相澤家、家訓 その④
12月30日。
〜栞視点〜
恭佐さんのご実家のお手伝いを始めて、早くも5日が経ちました。
飲食店で働いた経験はあるけれど、このお店の接客の自由さにはとても驚かされた。
そして何より、すごく楽しいと思えたのです。
途中、ちょっとしたトラブルはあったものの、お店を訪れる人たちは、みんな笑顔で帰っていく。
そんな人たちに囲まれて仕事をしていると、自然とこちらまで笑顔になれる気がしました。
今年も残すところあとわずか。
まさか恭佐さんと、ましてやそのご実家で年を越すことになるなんて。
1ヶ月前の私に話したところで、きっと信じてはもらえないでしょう。
それくらい、今の私にとって大きな変化でした。
「栞ちゃーん、ちょっと手伝ってくれる?」
「はい、今行きます!」
恭佐さんのお母さんに呼ばれ、私は手を止めました。
香織さん。
恭佐さんと雛乃ちゃんのお母さんです。
お二人によく似ている。
……いえ、親子なのだから、逆なのでしょう。
このお母さんあってのお二人なのだと思います。
思慮深く、そして何より、人をよく見ている。
たった数日間しか一緒に働いていないけれど、私はそんな印象を抱いていました。
「何か考え事?」
「いえ、そんなに大したことではないので」
「そう? でも、気軽に相談して、なんて言うつもりはないけれど、何かあったらいつでも……」
「あ、ありがとうございます!」
つい、遮るように言葉が出てしまいました。
嫌だったわけではありません。
むしろ、その逆です。
ただ、少しだけこそばゆかった。
それだけなのです。
「ふふ、ごめんなさいね」
香織さんは小さく笑いました。
「なんだか、昔の雛ちゃんに少し似ていたものだから」
背中越しに聞こえた言葉。
その表情をうかがうことはできませんでした。
「雛乃ちゃんに、ですか?」
「ええ。あまり想像できないかもしれないけれど、昔はとっても意地っ張りだったのよ? あの子」
「……雛乃ちゃんが?」
思わず聞き返してしまいました。
だって、今の雛乃ちゃんは、思ったことを素直に口にする人です。
嬉しいときは笑って、楽しいときは全力で楽しむ。
そして、恭佐さんには遠慮なく甘える。
そんな雛乃ちゃんが意地っ張りだったなんて、少し想像がつきません。
「そうなのよ。あれは、そうねぇ……雛ちゃんが中学校に上がったばかりの頃だったかしら」
香織さんは、懐かしむように話し始めました。
その声は、とても温かく、優しいものでした。
◇
「大丈夫だよ、お母さん」
12歳の雛乃は、そう言って笑った。
けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。
当時の雛乃は、学校で孤立していた。
中学校という小さな社会。
そこには、いわゆるスクールカーストと呼ばれるものが存在していた。
誰が上で、誰が下なのか。
誰と仲良くすれば得をするのか。
誰に逆らえば、自分の居場所がなくなるのか。
そんな見えない序列が、教室の中には確かにあった。
そして、雛乃はその中でも規格外の存在だった。
クラス内で徒党を組み、気の弱い人間を数で攻め立てる。
そんな構図を、彼女は理解できなかった。
なぜなのか。
特別、正義感が強かったわけではない。
誰かを救いたいという使命感に駆られたわけでもない。
ただ、純粋に疑問だった。
自分に何かされたわけでもない相手に、どうしてそこまで時間を費やすのだろう。
そして、やられている側も、なぜ黙っているのだろう。
「なにしてんのー? ふーん。つまんないことしてるね」
雛乃が口にしたのは、そんな言葉だった。
いじめられていた子に対しても、
「あなたも、なんでやられっぱなしなの?」
と、遠慮なく尋ねた。
長いものには巻かれろ。
多勢に無勢。
孤立無援。
四面楚歌。
そんな言葉を並べれば、当時の教室の空気を説明できるのかもしれない。
けれど、雛乃には関係なかった。
上位も下位も、そんなものはどうでもいい。
嫌なものは嫌。
つまらないものはつまらない。
ただ、それだけだった。
当然、教室の上位にいるつもりだった者たちは、いい顔をしなかった。
自分たちの作った序列を、平然と否定する人間がいる。
それも、たった1人で。
そんな雛乃が次の標的になるまで、そう時間はかからなかった。
最初は、無視だった。
やがて陰口が増え、持ち物を隠されることもあった。
そして、いつの間にか。
以前、雛乃が声をかけたあの子まで、いじめる側に加わっていた。
その光景を見たとき、雛乃は妙に納得してしまった。
ああ、そうか。
これが、きっと社会というものなのだろう。
誰だって、自分が一番かわいい。
それを否定するつもりはなかった。
雛乃だって、自分が一番大切だ。
あの子は、いじめる側に加わることで、自分の居場所を守った。
ただ、それだけのこと。
別に責めるつもりもなかった。
そもそも、興味すらなかった。
けれど。
「雛乃、あなた……」
ある日、母親が心配そうに声をかけてきた。
雛乃は家族が大好きだった。
学校の人たちとは違って、誰かを思いやることのできる人たち。
お店の常連さんたちも大好きだった。
いつも笑って、優しく声をかけてくれる。
そんな人たちに囲まれている時間が、雛乃にとって何よりも大切だった。
だからこそ、困ってしまった。
自分は自分のために生きている。
嫌なものに嫌と言って、間違っていると思ったことを否定した。
それだけのはずだった。
なのに。
その結果、大好きな人たちが悲しんでいる。
心配してくれている。
自分のことで、笑顔を曇らせている。
それが、どうしようもなく嫌だった。
「大丈夫だよ、お母さん」
雛乃は笑った。
何でもないように。
心配なんていらないと言うように。
けれど、母親の表情は晴れなかった。
やがて、周囲の人たちも雛乃に気を使うようになった。
優しい言葉をかけてくれる。
いつも以上に気にかけてくれる。
それが嬉しくないわけではない。
でも、そうじゃない。
雛乃は、みんなに笑っていてほしかった。
自分のせいで、誰かが悲しむところなんて見たくなかった。
だから、何も言えなくなった。
学校のことも。
自分がどう思っているのかも。
誰にも話さず、ただ笑うようになった。
いじめられること自体が、一番つらかったわけではない。
いじめられた自分を見て、大切な人たちが傷つくこと。
それに耐えられなくなっていた。
そんなときだった。
「お前、何してんの?」
兄の恭佐が、いつもと変わらない調子で声をかけてきた。
「なに……話しかけないで。あっち行ってよ……」
雛乃は冷たくあしらった。
けれど、恭佐は気にする様子もなかった。
「お前がそんなんだと、俺が困るんだけど」
「……は?」
何を言っているのだろう。
雛乃には、まったく意味が分からなかった。
「ウザいんだけど……」
「お前、周りのこと信用してないだろ」
「…………」
「別に、それが悪いとは思わねぇよ。信用したところで、どうにもならないことだってあるしな」
「……何が言いたいの?」
「全員に理解してもらおうとすんなってこと。雛乃は雛乃だろ?」
「意味わかんないんだけど」
「だからさ。つらいときはつらいって言えばいいし、甘えたいときは甘えればいい」
「そんなこと……言えるわけないじゃん!!」
思わず声を荒らげた。
そんな簡単なことなら、とっくにやっている。
言えるわけがない。
言ったところで、何が変わるというのだろう。
また誰かに心配をかけるだけではないか。
そんな雛乃を見て、恭佐は小さくため息をついた。
「学校の連中に言えとは言ってねぇよ」
「……え?」
「お前の好きな人たちになら、言えるだろ?」
「…………」
「学校の連中がどんなやつかなんて、俺は知らん。けどさ」
恭佐は続けた。
「お前がそんなんだから、みんなの笑顔が曇っちまってんぞ」
「……何よ、それ」
「心配してほしくないなら、心配してるやつらを信用してやれってこと。それともお前の好きな人たちは、お前が弱音を吐いたら離れちまうような人たちなのか?」
「…………」
「ま、あとは自分で考えろ」
「ちょっと、待ってよ!」
「なんだよ」
「それだけ!?」
「それだけ」
恭佐は、さも当然といった顔をしていた。
ムカつく。
ムカつく、ムカつく。
何なの、この兄は。
人がこんなに悩んでいるというのに。
何でもないことのように言って。
勝手に納得して。
勝手に話を終わらせようとして。
……だけど。
なぜだろう。
涙が出てきた。
雛乃は慌てて目元を拭った。
誰かに理解してもらう必要なんてない。
自分は自分。
嫌なものは嫌。
好きなものは好き。
それでいい。
でも、つらいときは。
大好きな人たちに、つらいと言ってもいい。
甘えたいときは、甘えてもいい。
そんな当たり前のことを、雛乃は忘れていた。
「……ねえ、おにぃ」
「ん?」
「私、別に間違ってないよね?」
「さあな」
「はぁ!?」
「俺、学校のこと知らねぇし」
「もう!!」
「ただ、お前が納得してんなら、それでいいんじゃねぇの?」
「…………」
「他人に流されて、数に屈するのか?」
なんと大げさな言葉だろう。
バトル漫画の主人公でもあるまいし。
けれど、その言葉は雛乃の心に強く残った。
「んなわけないじゃん!!」
涙を拭い、雛乃は立ち上がった。
翌日。
雛乃は学校のホームルームで、教卓を蹴り飛ばした。
「文句あんなら、かかってこいや!!」
教室中が静まり返った。
その日を境に、少なくとも雛乃の目の前で誰かを標的にする生徒はいなくなった。
そして、この騒動をきっかけに、学校側もいじめの問題へ本格的に介入することとなった。
もっとも。
雛乃が教卓を蹴り飛ばしたことについては、また別の問題である。
その代償として。
母親の香織が、学校へ呼び出されることになった。
なお、教卓も無事では済まなかった。
◇
〜栞視点〜
「……そんなことがあったんですね」
私は思わずつぶやきました。
あの雛乃ちゃんに、そんな過去があったなんて。
正直、驚きを隠せません。
けれど、同時に少しだけ納得してしまいました。
誰かに媚びることなく、自分の気持ちに正直でいる。
そんな雛乃ちゃんの姿は、きっと昔から変わっていないのでしょう。
「そうなのよ。もう、あのときは本当に大変だったんだから」
香織さんは苦笑いを浮かべました。
「学校から呼び出されるわ、先生には頭を下げることになるわ……。まさか、うちの娘が教卓を蹴り飛ばすなんて思わないじゃない?」
「ふふっ……」
想像してしまいました。
教卓を前に仁王立ちする、小さな雛乃ちゃん。
そして、その隣で頭を抱える香織さん。
……なんだか、少しだけ今の雛乃ちゃんらしい気もします。
「でもね、栞ちゃん」
香織さんの声が、少しだけ穏やかなものに変わりました。
「私、昔は教師をしていたの」
「……そうだったんですか?」
「ええ。だから、学校でのいじめがどれだけ複雑な問題なのか、少しは分かっているつもり」
香織さんは、手元の作業を続けながら話しました。
「誰かが助けに入れば、それで解決する。そんな簡単なものじゃないのよね」
「…………」
「もちろん、周りの大人が手を差し伸べることは大切よ。子どもだけで抱え込ませていい問題でもないわ」
その言葉には、元教師としての思いと、母親としての思いが込められているように感じました。
「でも、本人がどうしたいのか。何を怖がっていて、何を大切にしているのか。それが分からないままでは、うまくいかないこともあるの」
私は黙って耳を傾けました。
「雛乃のことも、学校から大筋の説明は受けていたのよ。いじめがあったことも、あの子が標的になっていたこともね」
「…………」
「私たちも、なんとなくは分かっていたわ。でも、あの子は大丈夫だって笑うばかりで」
香織さんは、少しだけ寂しそうに笑いました。
「親として、どうしてあげるのが一番いいのか。正直、悩んだわ」
それから、ふっと表情を緩めました。
「そんな雛乃が、ある日を境に変わったの」
「……恭佐さん、ですか?」
「ふふ、そう。どうやら恭佐が、何か言ったらしいのよ」
「何を言ったんですか?」
「それがね、分からないの」
「……え?」
「恭佐に聞いても、そんな昔のこと覚えてないって言うし、雛乃に聞いても教えてくれないのよ」
香織さんは、困ったように笑いました。
「まったく、あの兄妹ったら」
私は、少しだけ不思議に思いました。
何を言ったのか、誰も知らない。
恭佐さん自身も覚えていない。
雛乃ちゃんも教えてくれない。
それなのに。
香織さんは、恭佐さんがきっかけだったと確信している。
「でもね、栞ちゃん」
「はい」
「あの子、あれから少しずつ変わっていったのよ」
香織さんは、どこか嬉しそうに続けました。
「もちろん、教卓を蹴り飛ばしたことは、たっぷり叱ったわよ?」
「ふふっ」
「でも、それまで何を聞いても大丈夫としか言わなかった子が、少しずつ自分の気持ちを話してくれるようになったの」
「…………」
「嫌だったことも、悲しかったことも。それから、嬉しかったこともね」
その声は、どこまでも優しかった。
「いじめの問題は、簡単には解決できない。だから、あの子が全部自分の力で乗り越えた、なんて言うつもりはないわ」
香織さんは、そこで一度言葉を切りました。
「でも、あの子は自分の足で立ち上がったの」
そして、微笑みました。
「……ううん。きっと、恭佐と一緒に乗り越えたのね」
私は、その言葉を胸の中で繰り返しました。
恭佐さんと、一緒に。
「それからよ。あの子が今みたいに、恭佐にべったりになったのは」
「……そうだったんですね」
「もう、何をするにも『おにぃ、おにぃ』って。あの子ったら、恭佐が出かけようとするたびについて行こうとしてね」
「ふふっ」
「恭佐も恭佐で、口では面倒くさそうにするくせに、結局あの子の相手をするものだから」
なんだか、目に浮かぶようでした。
きっと昔から、あのお二人はあんな関係だったのでしょう。
雛乃ちゃんは、恭佐さんが大好き。
そして恭佐さんも、そんな雛乃ちゃんを大切に思っている。
ただ、それだけではなかった。
そこには、私の知らない時間があったのです。
「……あ」
ふと、ある言葉を思い出しました。
「どうしたの?」
「あの、雛乃ちゃんが前に、家訓だって言っていたことがあって……」
「家訓?」
「はい。確か……」
私は少し考えてから、口にしました。
「『甘えたいときは甘えなさい!』」
香織さんが目を丸くしました。
そして。
「……ふふっ」
小さく笑いました。
「あら、そんなこと言ってたの?」
「はい。雛乃ちゃん、すごく得意げでした」
「そう……」
香織さんは、どこか懐かしそうに目を細めました。
「ふふ。あの子らしいわね」
それ以上、香織さんは何も言いませんでした。
けれど、私にはなんとなく分かった気がしました。
雛乃ちゃんにとって、その言葉はきっと特別なものなのでしょう。
普段は冗談ばかり言っている雛乃ちゃん。
でも、あの家訓だけは。
もしかすると、ずっと大切にしてきた言葉なのかもしれません。
「……栞ちゃん?」
「はい?」
「あなたも、あまり無理しなくていいのよ?」
「……え?」
香織さんは、優しく微笑みました。
「さっきも言ったでしょう? 何かあったら、いつでもって」
「…………」
「もちろん、話したくないことまで話す必要はないわ。でも、困ったときくらいは頼ってちょうだいね」
私は、すぐには返事ができませんでした。
こんなふうに言ってもらえることが、まだ少しだけ不思議だったのです。
何かをしてもらったら、お返しをしなければいけない。
迷惑をかけないようにしなければいけない。
自分のことは、自分で何とかしなければいけない。
ずっと、そう思ってきました。
でも。
この家の人たちは、少し違うのかもしれません。
「……ありがとうございます」
私は、ゆっくりと頭を下げました。
「ふふ。どういたしまして」
香織さんは、それ以上何も聞きませんでした。
ただ、いつもどおり優しく笑ってくれました。
その笑顔を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなりました。
甘えたいときは、甘えなさい。
雛乃ちゃんが教えてくれた、相澤家の家訓その4。
その言葉が、今の私には少しだけ違って聞こえました。
いかがでしたでしょうか?
まさかあの家訓が再び出てくるとは思いませんでしたね。
私は現在絶賛15連勤中でデスマーチ状態です。
私も誰かに頼りたいです。
はい、ということで力尽きる前に投稿間に合ったので面白いと思ったり続きを読みたいなぁーって人はブックマークして更新をお待ちくだされ!
ではまた明日……私に来るのか?




