偽善者の帰り道。
「……今、なんと?」
榊原さんの表情が変わった。
「君、それはどういう……」
「相澤?」
そのとき、先輩が戻ってきた。
榊原さんは何かを言いかけたが、俺は小さく首を横に振った。
「……この話は、また後ほど」
「おい、君!」
思わず声を荒らげた榊原さんに、先輩が驚いた顔をする。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……」
俺は姿勢を正した。
「申し訳ありません。俺にも職場での立場がありますので、できれば個別でお話しさせてください」
榊原さんは、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに頷いた。
「……分かりました」
◇
翌日
「悪い、栞ちゃん。今日のお昼、少し出かけてくる」
「お出かけですか?」
「ああ。仕事の関係で、会わなきゃいけない人がいてね」
「そうなんですね。お昼はどうされますか?」
「外で済ませてくるよ」
「……分かりました」
栞ちゃんは、少しだけ不安そうな顔をした。
昨晩から俺の様子が普段と違うことに、気づいているのだろう。
まったく。
こういうところは鋭い。
「その分、晩ご飯は腕を振るいますね」
「ああ。楽しみにしてるよ」
俺はそう答え、家を出た。
◇
待ち合わせ場所に現れた榊原さんは、昨日と同じく疲れた顔をしていた。
ただ、その目には強い意志が宿っている。
「相澤さん。昨日のお話ですが……」
「はい。まずは、俺の話を聞いていただけますか」
俺は、これまでの経緯を話した。
以前、榊原さんの長女である美麗さんと付き合っていたこと。
今は別れていること。
その頃から、栞ちゃんとは顔見知りだったこと。
そして昨年の11月、偶然彼女と再会したこと。
あの日、途方に暮れていた栞ちゃんを放っておけなかったこと。
彼女が今、俺の家で暮らしていること。
もちろん、話していないこともある。
美麗と別れた詳しい理由。
そして、栞ちゃんが俺に打ち明けてくれたことのすべて。
それらを勝手に話す権利は、俺にはない。
「……そう、でしたか」
榊原さんは、長い時間黙っていた。
「娘が……あなたのところに」
「はい」
「娘が、迷惑をかけていませんか?」
「いえ、むしろ働きすぎです」
「娘は、わがまま言っていませんか?」
「もっと欲張って欲しいくらいです」
「そう、ですか……」
「……会わせていただくことは、できますか?」
その言葉に、俺はすぐには答えなかった。
「榊原さん」
「はい」
「あなたの話を、すべて信じるつもりはありません」
榊原さんの表情が強張った。
「正直、怒りがないと言えば嘘になるでしょう。事情があったにせよ、彼女の心を追い詰めたという事実は変わりません」
「……おっしゃるとおり、返す言葉もありません」
こんな若造相手に首を垂れる。
「そのうえで、俺はきちんとけじめをつけるべきだとも思っています」
生意気なことを言っていると思う。
どの立場でものを言っているのだろうと思う。
それでも俺は、榊原さんの目を見た。
「でも、それは栞さんが決めることです」
「……栞が?」
「はい」
今ここで、俺が父親を許すことも。
責め続けることも。
どちらも違う。
「彼女がどう向き合うのか、俺には分かりません。どうするべきだと指図するつもりもありません」
「…………」
「ですから、申し訳ありません。栞さんに会わせてほしいというお願いには、お応えできません」
榊原さんは、静かに目を伏せた。
「……そう、ですか」
「ただ」
俺は続けた。
「渡したいものがあれば責任を持ってお預かりします」
「……!」
「本人に渡したうえで、栞さんがどうするか。俺はそれを尊重します」
榊原さんは、しばらく言葉を失っていた。
俺は少しだけ表情を緩める。
「……大丈夫ですよ」
「え?」
「栞さん……いや、栞ちゃんは、あなたと奥さんの娘さんなんでしょう?」
そう言うと、榊原さんは俯いた。
「……すまない」
その声は、小さく震えていた。
◇
「もしよろしければ、家まで来ていただけませんか」
「……ご自宅に、ですか?」
「ええ。娘に渡してほしいものがあるんです」
俺は少し考え、頷いた。
「分かりました」
榊原さんの車に乗り、しばらく走る。
やがて到着したのは、閑静な住宅街に建つ一軒家。
もう来ることはないだろうと思った家。
7年前に数回来た程度。
当時を鮮明に覚えているわけではないが、どこか寂しい雰囲気を醸し出していた。
門扉を抜けたところで、俺は足を止めた。
花壇があった。
春だというのに、そこに色鮮やかな花はない。
枯れた茎が残り、その隙間から雑草が伸びている。
周囲の家々では、春の花が咲き始めているというのに。
この家だけが、あの日の季節に取り残されているようだった。
「……以前は、妻がよく手入れしていたんです」
俺の視線に気づいたのだろう。
榊原さんが、ぽつりと言った。
「妻が亡くなってからは、すっかり……」
「……そうですか」
それ以上、何も言えなかった。
栞ちゃんはどんな思いでここを出たのだろうか。
そんなことを考えながら、俺は荒れた花壇をしばらく見つめていた。
◇
「これを、渡しておいていただけませんか」
榊原さんから差し出されたのは、いくつかの封筒と、1冊の日記帳だった。
「娘の学生証と、こちらで預かっていた書類です。それから、妻の墓の場所を書いたものと、私の連絡先も」
「……分かりました」
「そして、こちらは……」
榊原さんは日記帳に目を落とした。
「妻の遺品を整理していたときに、見つけたものです」
「日記、ですか」
「ええ。私は読んでいません。恥ずかしながら私には怖くて」
榊原さんは、少しだけ寂しそうに笑った。
「ですが、これは栞が持っているべきものだと思うんです」
俺は、日記帳を受け取った。
「……必ず、渡します」
「ありがとうございます」
榊原さんは深く頭を下げた。
「不思議と君になら任せられる。そんな気がしたんです。これは桜井さんにも、きちんとお礼を言わなければな」
……困った人だ。
こんな大切なものを、よく知らない男に預けるなんて。
それだけ、娘のことが気がかりなのだろう。
「……栞は」
榊原さんが、遠慮がちに口を開いた。
「元気でやっていますか?」
「はい」
「風邪など、引いていませんか?」
「大丈夫ですよ。元気にしています」
「……そうですか」
榊原さんは、ようやく少しだけ笑った。
「栞は、いい人と出会えたんですね」
そして、もう一度頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます」
……なんだ。
不器用なだけで、ちゃんと父親をしているじゃないか。
そう思ってしまった。
もちろん、だからといって、すべてが許されるわけじゃない。
この人には、この人の落ち度がある。
それは間違いない。
ただ、愛情がなかったわけではないのだろう。
それぞれの思いが、少しずつ行き違ってしまった。
母親という存在が、かろうじて繋ぎ合わせていた家族。
その人を失ったことで、すべてが崩れてしまった。
……そういうことなのかもしれない。
だからといって、俺がどうこう言える話でもない。
最後に決めるのは、栞ちゃんとこの人だ。
俺は、その間に垂れ下がった、蜘蛛の糸のように細い繋がりを手繰り寄せるだけ。
その先に何があるのかは分からない。
もしかしたら、2人を傷つけてしまうかもしれない。
それでも。
俺は、向き合うべきだと思ってしまった。
……ただの自己満足だ。
大きなお世話。
余計なお節介。
俺はいつだって、正しいことをしているなんて思わない。
決めるのは栞ちゃん。
そう言っておきながら、結局は俺の気が済まないだけなのだ。
そんな自分を、善人だなんて呼べるはずもない。
良い人。
なんて言葉は俺にはもったいないだろう。
本音と建前がどろどろに絡み合い、素直になれない醜い自分。
そう。
せいぜい偽善者がお似合いだ。
「相澤さん。送っていきましょうか」
「……いえ」
俺は、首を横に振った。
「今日は少し、歩きたい気分ですので」
「そう、ですか……では、お気をつけて」
「はい。失礼します」
俺は歩き出す。
気づけば日が暮れていた。
昼とは違った冷たい風が頬を撫でる。
あの日も、こんな風が吹いていたのだろうか。
いや、もっと冷たかっただろう。
どんな思いで、あの家を出たのか。
何を考え、どこへ向かおうとしていたのか。
俺には分からない。
それでも。
俺は歩いた。
あの日、栞ちゃんが歩いたであろう道を。
彼女から零れ落ちたものを拾い集めるように。
いやーー
神様の悪戯すげ〜
ってなわけで仕事で思わぬ出会いを果たした恭佐。
あの日、栞ちゃんの歩いた道を歩きながら何を思うのか。
それにしてもこの兄妹。
本当に似てるなぁーって思いました。
そして栞は過去とどう向き合うのか?
それではまた明日。




