母の日記。
〜栞視点〜
最初の頁には、1枚の写真が貼られていました。
小さな赤ちゃんを抱いた、お母さん。
その隣には、今よりずっと若いお父さんが、少し照れくさそうに笑っています。
写真の下には、見慣れた母の文字が綴られていました。
『栞が生まれた日』
私は、そっと頁をめくりました。
◇
今日、栞が生まれました。
元気な女の子です。
お父さんったら、仕事を途中で切り上げて病院まで飛んできたんだから。
美麗のときは海外出張で、出産に立ち会えなかったものね。
その分、今回は張り切ってしまったみたい。
抱っこする手が震えていて、見ているこっちが心配になっちゃった。
でも、あんなに嬉しそうな顔をするあなたを見るのは、久しぶりだったわ。
これから4人で、幸せな家庭を築いていきましょうね。
◇
栞が初めておしゃべりしました。
最初の言葉は、なんと「まんま」。
お父さんは「パパじゃないのか」と、少し残念そう。
ふふ。
そんなに落ち込まなくてもいいじゃない。
次はきっと、パパって呼んでくれるわよ。
◇
栞が初めて立ちました。
まだ足元がおぼつかなくて、すぐに尻もちをついてしまうけれど。
それでも、何度も立ち上がろうとするの。
お父さんは、その姿をずっとビデオに撮っていました。
もう、そんなに撮ってどうするのかしら。
◇
栞が歩きました。
小さな足で、一歩、また一歩。
お父さんのところまで歩いていったの。
お父さんったら、嬉しくて泣いちゃった。
本人は目にゴミが入ったなんて言っていたけれど。
ふふ。
そんなわけないでしょう?
◇
栞が保育園に入園しました。
初めての集団生活。
泣いてしまわないか心配だったけれど、どうやら私の取り越し苦労だったみたい。
お姉ちゃんの美麗と一緒に、元気いっぱい。
お迎えに行くと、今日あった出来事を一生懸命に話してくれるの。
お父さんにも聞かせてあげたいな。
◇
栞が小学校に入学しました。
少し大きなランドセルを背負って、嬉しそうに笑う栞。
お父さんも今日はお休みを取ってくれました。
久しぶりの家族写真。
4人で並んで撮った写真は、私の宝物です。
◇
最近、お父さんの仕事が忙しいみたい。
帰ってくる時間も、少しずつ遅くなってきました。
美麗は新しい洋服を買ってもらって大喜び。
でも、ちょっと物を与えすぎじゃないかしら?
このままじゃ、わがままな子になっちゃうわよ。
栞は、そんなことないみたいだけれど。
欲しいものはないのかと聞いても、首を横に振るばかり。
……本当に、ないのかしら?
◇
久しぶりに家族でお出かけする予定だったのに。
お父さんに急なお仕事が入ってしまった。
美麗は怒っていたけれど、栞は何も言いませんでした。
「お父さん、お仕事だから」
そう言って笑う栞。
……本当に、いいの?
◇
最近、家族みんなで写真を撮る機会が減ってきちゃったな。
アルバムを見返してみると、私と娘たちの写真ばかり。
お父さんも忙しいのは分かるけれど。
たまには、一緒に過ごしてほしいな。
◇
栞が中学生になりました。
制服姿がとっても似合っています。
お父さんにも見せてあげたかったのだけれど、今日はどうしても外せない仕事があったみたい。
残念ね。
最近、栞の口からお父さんの話を聞くことが少なくなりました。
昔はあんなに「パパ、パパ」って言っていたのに。
……いつからだったかしら。
◇
お父さんに、家族で旅行でもしないかと相談しました。
でも、仕事が忙しいから難しいみたい。
「栞なら大丈夫だろう。それより、お前の身体のほうが心配だ」
そう言われちゃった。
確かに、最近は体調があまりよくなかったから。
でも。
栞が大丈夫かどうかは、栞が決めることじゃないかしら。
◇
入院することになりました。
しばらくは家に帰れないみたい。
私の分まで栞は、家のことを頑張ってくれているみたい。
お父さんも忙しいのに。
……栞。
家のことを全部任せてしまって、ごめんなさい。
◇
最近、栞がよく笑うようになりました。
何かいいことでもあったのかしら?
聞いてみても、教えてくれないの。
でも、どうやら何か目標ができたみたい。
勉強も、今まで以上に頑張っている。
ふふ。
好きな人でもできたのかしら?
……お父さん。
栞と、ちゃんとお話しできている?
◇
今日は、栞の元気がありませんでした。
どうしたのかと尋ねても、
「大丈夫」
それだけ。
何度聞いても、同じ答え。
昔は何でも話してくれたのに。
私の身体が元気だったら、もっと一緒にいてあげられるのに。
こんなときばかりは、自分の病気が恨めしくなります。
お父さん。
どうか、栞を支えてあげて。
◇
栞が中学校を卒業しました。
おめでとう。
卒業式に行ってあげられなくて、ごめんなさい。
見せてくれた写真には、少し大人びた栞が写っていました。
とっても綺麗になったわね。
お母さん、嬉しいな。
◇
栞が高校生になりました。
特待生として入学したそうです。
本当にすごいこと。
きっと、たくさん努力したのでしょうね。
お母さん、とっても誇らしいわ。
でも。
今日、病室に来てくれた栞の顔を見て、少しだけ不安になりました。
あんなに頑張って。
あんなに無理をして。
……栞。
あなたは、本当に大丈夫なの?
◇
栞がアルバイトを始めたみたい。
最近は、お見舞いに来る回数が少しだけ減りました。
それは、別にいいの。
高校生なんだから、お友達と遊んだり、自分の好きなことをしたりしてほしいもの。
でも、今日。
帰り際に、栞が小さく呟いたの。
「……大丈夫」
何が大丈夫なの?
誰に言った言葉なの?
聞こうとしたときには、もう病室を出ていました。
……なんだか、怖くなってしまいました。
◇
今日は、お父さんがお見舞いに来てくれました。
でも、私は少しきついことを言ってしまったかも。
病気がよくなる兆しも見えなくて。
栞のことも心配で。
つい、不安をぶつけてしまったの。
お父さんは、
「すまない」
それだけを言いました。
……ああ。
この人は、分かっていないのね。
栞が何を考えているのか。
どんな思いで毎日を過ごしているのか。
きっと、知らないのでしょう。
◇
ふと、昔のことを思い出しました。
お父さんとは、幼馴染でした。
子どもの頃は、よく一緒に遊んだ。
お互い、お小遣いなんてほとんどなくて。
駄菓子屋さんで100円を握りしめて、どちらが上手に使えるか競争していました。
ふふ。
懐かしいな。
高校生になる頃、お父さんのご両親は離婚してしまいました。
もともと裕福ではなかったけれど、そこからはもっと大変だったみたい。
そんなある日、彼は私に言いました。
『将来、家族には絶対にお金で苦労させない』
それから、本当に一生懸命に勉強して。
努力して。
今の会社に入ったのです。
……そういえば。
あの頃のお父さんの姿は、高校受験を頑張っていた栞に、どこか似ていた気がします。
◇
私は、仕事を頑張る彼が好きでした。
もちろん、仕事だけじゃなくて。
私のことも、娘たちのことも、大切にしてくれていたと思います。
でも。
いつからだったのでしょう。
少しずつ、家族と過ごす時間が減っていきました。
その代わりに、たくさんのものを買ってくれるようになりました。
美麗は喜びました。
栞も、最初は嬉しそうでした。
でも、小学生になる頃には、あまり喜ばなくなっていました。
『いらない』
『欲しくない』
『お母さんとご飯が食べたい』
……そうよね。
栞が欲しかったのは、きっとそういうことだったのよね。
いつも一緒にいたはずなのに。
分かっていたはずなのに。
ごめんなさい。
……どこで、間違えちゃったのかな。
◇
栞が大学生になりました。
制服姿も可愛かったけれど、私服姿もとっても綺麗。
いつの間にか、こんなに大きくなっていたのね。
でも。
今日の栞を見て、なぜだか胸が苦しくなりました。
まるで、今にも消えてしまいそうな。
そんな気がしたのです。
……栞。
お母さん、あなたが心配です。
◇
今日は、お父さんがお見舞いに来てくれました。
でも、なんだかいつもと違う匂いがします。
甘い香り。
……女性ものの香水?
もう。
妻が入院しているというのに、いったい何をしているのかしら。
ちょっと意地悪を言ってしまいました。
「あらあら。妻を置いて、若い子とデートかしら?」
お父さんったら、真っ青になってしまって。
そして、慌てて事情を話し始めたの。
どうやら、娘たちのことが分からなくなって、上司に相談したみたい。
そうしたら、
『若い女の子のことが分からないなら、そういう子がいる店に行けばいい』
なんて言われたそうです。
それで、キャバクラに連れていかれたんですって。
……もう!
思わず笑っちゃったじゃない。
昔から、本当に女心の分からない人。
よりによって、夜のお店でお勉強だなんて。
そんなことを言われたら、担当してくれた女の子だって困っちゃうでしょう?
だから、言ってあげたの。
「そんなところに行くくらいなら、せめて職場の若い人に相談してみたら?」
そうしたら、お父さんったら真剣な顔で頷くんだから。
……ふふ。
本当に、不器用な人ね。
でもね。
お父さん。
言葉だけじゃないの。
一緒にいてあげて。
ただ、それだけでいいのよ。
お父さんは、何度も何度も頭を下げていました。
◇
仕事とお金で、変わってしまった彼。
でも、きっと本質は昔から変わっていないのでしょう。
まっすぐすぎて。
不器用で。
何かを守ろうとすると、そればかりになってしまう人。
もし、私が元気で隣にいられたなら。
もう少し、違っていたのかしら。
……一緒にいてあげて。
自分で言った言葉なのに。
どうして、こんなに胸が苦しいのでしょう。
家族と一緒にいてあげられなかった私。
栞のそばにいてあげられなかった私。
……ごめんなさい。
◇
最近、身体の調子がどんどん悪くなってきました。
ああ。
そろそろなのかしら。
不思議ね。
自分のことなのに、思っていたほど怖くありません。
ただ。
家族を残していくことだけが、心残りです。
だから、今のうちに。
みんなに、少しだけ言葉を残しておこうと思います。
いつか、読んでくれる日が来るかもしれないから。
◇
お父さんへ。
あなたは本当に不器用で、どうしようもない人でした。
でも、家族のために必死に働くあなたの姿は、昔からずっとかっこよかったわ。
あの頃、駄菓子屋さんで100円を握りしめていた男の子が、こんなに立派になるなんてね。
あなたなら、きっと分かると思うわ。
愛しています。
◇
栞へ。
中学校の卒業式。
高校の入学式も、卒業式も。
そして、これから迎える成人式も。
一緒に行ってあげられなくて、ごめんなさい。
きっと、寂しい思いをたくさんさせてしまったよね。
ダメなお母さんで、ごめんなさい。
不器用なお父さんを、いつか許してあげてくれると嬉しいな。
でも、何より。
あなたには、幸せになってほしいの。
あなたが幸せそうに笑う姿を、もっとたくさん見たかった。
いつか、素敵な人と出会って。
ウェディングドレスを着たあなたと、一緒に写真を撮りたかったなぁ。
……ごめんね、栞。
◇
美麗へ。
そこから先は、文字が滲んでいました。
水でもこぼしてしまったのでしょうか。
何度目を凝らしても、読むことはできませんでした。
そして。
日記は、そこで終わっていました。




