名探偵ヒナノ〈後編〉
〜栞視点〜
恭佐さんと初めて喧嘩をして、私は家を飛び出した。
きっかけは、些細なことだったのかもしれない。
でも、私には大切なことだった。
大学とアルバイトを再開して、一週間。今日は最初の週末。
仕事が休みの恭佐さんは、朝から見るからに具合が悪かった。
それなのに、私を休ませようとして、食器を片付け始めた。
学業とアルバイトをこなしながらの家事が、大変ではないと言えば嘘になる。
それでも、昔からやってきたこと。
それに何より、私は与えてもらうばかりでいたくなかった。
雛乃ちゃんと恭佐さんが、互いに遠慮なく言い合い、相手を気遣っているのを見てきたからだと思う。
私も、恭佐さんと並んで立ちたかった。
助けてもらうだけではなく、私からも力になれる人でいたかった。
恭佐さんの優しさは嬉しい。
だからこそ、自分の身体を後回しにしてまで頑張ってほしくはなかった。
なのに、私が食器を片付けると言っても、恭佐さんは譲ってくれない。
そんなつもりはないと分かっている。それでも、頼ってもらえないことがなんだか寂しくて、言い合いになってしまった。
そして私は、家を飛び出した。
玄関先で雛乃ちゃんとすれ違った気がする。
きっと驚かせてしまったと思う。
心配かけちゃうかな?
でも、雛乃ちゃんがいれば、恭佐さんは大丈夫……だよね?
私は走り疲れて歩いた。
呼吸は整ったけれど、恭佐さんの具合が心配で落ち着かなかった。
せめて飲み物を買って、早く帰らないと。
そう思いながら入ったドラッグストアで、スポーツドリンクを手に取ったときだった。
スマホが鳴る。
急な着信に驚きつつも私は電話を取った。
「もしもーし、栞ちゃん? こちら雛乃。恭佐は始末した」
「……えっ?」
物騒な言葉に、手の中のボトルを落としそうになった。
「安心して。今は寝てるよ」
胸をなで下ろす。
でも、いったい何をしたのだろう。
余計に不安が増してしまった。
「それより栞ちゃん、今ドラッグストアにいるでしょ?」
思わず周囲を見回した。
「あははっ。探してもいないよー。ヒナはお家にいるからねー」
「どうして分かったんですか?」
「お家を出るとき、お財布を持ってたでしょ。だからお買い物じゃないかなーって思ったの」
「でも、それだけじゃ……」
「冷蔵庫にはお水とお茶くらいしかなかったし。おにぃ、熱あるから、飲み物を買いに行ってくれたのかなって」
「…………」
考えていたことが筒抜けで、少し恥ずかしくなる。
「それにね、栞ちゃん。さっきから店内の『お薬相談はこちらへ〜』って案内が聞こえているのだよ」
「そ、それは……」
「ちっちっちっ。初歩的なことだよワトソン君」
得意げな声がした。
以前、恭佐さんが言っていた、雛乃ちゃんの騒がしさ。
その裏では、こんなふうに私のことまで見てくれているのだと、改めて思った。
「というわけで、おにぃと喧嘩した栞ちゃんに、助け舟を出してあげよう」
胸がちくりと痛む。
やっぱり、雛乃ちゃんには分かっていた。
「……助け舟、ですか?」
正直飛び出してきた手前、帰るのが少し気まずかった。
それも見透かされてる気がした。
私は素直に返事を待つ。
「ミルクたっぷり牛乳プリン!」
「え……?」
「おにぃの好きなプリン。そこに売ってるから、買って帰ってあげて」
私はスイーツの棚へ目を向ける。
たしかに、その名前のプリンが並んでいた。
「……ありがとうございます」
恭佐さんの好物を、一つ知った。
私はまだ、恭佐さんのことをあまり知らない。
何を食べると喜ぶのか。
疲れたとき、何をしてほしいのか。
きっと恭佐さんも、私について知らないことがたくさんある。
だから、帰って話をしよう。
少しずつ、お互いのことを知っていきたい。
そう、強く思った。
「あっ、ヒナは抹茶プリンね! それから棚の上のお菓子もお願い♡」
「お菓子も、ですか?」
「うん。三つくらい!甘いのとしょっぱいの!」
通話の向こうで、袋を開けるような音がした。
三つで済むのだろうか。
少し笑いながらプリンをかごに入れ、私は電話を切った。
◇
〜恭佐視点〜
トントントン。
包丁の小気味よい音が、ぼんやりした頭に届く。
部屋には、温かな香りが漂っていた。
意識がはっきりするにつれ、出ていった栞ちゃんの姿を思い出す。
「栞ちゃん!」
名前が口をついて出た。
どうやら俺は、リビングのソファで眠っていたらしい。
キッチンに立つ栞ちゃんと目が合う。
「おはようございます。と言っても、もう夕方ですけど……よく眠れましたか?」
栞ちゃんが微笑んだ。
起き上がろうとすると、額からタオルが落ちる。
「これ、栞ちゃんが?」
「いいえ。雛乃ちゃんですよ」
栞ちゃんの視線を追う。
ソファの脇では、雛乃がもたれかかって眠っていた。
「私が帰ってきたときは起きていたんですけど、『おにぃ寝てるから静かにしないとねー』って言って。そのあと、いつの間にか」
「……そっか」
静かにしていたら、自分が寝たのか。
それでも、俺が起きるまでここにいてくれたらしい。
「そんなことより、栞ちゃん」
謝ろうとすると、彼女は小さく首を振った。
「私も、急に飛び出してごめんなさい。でも……恭佐さんがつらいとき、何もさせてもらえないのは寂しかったんです」
「……ごめん」
雛乃の言葉が蘇る。
『栞ちゃんの気持ちも、ちゃんと受け取ってあげて』
俺が彼女を心配したように、彼女も俺を心配していた。
そこに気づけなかった。
「もうすぐできますよ」
キッチンから、栞ちゃんの声が届く。
眠ったおかげか、さっきよりは頭がはっきりしていた。
食欲を唆る香りにつられ、腹も減ってくる。
「スポーツドリンクと、お粥です」
「ありがとう」
まずは飲み物で喉を潤した。
冷たすぎない温度がありがたい。
「食べられそうですか?」
「ああ。むしろ、腹ぺこだ」
レンゲですくって、一口。
「あつっ……」
「出来たてですから、気をつけてくださいね」
栞ちゃんが笑う。
その顔を見て、胸につかえていたものが少し軽くなった。
「美味い。大根おろしが入ってるのか」
「はい。少しだけ味をつけました」
「これ、好きだな」
自分では思いつかない味だった。
「お口に合って、よかったです」
栞ちゃんが顔を逸らす。頬が、少し赤くなったように見えた。
「いや、ほんとに美味しい。ありがとう」
もう一口食べようとして、熱い器を持つ手元がぐらついた。
「あっ」
レンゲが滑る。
中のお粥は、ソファの下で眠っていた雛乃の頬へ落ちた。
「あああっつぅー!!」
「わ、悪い!」
雛乃が跳ね起き、頬についたお粥を指で拭う。
「なになに!? 何これ!?」
指先を見て、ぺろりと舐めた。
「……えっ。めっちゃ美味しいんですけど?」
寝起きとは思えない冷静な食レポだった。
「おにぃ、起きたの?」
「ああ。さっきは悪かったな。色々と」
「まったくもうだよ。栞ちゃんが優しくて、ご飯の美味しい良妻でよかったね」
「そうだな。返す言葉が……ん?」
横を見ると、栞ちゃんがしゃがみ込み、両手で顔を隠していた。
「栞ちゃん?」
「い、いえ……」
雛乃はそんな栞ちゃんを気にする様子もなく、もぐもぐと頬を動かしている。
……もぐもぐ?
「おい、雛乃。何食ってる?」
「お粥だけど?」
「誰のだ?」
「んー? おにぃの?」
「返せよ」
「もう食べちゃったもーん!」
「開き直るな」
「無理な物は無理ですぅー! 栞ちゃんの手料理は、すでに私の胃袋へとI’ll be backしましたー!」
こいつ、溶鉱炉に叩き落としてやろうか。
「恭佐さん。おかわり、まだありますので……」
栞ちゃんがようやく顔を上げた。
ほっとしたところで、雛乃が真っ先に反応する。
「えっ、ほんと!? やったー!」
「お前のじゃねぇからな!」
風邪のせいだろうか。
普段より、こいつに張り合っている気がした。
◇
念のため、俺は二人から少し離れて食事を続けた。
ここ数日、早く帰ろうとして、仕事中も普段以上に気を張っていた。
生活が変わって楽しい反面、疲れもたまっていたのかもしれない。
「はい、あーん」
雛乃は栞ちゃんにお粥を冷ましてもらい、食べさせてもらっている。
「どっちが年上か分かったもんじゃないな」
「ヒナは永遠の17歳です♡」
「はいはい」
相手にすると熱が上がりそうな妹は流して、栞ちゃんへ向き直る。
「今日は助かった。ありがとう」
「私こそ、ムキになってしまってごめんなさい」
「俺も、栞ちゃんの気持ちを聞かずに、休めって押しつけてたからな」
「……では、おあいこですね」
栞ちゃんが笑った。
「次からは、ちゃんと頼むようにするよ」
「はい。任せてください」
そのやり取りを聞いていた雛乃が、口をぱくぱくさせてこちらを見ている。
どうやら次の一口を待っているらしい。
「えー、おにぃが食べさせてくれるんじゃないの?」
「自分で食え」
◇
食事を終え、栞ちゃんが食器を片付ける。
家事で戦力外の雛乃は、俺のために用意された氷嚢を頬に当てていた。
さっきのお粥が、まだ熱かったらしい。
「そうだ、恭佐さん。デザートもありますけど、食べられそうですか?」
「ありがとう。いただこうかな」
「ヒナも食べるぅー!」
食い意地だけは、感心するほど衰えない。
「お待たせしました」
栞ちゃんが持ってきたのは、俺の好きな牛乳プリンだった。
「これって……」
「雛乃ちゃんが教えてくれたんです。恭佐さん、これがお好きだって」
「そっか」
雛乃をちらりと見る。
本人は抹茶プリンを無邪気に頬張っていた。
それも俺の金で買ったんだろうが、今日は助けられたからな。
文句は飲み込んでおく事にした。
「そういえば、雛乃」
「なにー? 抹茶プリンならあげないよー」
じとーっとした目線でこちらを睨む。
「俺が倒れる前、何か飲ませたか?」
「えっ……?」
栞ちゃんが雛乃を見る。
「電話で『始末した』って言ってたのは……」
「あー、あれね。栞ちゃんも食べる?」
雛乃が、見覚えのあるラベルを貼った瓶を取り出した。
『HNTX0723』
「おい、待て」
雛乃は瓶から一粒取り出し、自分の口へ放り込む。
それから栞ちゃんにも差し出した。
「……甘じょっぱい、ですね」
「でしょ? 塩分チャージのラムネだよ」
「…………」
雛乃がけらけら笑う。
「おにぃ、もしかして本当に薬だと思った? 水には何も入れてないよ?」
体調が悪かったとはいえ、完全に勘違いした。
羞恥心が込み上げてきたところで、栞ちゃんが瓶を指さす。
「この『0723』って、何ですか?」
「このアホの誕生日だよ」
雛乃が答える前に、俺が吐き捨てた。
「えっ、そうなんですね。でも、どうしてラベルを……?」
「それはね、栞ちゃん。なんかかっこいいから、だよ!」
自信満々に胸を張る。
こいつの感性を理解しようとするのは、もうやめよう。
俺はソファへ戻り、背もたれに身体を預けた。
「あっ! 栞ちゃん、7月23日は予定空けといてね♡」
「え、あっ、はい」
栞ちゃんが、まんまと雛乃の誕生祭に招待されてしまった。
「そだ。栞ちゃんの誕生日も教えてよ」
「私は、9月5日です」
「オッケー! 栞ちゃんの誕生日も、空けておくね!」
雛乃がこちらをちらりと見る。
俺もスマホのカレンダーを開き、日付を探した。
来年の9月5日は金曜日。
ずいぶん先だが、早めに仕事を終えれば、夕飯くらい一緒に食べられるだろう。
カレンダーに予定を入れる。
「ちなみに、おにぃの誕生日はねぇ――」
雛乃の声が聞こえた。
栞ちゃんが何か返事をしたようだったが、俺の頭はもうぼんやりしていて、うまく聞き取れない。
栞ちゃんの誕生日。
プレゼントを贈るとしたら、何が喜ばれるだろうか。
考えてみても、まだ分からなかった。
俺たちは、お互いのことを、まだ知らない。
だから、これから知っていけばいい。
そう思いながら、俺はゆっくり目を閉じた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
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