかった」
お父さんは素直に頷きました。
私は手を洗い、袖をまくります。
食材を並べ、包丁を手に取りました。
トントン、トントン。
まな板に包丁が当たる音が、台所に響きます。
じゃがいもの皮を剥き、にんじんを切って、玉ねぎを薄く切る。
そんな私の様子を、お父さんは少し離れたところから眺めていました。
「栞」
「はい?」
「昔から、そんなに料理が得意だったのか?」
「え?」
思わず手を止めてしまいました。
そういえば。
お父さんは、知らないんでしたね。
「お母さんが入院してからは、私が作ってましたから」
「そうだよな。考えなくてもわかる事だよな……」
「……お父さんが帰ってきたときに、ご飯がないと困るでしょう?」
私は再び包丁を動かします。
「だから、作り置きしておいたりして」
「……そうか」
お父さんが、小さく呟きました。
「帰ってきたら、いつも料理があって……」
その視線が、私の手元へと向けられます。
「ああ。あれも、こうして作ってくれていたんだな」
私は何も言わず、微笑みました。
そして、再び手を動かします。
そんなお父さんをみてようやく決心できました。
ちゃんと話そう。
今まで、言えなかったことを。
「小さい頃、私、お父さんのことが大好きだったんですよ」
そう切り出すと、お父さんは驚いたように私を見ました。
「お友達のお母さんたちが、お父さんのことを褒めてくれるのが嬉しくて」
私は懐かしい記憶を辿ります。
「『栞ちゃんのお父さん、すごい人なんだね』って。そのたびに、なんだか私まで褒められたみたいで」
「自慢だったんです」
「そう、だったのか」
「はい」
鍋の中で、お肉が小さな音を立てます。
「それに、お母さんがお父さんのことを大好きなのも、嬉しかったんです」
あの頃の光景が、目に浮かびました。
玄関の扉が開く音。
お母さんの笑顔。
お父さんの「ただいま」という声。
「お父さんが帰ってくると、お母さん、いつも嬉しそうでしたから」
懐かしい思い出でした。
けれど、いつまでもそのままではありませんでした。
「でも、いつからでしょうか」
私は、ゆっくりと息を吐きました。
「少しずつ、一緒にいられる時間が減っていきました」
お父さんは何も言いません。
「最初は、仕方ないと思っていたんです。お仕事が忙しいんだって、お母さんもそう言っていましたから」
鍋の中に野菜を入れます。
じゅう、と小さな音が響きました。
「でも、だんだんお友達から聞かれるようになったんです」
「…………」
「『栞ちゃんのお父さんは?』って」
お父さんは黙って私の話を聞いていました。
「みんな、悪気があったわけじゃないんですよ」
私は、ゆっくりと言葉を続けます。
「ただ、お友達のお父さんは学校の行事に来てくれたり、一緒に遊んでくれたりしていたから」
鍋の中を静かに混ぜました。
「私のお父さんは、どうして来ないのかなって。不思議だったんでしょうね」
お父さんは、何も言いませんでした。
「私も、わからなかったんです」
あの頃の気持ちを思い出すと、胸の奥が少しだけ苦しくなります。
「どうして、お父さんは来てくれないんだろうって」
ずっと、言えなかった言葉。
それを今、ようやく口にしました。
「……寂しかったんです」
お父さんが、ゆっくりと目を伏せました。
「本当に、寂しかった」
その言葉を最後に、しばらく沈黙が流れました。
でも、不思議と嫌な気持ちにはなりませんでした。
私はずっと、この人に聞いてほしかったのだと思います。
だから、今日はちゃんと話せてよかった。
そう思いました。
◇
しばらくして、料理が完成しました。
肉じゃがに、お味噌汁。
それから、簡単な副菜をいくつか。
特別な料理ではありません。
いつも恭佐さんたちに作っているような、ごく普通の家庭料理です。
「できましたよ」
「ああ、ありがとう」
お父さんが席に着き、私はお皿を並べていきます。
向かい合う、2つの席。
昔は、ここにお母さんもいました。
お姉ちゃんも。
家族みんなで、ご飯を食べたこともありました。
今は、2人だけ。
それでも、こうして一緒に食卓を囲むのは、いつ以来でしょう。
「いただきます」
「いただきます」
お父さんが肉じゃがを口に運びました。
何も言いません。
あれ?
もしかして、お口に合わなかったのでしょうか。
そんなことを考えていると。
「……美味しいな」
お父さんが、ぽつりと呟きました。
「本当ですか?」
「ああ。本当に美味しいよ」
その声は、少しだけ震えていました。
「ふふっ。ありがとうございます」
お父さんはもう一口、肉じゃがを食べます。
そして、箸を置きました。
「栞」
「はい」
「……今まで、すまなかった」
私は、思わず手を止めました。
「お前が、こんなに大きくなっていたことも」
お父さんは、ゆっくりと目を伏せます。
「何を考えて、どんな毎日を過ごしていたのかも。私は、何も知らなかったんだな」
私は、静かに首を振りました。
「私も、同じです」
「え?」
「お父さんが、何を考えていたのか。知ろうとしていませんでしたから」
少しだけ、言葉に迷います。
「だから、今日は来てよかったです」
お父さんは何も言いませんでした。
ただ、静かに頷きます。
それから私たちは、ゆっくりと食事を続けました。
今までのこと。
そして、これからのこと。
少しずつ、言葉を交わしていきました。
「家を出てからは、どうしていたんだ?」
お父さんが尋ねます。
「そうですね。恭佐さんと再会したんです」
「ああ、そうか、彼か……」
「最初は、本当に驚きました。まさか、あんなところで会えるなんて思っていませんでしたから」
思い出すだけで、自然と笑顔になってしまいます。
私は、嬉しくなって話し始めました。
恭佐さんと再会した日のこと。
一緒に暮らすようになったこと。
雛乃ちゃんと過ごした、賑やかな日々。
毎日のご飯。
何気ない会話。
特別なことなんて、何もない。
でも。
「今、とても楽しいんです」
私は、そう伝えました。
「朝起きて、おはようございますって言って。一緒にご飯を食べて、今日あったことを話して」
今までの日々を思い出し、つい笑ってしまいます。
「時々、雛乃ちゃんが遊びに来て……」
時々、というには少し多いかもしれません。
そんなことを考えて、また笑ってしまいました。
「本当に、毎日が楽しいんです」
お父さんは、静かに私の話を聞いていました。
「そうか。よかったな」
「はい!」
そして、ずっと伝えようと思っていたことを口にします。
「だからね」
「ん?」
「多分、これからも、この家には帰らないと思います」
お父さんは少しだけ目を伏せました。
「嫌いだからじゃ、ありません」
私は、そのまま続けます。
「今は、他に帰りたい場所があるんです」
「大切な場所が」
少しの沈黙のあと、お父さんは静かに頷きました。
「……そうか」
「はい」
「わかった」
その声は、穏やかでした。
「困ったことがあったら、いつでも相談しなさい」
お父さんは少しだけ笑いました。
「今さら、かもしれないけれどね」
私は、小さく首を振ります。
「はい。ありがとうございます」
◇
食事を終え、後片付けを済ませる頃には、随分と時間が経っていました。
窓の外には、まだ明るい夏の日差しが差し込んでいます。
「今日は、忙しいのにありがとうございました」
私は、お父さんに頭を下げました。
「いや、そんなことは……」
お父さんが何かを言いかけた、そのとき。
ブブッ。
小さな振動音が聞こえました。
お父さんのスーツのポケット。
けれど、お父さんはスマートフォンを取り出しません。
そういえば、今日は何度か同じ音を聞いた気がします。
時折、ポケットを気にしていたことも。
……そっか。
私は、ようやく気づきました。
「お仕事の連絡、たくさん来てるんでしょう?」
「え?」
お父さんが、驚いたように私を見ました。
「いや、それは……」
「ふふっ。大丈夫ですよ」
私は、小さく笑いました。
「お母さんや、私たちのために、ずっと頑張ってくれていたんでしょう?」
お父さんは、何も言いません。
「今日も、来てくれて嬉しかったです」
その言葉に、お父さんは少しだけ目を伏せました。
「でも、今度はちゃんと休んでくださいね」
「お母さんも、きっとそう言うと思いますから」
変な話ですね。
お父さんに対して、まるで小さな子どもをあやすように言うなんて。
お父さんは、しばらく黙っていました。
そして。
「ああ。そうだな」
小さく、頷きました。
◇
「それじゃあ、私、そろそろ帰りますね」
玄関で靴を履きながら、そう伝えました。
「送っていこうか?」
お父さんが尋ねます。
私は、小さく首を振りました。
「ううん。大丈夫です」
「そうか?」
「はい。今日は、歩きたい気分なので」
「そうか」
お父さんは、静かに頷きました。
「栞」
「はい」
「気をつけて帰りなさい」
「はい」
私は微笑み、玄関の扉に手をかけました。
けれど、ふと思い出して振り返ります。
「あっ……」
「どうかしたか?」
まっすぐお父さんに向き直ります。
「風邪、引いたら駄目ですよ?」
お父さんが、目を見開きました。
あの日。
家を出るとき、お父さんが私にかけてくれた言葉。
今度は、私から。
「それじゃあ」
私は、ゆっくりと息を吸いました。
今度こそ。
ちゃんと、伝えよう。
「……お父さん」
お父さんの瞳が、大きく見開かれました。
「いってきます」
しばらくの沈黙。
やがて、お父さんは小さく頷きました。
「……ああ。いってらっしゃい」
私は微笑み、玄関の扉を開けました。
◇
私は、歩き出しました。
あの日、家族に別れを告げて歩いた道を。
行くあてもなく、ただ彷徨っていた道を。
ふわりと、風が吹きます。
あの日、冬空の下で肌を突き刺した冷たい風。
けれど今は、夏の暑さを和らげる、心地よい風でした。
私は歩きます。
あの日と同じ道を。
今度は、確かな帰る場所へ。
改めて、ここまでお読み頂きありがとうございます。
物語もいよいよ終盤です。
気が付いたら20万文字超えるなーって
本当はもっとたくさん書きたいエピソードはあるのですが、本編の進行上、泣く泣くカットしてる所もございます。
本編完結後、不定期に追加エピソードを投稿すると思いますので、ぜひブックマークして通知をお待ち頂ければと思います。
とはいってもまだ数万文字はかかるのですが……
それではまた次回。




