父と娘〈憶い〉
7月
梅雨が明け、夏の日差しが日に日に強さを増していました。
そんなある日。
私は、ある決心をしました。
それは、お父さんと一緒に、お母さんのお墓参りに行くこと。
8月のお盆は、お父さんの仕事の都合で難しいそうです。
そのため、旧暦である7月のお盆に合わせて、お参りすることになりました。
……正直に言えば、まだ少し怖いです。
お父さんと2人きりで会うのは、あの日以来でしたから。
でも。
いつまでも、逃げているわけにはいきません。
そう思えたのは、きっと。
「……恭佐さん」
「ん?」
玄関で靴を履きながら、私は振り返りました。
「あの……今日、恭佐さんも……」
そこまで言いかけて、言葉を止めます。
本当は、一緒に来てほしかった。
でも、それでは駄目な気もしていました。
そんな私の気持ちを察したのか、恭佐さんは優しく微笑みました。
「今日は、お父さんと2人で行っておいで」
「……でも」
「大丈夫」
そう言って、私の手をそっと握ってくれました。
大きくて、温かい手。
それだけで、不思議と心が落ち着いていきます。
「栞ちゃんなら、きっと大丈夫だよ」
「……はい」
私は、小さく頷きました。
すると、恭佐さんは何かを思い出したように口を開きます。
「ああ、そうだ。俺もお母さんには挨拶しておきたいからな」
「……え?」
「8月にでも、行こうか」
「…………」
……それって。
私は、思わず恭佐さんの顔を見つめてしまいました。
「……恭佐さん」
「ん?」
「それは……どういう意味でしょうか?」
「……え?」
恭佐さんの表情が、ぴたりと止まります。
「……いや、その」
「……?」
「深い意味はないぞ?」
「……そうなんですか?」
「あ、ああ! ほら、同棲してるわけだし。お母さんに挨拶くらいはしておかないとなって」
「……ふふっ」
「……ん?」
「いえ、なんでもありません」
「……それに、雛乃も連れていけばいいだろ? あいつも一度、ちゃんと挨拶しておいたほうが……」
恭佐さんが、少し早口になっていました。
……ふふっ。
別に、何かを期待したわけではありません。
恭佐さんが、そんな意味で言ったわけではないこともわかっています。
ただ。
少し焦ったように言葉を重ねる姿が、なんだか可愛らしくて。
……最近、恭佐さんをからかうのが少し楽しくなってきました。
雛乃ちゃんの気持ちが、少しだけわかったような気がします。
「……栞ちゃん?」
「ふふっ。なんでもありませんよ」
「……本当か?」
「はい!」
私は、握ってくれていた手をそっと握り返しました。
「それでは、行ってきます」
「ああ。気をつけてな」
「はい!」
玄関の扉を開けると、眩しい夏の日差しが私を迎えてくれました。
……大丈夫。
そう、自分に言い聞かせます。
今日は、ちゃんと。
お父さんと向き合おう。
◇
最後にお父さんと会ったのは、去年の11月。
家を出た、あの日でした。
あれから、およそ8ヶ月。
待ち合わせ場所に現れたお父さんを見て、私は思わず息を呑みました。
「…………」
……こんな顔、していたっけ。
目の前のお父さんは以前よりも、ずっと痩せていました。
頬はこけ、目元には深い疲れが滲んでいます。
きちんと整えられた髪。
皺ひとつないスーツ。
その姿は、昔と変わらないはずなのに。
どこか、違って見えました。
……ううん。
本当に、違うのでしょうか。
もしかしたら。
私が、ちゃんと見ていなかっただけなのかもしれません。
それにしても、今日は暑いです。
じっと立っているだけでも、汗が滲んできます。
長袖で過ごすには、少し厳しいくらいの暑さでした。
それなのに、お父さんはいつもと変わらないスーツ姿。
……昔から、そうでしたね。
そんなことを考えていると、お父さんがこちらを向きました。
その瞳は、真っ直ぐに私を見つめています。
……あ。
不意に、恭佐さんの言葉が蘇りました。
『……俺には、そう思えた』
あの日。
お父さんと話をした恭佐さんが、私に伝えてくれた言葉。
そして。
お母さんの日記に残されていた、あの言葉。
『信じてあげて』
「…………」
私は、小さく息を吸いました。
……大丈夫。
今度こそ、ちゃんと向き合おう。
「……お久しぶりですね」
そう声をかけます。
本当は。
……お父さん。
そう、呼びたかった。
でも、その一言がどうしても出てきませんでした。
「ああ……久しぶりだな」
お父さんは、静かに頷きます。
「……元気にしていたか?」
「……はい」
「……そうか」
「…………」
「…………」
それきり、会話が途切れてしまいました。
何を話せばいいのか、わかりません。
きっと、お父さんも同じなのでしょう。
私たちは、並んでお墓へと向かいました。
◇
お母さんのお墓に着くと、お父さんは黙って掃除を始めました。
墓石に水をかけ、丁寧に汚れを落としていきます。
私は、その隣で花立てを洗いました。
……静かでした。
聞こえてくるのは、遠くの蝉の声と、水の流れる音だけ。
お互い、何も話しません。
ただ、目の前のことに手を動かしていました。
どれくらい、そうしていたのでしょう。
不意に。
「……千春はな」
お父さんが、ぽつりと呟きました。
「……え?」
「……昔から、優しい子だったんだ」
お父さんは、墓石を見つめたまま続けます。
「私と千春は、幼馴染でね。学生の頃から、ずっと一緒だったんだよ」
「……そう、なんですか?」
「ああ」
その口元に、小さな笑みが浮かびました。
「……父さん、昔はお金がなくてな」
「…………」
「周りの友達が持っているものも、なかなか買えなかった。遊びに誘われても、断ることが多かったんだ」
お父さんが、懐かしそうに目を細めます。
「小さい頃は、それでもよかったんだよ」
「……?」
「外で走り回ったり、鬼ごっこをしたり。そんなことだけで、十分楽しかったからね」
「……はい」
「でも、歳を重ねるにつれて、少しずつ変わっていった」
お父さんは、手にしていた布をゆっくりと動かしました。
「友達は、カラオケに行ったり、ボウリングをしたり。ファミレスで何時間も話したりするようになった」
「…………」
「もちろん、仲間外れにされたわけじゃないよ。みんな、いい友達だった」
そこで、お父さんは少しだけ笑います。
「ただ、誘われても行けないことが増えてね。気がつけば、一緒に遊ぶ機会も減っていたんだ」
「……そうだったんですね」
「ああ」
お父さんは、静かに頷きました。
「……でもね」
その声が、少しだけ柔らかくなります。
「千春だけは、変わらなかった」
「…………」
「私と一緒にいてくれたんだよ」
お父さんは、懐かしそうに空を見上げました。
「図書館で、お互いにおすすめの本を読んだり。わからないところを教え合いながら、勉強したり」
「……はい」
「たまにお小遣いが入れば、駄菓子屋に行ってね」
「10円のお菓子が当たっただの、外れただの。そんなことで、一喜一憂していたんだ」
「……ふふっ」
思わず、私は笑ってしまいました。
……お母さんらしい。
お母さんは、昔からそういう人だったのでしょう。
特別なことなんて、何もなくても。
一緒にいる時間を、大切にできる人。
「……今でも、鮮明に覚えているよ」
お父さんが、静かに呟きます。
「……でもね、栞」
「……はい」
「私は、怖くなったんだ」
「……怖い?」
「ああ」
お父さんの表情が、少しだけ曇りました。
「このままお金がなければ、いつか千春とも一緒にいられなくなるんじゃないかって」
「…………」
「千春は、そんなことを気にする子じゃなかった。今なら、よくわかる」
お父さんは、自嘲するように笑います。
「でも、当時の私は、それが怖くて仕方なかったんだよ」
「…………」
「だから、決めたんだ」
お父さんが、墓石へと視線を戻しました。
「……千春を、幸せにするんだって」
「…………」
「それからは、もう必死だったよ」
お父さんは、昔を懐かしむように語り始めました。
「とにかく勉強した。ありがたいことに、推薦ももらえたんだ」
「……はい」
「学費だって、簡単には用意できなかったからね。高校生になってからは、アルバイトも頑張った」
「…………」
「勉強して、働いて。また勉強して……そんな毎日だったな」
そう言って、お父さんは小さく笑いました。
「そして、なんとか今の会社に就職できた」
「……そうだったんですね」
「ああ。嬉しかったよ」
お父さんは、少しだけ胸を張ります。
「これで、千春を幸せにできる。そう思ったんだ」
「…………」
「それからも、必死に働いたよ」
お父さんは、ゆっくりと言葉を続けました。
「そして、千春が美麗を身ごもった」
「……お姉ちゃんを……」
「ああ」
その顔に、嬉しそうな笑みが浮かびます。
「本当に、嬉しかったなぁ」
「…………」
「家族が増えるんだ。もっと頑張らないとって、そう思ったよ」
お父さんは、懐かしそうに目を細めました。
「毎日、毎日。取引先や上司に頭を下げてね」
「……はい」
「何足も靴を履き潰したんだ」
「……靴、ですか?」
「ああ。千春には、よく呆れられたよ」
お父さんが、ふっと笑います。
「『それじゃあ、靴代のほうが高くなっちゃいますよ』ってね」
「……ふふっ」
思わず、私も笑ってしまいました。
……なんだか、想像できます。
お母さんなら、きっとそんなふうに言ったのでしょう。
困ったように笑いながら。
それでも、頑張るお父さんを応援していたのだと思います。
「……それでね」
お父さんは、ゆっくりと続けました。
「ようやく、今のように稼げるようになったんだ」
「…………」
「もちろん、私1人の力じゃない。千春が、ずっと支えてくれていたからね」
そう言って、お父さんは墓石にそっと手を添えました。
そして。
「……でも」
その声が、少しだけ低くなります。
「今思えば、その頃にはもう……私は間違えていたのかもしれないね」
「……え?」
お父さんは、遠くを見つめていました。
「……そこからは、栞も知っているとおりだよ」
「…………」
「美麗は、欲しいものがたくさんある子だったからね。……まったく、困ったものだ」
そう言って、少しだけ笑います。
けれど、その笑顔は長く続きませんでした。
「……そして、栞。お前が生まれた」
「…………」
「嬉しかったよ。本当に」
お父さんが、私を見つめました。
「家族が4人になった。ますます頑張らないとって、そう思ったんだ」
「……はい」
「だから、もっと働いた」
「…………」
「仕事を覚えて、成果を出して、少しずつ責任のある立場になって……」
お父さんの声が、次第に小さくなっていきます。
「気がつけば、家にいる時間よりも、会社にいる時間のほうが長くなっていた」
「…………」
「家に帰っても、寝るだけだったな」
お父さんは、静かに笑いました。
でも。
その笑顔は、どこか寂しそうでした。
「……千春には、ずいぶん心配をかけてしまったよ」
「…………」
「帰りが遅いと、いつも起きて待っていてくれてね」
お父さんは、墓石を優しく撫でました。
「『ちゃんと休んでくださいね』って。何度も、何度も言われたな」
「…………」
「私は、そのたびに『大丈夫だ』って答えていたんだ」
少しだけ、沈黙が流れます。
「……でも」
お父さんは、俯きました。
「本当に、大丈夫だったのだろうか」
「…………」
「……千春には、寂しい思いをさせてしまったのではないか」
その声は、とても小さなものでした。
私は、何も言えませんでした。
……お父さん。
これまで、私はずっと。
お父さんは、仕事が何よりも大切な人なのだと思っていました。
家族よりも。
お母さんよりも。
私たちよりも。
仕事を選んだ人なのだと。
……でも。
そうじゃなかったのかもしれません。
お父さんは、ただ。
お母さんを幸せにしたかった。
大切な人と、ずっと一緒にいたかった。
そのために、必死に頑張ってきた。
……なのに。
いつの間にか。
その大切な人と過ごす時間を、失ってしまっていたのです。
「…………」
お母さんの日記。
恭佐さんが、私に伝えてくれた言葉。
そして、今。
初めて聞く、お父さん自身の言葉。
私は、何も知りませんでした。
……ううん。
知ろうと、してこなかったのです。
今まで私が見てきた。
いえ。
見ようとしてこなかった、この人は。
間違いなく。
私の、お父さんでした。
お待たせしてすみません!
前後編整えてたら思ってたより時間かかっちゃいました。
ちー様とかやってる場合じゃない!
はい。
物語も終盤、どんどん行きますのでよろしくお願いします!
それではまた明日。




