名探偵ヒナノ〈前編〉
12月7日、土曜日。
〜雛乃視点〜
お兄ちゃんと栞ちゃんが一緒に暮らし始めて、二週間が経った。
今日も私は、お兄ちゃんの家へ向かっている。
二人のことがどうしても気になって、週末のどちらかにお邪魔するのが習慣になりつつあった。
マンションに着き、四階へ上がる。
406号室。
いつ見ても、なんだか嫌な部屋番号だなぁ。
そんなことを考え、歌いながら呼び鈴に手を伸ばした。
「この世であなたのあーいーうぉっ!」
ガチャッ!
勢いよくドアが開いた。
「……え?」
飛び出してきたのは栞ちゃんだった。
すれ違った一瞬、その瞳にうっすら涙が浮かんでいるのが見えた。
声をかける間もなく、栞ちゃんは廊下の向こうへ駆けていく。
お兄ちゃん……。
何をやらかしたの?
――やれやれ。ここは私の出番かな。
◇
〜恭佐視点〜
ガチャッ。
栞ちゃんが出ていったばかりの玄関から、再びドアの開く音がした。
「栞ちゃ……」
「おにぃー、入るよー」
「ちっ……」
「あー! 今、舌打ちしたでしょ! ひどぉ!」
今はこいつの相手をしている場合じゃない。
だが、無視したところで余計に騒ぐだけだろう。
「愛する妹へのリップサービスだ」
「いやん♡」
「もういいだろ。今はそれどころじゃないんだ」
雛乃の脇を抜けて、栞ちゃんを追いかけようとする。
「そこを動くな、相澤恭佐!」
雛乃がお菓子の箱を取り出し、ずらしたフィルムを口元に当てた。どうやら無線機のつもりらしい。
「容疑者を発見。ただちに現場を封鎖せよ!」
さらに手で目元を隠し、今度は報道のインタビューらしき声を出す。
「私ぃ〜、いつかやると思ってたんですよねぇ〜」
「いいから退いてくれ」
自分でも分かるほど、声がきつくなった。
雛乃が箱を下ろす。
「栞ちゃんでしょ?」
「…………」
ここへ来る途中ですれ違ったのだろう。
いちいち説明する時間が惜しくて、俺は玄関へ向かおうとした。
「おにぃ、そこ座って」
「今は……」
「いいから、座って」
普段のふざけた声ではなかった。
押し切られるように、近くの椅子へ腰を下ろす。
「体調、悪いんでしょ」
「…………」
視線を逸らす。
「熱は? 何度あるの?」
「……38度……とちょっと」
小数点以下を切り捨てただけ、だから嘘は言っていない。
雛乃は俺の顔を見たあと、キッチンへ目を向けた。流しには、俺が片付けかけていた朝食の食器が残っている。
「おにぃが悪いね、これは」
雛乃がため息を吐く。
「何が分かんだよ……」
言い返したつもりだったが、声に力が入らない。
「どうせ『平日は栞ちゃんに家事を任せっきりだから、休みの日くらいは俺がやる』とか言ったんでしょ? こんな熱があるのに」
「…………」
ほとんど、そのとおりだった。
栞ちゃんが大学とアルバイトを再開してから一週間。平日は俺より忙しい日もあったはずだ。
だから今日くらい休んでほしかった。
そう伝えたけれど、栞ちゃんは「今日は私がやります」と譲らなかった。
体調の悪さも手伝って、つい強い言い方になってしまった。
「お兄ちゃん。栞ちゃんの気持ちも考えてあげてね?」
雛乃が俺の手に触れる。
その声と手の温かさが、どこか母さんに似ていた。
「悪い。だけど……」
「だけどじゃない。今は安静にしてて。お水、持ってくるから」
雛乃はキッチンへ向かった。
「おにぃはさ、私やお母さんが熱を出してても、働かせるの?」
「それは……」
「同じだよ」
雛乃は水を入れたコップを持って戻ってくる。
「栞ちゃんだって、おにぃが具合悪いのに動いてたら心配するよ。その気持ち、ちゃんと受け取ってあげて」
「……悪い」
コップの水を飲み干す。
ただの水のはずなのに、少し甘いような気がした。頭がぼんやりしているせいだろうか。
「とにかく、今は休むこと。それに――」
「いや。せめて、栞ちゃんを迎えに……」
椅子から立ち上がろうとした途端、視界がぐらりと揺れた。
まずい。
思ったより、足に力が入らない。
視界の端で、雛乃が何かの瓶を振っている。
中では錠剤のようなものが、カラカラと音を立てていた。
瓶に貼られたラベルには、見慣れない文字。
『HNTX0723』
雛乃が不敵に笑う。
「あばよ、名探偵」
くそ……。
さっきの水に、何を盛りやがった……。
そう思ったところで、視界が暗くなった。
「まったく。世話の焼けるお兄ちゃんだ……」
身体を支える柔らかな感触と、そんな声だけが、かすかに残った。




