わがまま。
風呂から上がり、リビングへ戻る。
そこには、先ほどと変わらずソファに座る栞ちゃんの姿があった。
膝の上には、1冊の日記帳。
どうやら、読み終えたところらしい。
「栞ちゃん」
声をかける。
しかし、返事はなかった。
「……栞ちゃん?」
もう一度呼んでみる。
どうやら、聞こえていないらしい。
……まぁ、無理もないか。
俺には、そこに何が書かれていたのか分からない。
ただ、彼女の様子を見る限り、簡単に受け止められるような内容ではなかったのだろう。
……余計なものを背負わせてしまったのではないか。
そんな不安が、胸をよぎる。
ふと、テーブルの上に置かれたカップが目に入った。
すっかり冷めてしまったであろうココア。
俺はそのカップを手に取り、キッチンへ向かった。
せめて、温かいものでも飲んでもらおう。
新しく淹れ直したココアを持って、彼女のもとへ戻る。
そっとテーブルに置くと、ようやく気がついたようだった。
「……あっ、恭佐さん」
「おう。ただいま」
「……おかえりなさい」
栞ちゃんは、小さく笑った。
けれど、その笑顔はどこかぎこちない。
「ココア、冷めてたから淹れ直したよ」
「……ありがとうございます」
彼女はカップを見つめた。
そして、少しだけ考えるような素振りを見せる。
「……あの、恭佐さん」
「ん?」
「その、ココアなんですけど……」
「うん?」
「……アイスがよかったです」
「…………え?」
思わず、間の抜けた声が出た。
いや、今?
このタイミングで?
しかも、わざわざ淹れ直したんですけど?
そんな俺の顔を見て、栞ちゃんは口元を押さえた。
「……ふふっ」
そして、堪えきれなくなったように笑い始めた。
「冗談です。さっきの意地悪は、これで許してあげます」
「……意地悪?」
「はい。『自分で考えろ』って」
「……ああ」
なるほど。
どうやら、根に持っていたらしい。
「勘弁してくれよ……」
「ふふ。恭佐さんが悪いんですよ?」
「はいはい。悪かったよ」
そう言って、彼女の隣へ腰を下ろす。
……まったく。
あいつの悪いところまで真似しなくてもいいのに。
もっとも。
こうして冗談を言えるくらいには、落ち着いたのだろうか。
少なくとも、そう思いたかった。
しばらく、沈黙が続いた。
栞ちゃんは、膝の上の日記帳に視線を落としている。
俺は何も言わず、彼女の言葉を待った。
「……恭佐さん」
「ん?」
「私、信じてみようと思います」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「お母さんを。お母さんが信じた、お父さんを」
「……そうか」
「今までのことを許せるかは、分かりません」
その声は、少しだけ震えていた。
「でも、ちゃんとお父さんの口から聞かなきゃいけない。そう思ったんです」
「……うん」
「今すぐに、とは言えません。まだ、心の整理ができていませんから」
「ああ」
「それでも、いつか必ず向き合いたいと思います」
「……そうだな」
俺は、それ以上何も言わなかった。
彼女が自分で考え、出した答えだ。
俺が口を挟むことじゃない。
……強い子だな。
改めて、そう思う。
きっと、大丈夫だ。
そう信じている。
でも。
だからといって、何もかも1人で抱え込む必要はない。
「……ですので、恭佐さん」
「ん?」
「ひとつだけ、わがままを聞いてもらえますか?」
俺は思わず笑った。
「いいよ。なんでも言ってくれ」
「……本当ですか?」
「もちろん」
「では、お言葉に甘えて」
そう言って、栞ちゃんは日記帳をテーブルに置いた。
次の瞬間。
ふわりと、甘い香りが鼻先をくすぐった。
「……っと」
気がつけば、栞ちゃんが俺の胸に飛び込んできていた。
ぎゅっと、服を掴む小さな手。
突然のことで少し驚いたが、すぐにその背中へ手を回した。
「……栞ちゃん?」
返事はない。
ただ、俺の胸に顔を埋めたまま、じっとしている。
……そうか。
俺は、彼女の頭をそっと撫でた。
「……お母さん」
かすかに、声が漏れた。
その手は、小さく震えていた。
「……お母さん……っ」
やがて、胸元に温かなものが染み込んでくる。
俺は何も言わず、ただ彼女を抱きしめた。
……無理もないよな。
どんな日記だったのかは分からない。
でも、きっと。
そこには、彼女の知らなかった家族の姿があったのだろう。
幸せだった頃の思い出も。
お母さんが抱えていた気持ちも。
そして、もう二度と戻れない時間も。
今まで、ずっと頑張ってきたんだ。
お母さんに心配をかけないように。
誰にも迷惑をかけないように。
自分の気持ちを、後回しにして。
……だからさ。
今日くらい、いいじゃないか。
泣きたいなら、泣けばいい。
つらくなったら、頼ってくれればいい。
逃げたくなったら、少しくらい逃げたっていい。
俺にできることなんて、たかが知れている。
彼女の過去を変えることはできない。
失った時間を取り戻すことも。
ましてや、お母さんの代わりになんてなれない。
それでも。
こうして胸を貸すことくらいなら、いくらでもできる。
俺は、彼女の背中をゆっくりと撫で続けた。
……栞ちゃん。
今すぐ、答えを出さなくてもいいんだよ。
焦らなくていい。
ゆっくりでいいから。
だから、今日は。
ゆっくり、おやすみ。
はい。
本日も読んでくださりありがとうございます。
重たい話が続きましたが、いかがでしたか?
全体のプロットの7割くらいの進捗でしょうか?
ハッピーエンドまできっともうすぐです。
賑やかな日常も戻って参ります。
ぜひ最後まで見届けていただければ幸いです。




