春の嵐。〈前編〉
4月20日、日曜日。
春のあたたかな日差しが差し込む、気持ちのよい朝だった。
昨晩の葛藤はどこへやら、栞ちゃんはすっかり元気を取り戻していた。
「恭佐さん! 今日はとても天気がいいですよ!」
「お、おう……」
乙女心は秋の空、なんて言葉があるが、季節が春になったところで俺にはさっぱりわからない。
まあ、でも。
元気なら、それでいいか。
昨日の夜、俺の胸の中で泣いていたのが夢だったのではないか。
そんなことすら思ってしまうほど、今朝の栞ちゃんは明るかった。
「そういえば、恭佐さん」
「ん?」
「雛乃ちゃん、今週は来ませんね?」
「ああ、確かに。まあ、あいつのことだし、そのうち来るだろ」
「ですね。お昼ご飯、多めに作っておきましょうか」
「お菓子はいらないぞ」
「ふふっ。はい、神様に怒られちゃいますからね」
そう言って笑う栞ちゃん。
その笑顔を、つい目で追ってしまう。
……と。
ふと、以前起きた出来事が脳裏によみがえった。
◇
とある休日。
「……栞ちゃんさ」
「はい? どうしました、雛乃ちゃ……」
むぎゅっ。
「ふぇええっ!? ひ、雛乃ちゃんっ!?」
突然の出来事に、栞ちゃんが素っ頓狂な声を上げた。
……いや、無理もない。
なぜなら雛乃が、栞ちゃんの胸を両手で揉み始めたからだ。
「…………」
「ひ、雛乃ちゃん!? な、何を……っ!」
そんな栞ちゃんの狼狽などお構いなしに、雛乃は妙に真剣な表情を浮かべていた。
何かを確かめるように、両手を動かしている。
「……もしかして、栞ちゃん」
「は、はいっ!?」
「少し、太った?」
「……えっ?」
今度は手を離し、栞ちゃんのお腹周りへと移動する。
「ひゃあっ!? ちょ、ちょっと雛乃ちゃん!」
「んー。これはこれは……」
パチーンッ!!
「いったぁーーーー!!」
ちょうど手元にあった雑誌で、雛乃の頭をひっぱたいた。
「……おにぃ!?」
「やりすぎだ、あほ」
「なぁにすんの!!」
「それはこっちの台詞だ!」
「おにぃだって見てたくせに!!」
「なっ!? お前な!!」
……いや。
確かに見てはいた。
突然の出来事に、止めるタイミングを失ってしまったというか。
決して、そういうつもりでは……。
「…………」
「……っ」
ふと、栞ちゃんと目が合った。
息を弾ませ、頬を真っ赤に染めている。
潤んだ瞳が、じっとこちらを見つめていた。
「…………」
……いや。
だから、違うんだって。
「あーーっ!!」
「……っ!?」
「今、おにぃやらしぃーいこと考えてたーー!!」
「うっせぇ!!」
◇
「……恭佐さん?」
「……ん?」
「どうかしましたか?」
「いや、何でもないよ」
栞ちゃんの声で、意識が現実へと引き戻された。
……危なかった。
いや、何が危なかったのかは、いまいちよくわからんが。
どこに地雷が埋まっているかわかったもんじゃない。
ちなみに俺は、マインスイーパーが苦手だ。
……勘弁してくれ。
それからは、2人で他愛のない会話を交わしながら朝食を楽しんだ。
休日の朝食当番は、基本的に交代制だ。
だが今日は、栞ちゃんが「私が作ります!」と言って譲らなかった。
本当は公平に分担したいところだが、本人がやりたがっているのを無理に奪うのも違うだろう。
そのぶん、掃除や片付けで帳尻を合わせればいい。
そんなことを考えながら朝食を終え、俺はキッチンで食器を洗っていた。
「……恭佐さん」
「ん?」
ソファでくつろいでいた栞ちゃんが、こちらに声をかけてきた。
その表情は、先ほどまでとは打って変わって真剣だった。
手元のスマートフォンを、じっと見つめている。
「どうしたんだ?」
「いえ、雛乃ちゃんなんですけど……」
「ん? あいつがどうした?」
「いつもなら、メッセージを送るとすぐに返ってくるんです。でも、今日は全然返信がなくて……」
「トイレにでも籠ってんじゃないのか?」
「もうっ!! 恭佐さん!」
栞ちゃんが、少しだけ頬を赤くした。
その反応が可愛らしくて、ついからかってしまう。
「ごめんごめん。それで、いつから連絡ないんだ?」
「えっと……2時間くらいでしょうか」
「2時間か……」
時計を見る。
時刻は、午前10時を少し回ったところだった。
確かに、いつもの雛乃なら、とっくに何かしら連絡を寄越していてもおかしくない。
とはいえ、まだ2時間だ。
寝坊でもしているんだろう。
「……電話でもかけてみるか」
「はい。お願いします」
俺はスマートフォンを取り出し、雛乃に電話をかけた。
しかし。
『おかけになった電話番号は、現在電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため……』
「……ん?」
無機質な音声案内が流れてきた。
「繋がんないな。充電でも切れてんのか?」
「……それは、少し心配ですね」
「んー……気になるなら、母さんにでも聞いてみるか?」
「お願いしてもいいですか?」
「ああ、全然かまわないよ」
今の時間なら、母さんは店の開店準備をしている頃だろう。
実家の電話番号を呼び出し、発信ボタンを押した。
数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた声が返ってくる。
『はい、相澤食堂です』
「もしもし、母さん?」
『あら、恭佐。どうしたの?』
「ちょっと聞きたいんだけどさ。雛乃のスマホ、電源入ってないみたいなんだよ。あいつ今、何してる?」
『え? 雛ちゃん?』
「ああ」
『……いないわよ?』
「ん? 珍しいな。母さん、何か聞いてる?」
『聞いてるも何も……恭佐、あなた一緒じゃないの?』
「…………え?」
思わず、聞き返してしまった。
『えって……雛ちゃん、金曜日からこっちに帰ってきてないわよ?』
「……は?」
金曜日?
……ちょっと待て。
今日は20日。
つまり、金曜日の夜から帰ってきていないということか?
『母さん、てっきりあなたのところに泊まってるんだと思ってたわよ』
「いや、こっちは何も聞いてないぞ?」
『……そうなの?』
「ああ。少なくとも、うちには来てない」
『…………』
電話の向こうで、母さんが黙り込んだ。
……おいおい。
どういうことだよ。
ふと顔を上げると、栞ちゃんと目が合った。
俺の様子がおかしいことに気づいたのだろう。
心配そうに、こちらを見つめている。
……まずいな。
これ以上、栞ちゃんを不安にさせるわけにもいかない。
「……わかった。とりあえず、こっちでも探してみるわ」
『……恭佐』
「母さんは店の準備があるだろ? 何かわかったら連絡するから」
『……ごめんなさいね。私も、連絡しておけばよかったわ』
「いや、連絡しないあいつが悪い。後でちゃんと連絡させるよ」
『ええ……ありがとう。雛乃のこと、お願いね』
「……はいよ」
通話を切る。
そして、深く息を吸った。
「……恭佐さん」
栞ちゃんが、不安そうに俺の名前を呼ぶ。
「……悪い、栞ちゃん」
「……はい」
「雛乃のやつ、今どこにいるのかもわかんない」
「……え?」
「金曜日から実家に帰ってないらしいんだ。母さんは、うちに泊まってると思ってたみたいでさ」
「そ、そんな……」
栞ちゃんの表情が、みるみる曇っていく。
……くそ。
あいつ、何やってんだよ。
いつもなら、頼んでもいないのに顔を出しては、冷蔵庫を漁って帰っていくようなやつだ。
それが、2日も連絡なし?
しかも、スマホの電源まで切れている。
……嫌な予感がする。
「……変なことに巻き込まれてんじゃないだろうな」
窓の外へ目を向ける。
つい先ほどまで、あたたかな日差しが差し込んでいたはずなのに。
いつの間にか、空には暗い雲が広がっていた。
春の穏やかな朝を覆い隠すように。
まるで、これから訪れる嵐を予感させるかのようだった。
いよいよ物語も残すところ1/3ほど、終盤?に差し掛かって来ました。
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