明日への扉
月見を終え、俺たちは帰りの車に乗り込んだ。
後部座席では、雛乃が団子の空き箱を抱えている。結局、月が中途半端だと騒いでいたのは最初だけで、帰るころには「紅葉も見られたし、お月見大成功!」と満足げだった。
「栞ちゃん、明日はどうするの?」
雛乃が前の座席へ身を乗り出す。
「大学もアルバイトも、今月いっぱいはお休みする予定です。少し、これからのことを考えたくて」
「そっか〜ゆっくり休んでね。……ヒナは明日から仕事だから……」
最後だけ恨めしそうな声になった。
「働かざる者、食うべからず」
「おにぃ、そこで家訓を持ち出すのずるくない?」
お前が言い出した家訓だろうが。
とはいえ、雛乃が今日帰れば、明日からしばらくは静かな日常が戻ってくる。そう考えると、少しだけほっとした。
栞ちゃんはバックミラー越しに雛乃を見て、少し寂しそうに微笑んでいた。
◇
雛乃を実家の前で降ろす。
「二日間、ありがとうございました」
栞ちゃんが助手席から降りて頭を下げると、雛乃は大げさに両手を振った。
「また遊ぼうね! 次はクリスマスかな? いや、その前にも絶対行くから!」
「はい。楽しみにしています」
側から見たらなにを大袈裟な、そう思うかもしれない。
けれど、栞ちゃんの今までを考えると、こんな小さな日常でも、きっと特別なんだろう。
今まで当たり前にあった日常に、改めて感謝しようと思った。
「栞ちゃん!」
玄関の前で雛乃が急に声を張り上げこちらを指差す。
「必ず迎えに行くからな! 待ってろ! 待ってろー!!」
「声でけぇよ! 近所迷惑だろ!」
「えっ、迎えに……?」
栞ちゃんは意味が分からず、困惑していた。
玄関へ入った雛乃は、閉まりかけたドアの隙間から顔を覗かせ、人差し指をこちらに向けている。
早く閉まってくれないかな、その真理の扉。
知り合いだと思われたくないので、そそくさと車へと戻る。
再び車に乗り込むと、栞ちゃんは窓越しにもう一度手を振った。
「……少し、寂しくなりますね」
「どうせ明日には連絡してくるだろ」
「ふふっ。そうですね」
笑ってはいるが、声には少しだけ寂しさが残っていた。
あいつがいないだけで、車内がずいぶん静かに感じた。
◇
しばらく走ったところで、栞ちゃんが口を開いた。
「その、二日間、改めてありがとうございました。……恭佐さん」
信号が赤に変わる。
車を止めて、隣を見た。
「さっきも雛乃に言ってたな」
「今度は、恭佐さんにです」
改めて名前を呼ばれると、まだ少し落ち着かない。
「泊めていただいただけじゃなくて、買い物に連れていってもらって、一緒にご飯を作って。それから、今日のお月見も……」
栞ちゃんは言葉を探すように、膝の上で指を重ねた。
「私一人だったら、この先のこと、なにも考えられなかったと思います。でもお二人のお陰で今は、明日のことを考えられます」
「……そっか」
俺だって、この二日間をどう言葉にすればいいのか分からない。
ただ、あの夜、途方に暮れていた栞ちゃんが、今こうして明日の話をしている。俺はそれが嬉しかった。
「俺も楽しかったよ」
「本当ですか?」
「ああ。雛乃の相手は疲れるけどな」
「雛乃ちゃん、寂しがりますよ?」
「それで少しは大人しくなってくれるといいんだけどな」
栞ちゃんが小さく笑う。
信号が青になり、車を走らせた。
「そうだ。明日から俺は仕事だから、日中は家を空けることになるけど、栞ちゃんは無理せず休んでてくれ」
「ありがとうございます。でも、せめて家事とお料理は頑張らせてください」
「それは助かるよ。ただ、疲れてるときまで頑張らなくていいからな」
「……はい」
素直に返事をしたものの、きっと放っておけば色々やろうとする。
昨夜だって、料理を作ると言い出したときは相当気合いが入っていた。今はまず、自分のために休んでほしい。
身体と違って、心はそう簡単に癒されるものではない。
俺はそう思う。
「帰ったら家の暗証番号も教えるよ。俺が仕事中でも出入り出来ないと何かと不便だろ」
「そこまでしていただいて、いいんですか?」
「一緒に暮らすんだから、知っていた方が色々と都合が良いだろ?」
「……そうですね。ありがとうございます」
少し迷ってから、栞ちゃんは頷いた。
◇
レンタカーを返却し、マンションへ帰る。
「明日は、お夕飯をお作りしますね。何時ごろ、お帰りになりますか?」
「残業がなければ、だいたい19時から20時くらいかな。ありがとう、楽しみにしてる」
そう答えてから、食材を買うのにもお金が要ることに気づいた。
「料理を作るなら、買い物も必要になるな。これを使ってくれ」
財布から予備のクレジットカードを取り出す。
「えっ。カード、ですか?」
「食材とか、ほかにも足りないものがあったら買ってきてほしい」
「でも、恭佐さんのカードを預かるのは……」
栞ちゃんは差し出されたカードを見つめたまま、受け取ろうとしない。
「夕飯、作ってくれるんだろ?」
「はい」
「だったら、何を買うかは栞ちゃんに任せたい」
「……分かりました」
栞ちゃんが、そっとカードを受け取る。
「使えば俺のスマホにも通知が来るし、買うたびに報告しなくて大丈夫。必要なものを選んでくれ」
「はい。ありがとうございます、恭佐さん」
また、名前を呼ばれた。
聞き慣れない響きに、丘の上での一幕を思い出す。
◇
月見を終えて駐車場へ戻る途中のことだった。
「栞ちゃんさぁ、それ、やめない?」
俺と栞ちゃんが話していたところ、雛乃が唐突に言い出した。
「……?」
「その『相澤さん』ってやつ。私も相澤だし、どっちのことか分かんなくなるじゃん」
「あっ……確かに、そうですね。でも……」
栞ちゃんが、ちらりと俺を見る。
「俺は、なんて呼んでもらっても構わないけど」
「ほらぁ、おにぃもこう言ってることだし。呼んでみな! きょ・う・す・け♡ って」
妹が気色悪い声で俺の名前を呼ぶ。
俺は無言で、雛乃の額にデコピンを食らわせた。
「あだっ! 暴力反対!」
失礼だな、家族からの愛情表現だ。
おでこをさすりながら話を続ける雛乃。
「だってさぁー、『相澤さん』って職場みたいで身構えちゃうんだもん」
栞ちゃんはしばらく考えたあと、俺へ向き直った。
「そ、それでは……恭佐……さん。改めて、よろしくお願いします」
「……こちらこそ」
名前を呼ばれただけだ。
なのに、うまく目を合わせられなかった。
「仕方ない。今日はこのくらいにしておいてやる。だが、これで終わると思うなよ!」
額を押さえた雛乃が、いかにも負け犬らしい台詞を吐いた。
「何と戦ってんだ、お前は」
◇
「……恭佐さん?」
栞ちゃんの声で、意識が戻る。
「ああ、ごめん。まだその呼び方に慣れなくてな」
「あはは……実は私も、少し緊張してます……」
「じゃあ、お互い様だな」
そう言うと、栞ちゃんは安心したように笑った。
「今日も、楽しかったです」
栞ちゃんがスマホケースに入れた、キラキラと輝くシールを見つめて呟く。
「ああ。そうだな」
「その……また、一緒にどこかへ……」
栞ちゃんの声が、そこで小さくなる。
月見に行きたいと言ってくれたときと同じだ。俺たちに合わせるためじゃなく、自分の気持ちを伝えようとしている。
「そうだな。次はどこへ行こうか?」
栞ちゃんが顔を上げる。
「まだ決めてないけど、考える時間はあるだろ」
「はい。考えておきます」
明日は仕事だ。
栞ちゃんは今月いっぱい、大学もアルバイトも休む。
きっと、特別なことは何も起きない。
俺が出かけて、栞ちゃんが家で過ごして、夜になればまた顔を合わせる。
それでも、次はどこへ行こうかと話しながらエレベーターを待つそんな時間が、なんだか心地よかった。
エレベーターを降り、二人で部屋へ向かう。
「私、明日からの生活が楽しみです」
栞ちゃんが、前を向いたまま言った。
思いがけない言葉に、俺は一瞬返事に詰まる。
「……そうだな。俺も楽しみだ」
406号室。
雛乃避けに絵願掛けで選んだ部屋の前に着き、暗証番号を入力する。
扉を開けて栞ちゃんに番号を見せると、彼女は小さく頷いた。
「お邪魔します……」
「そこはもう、『ただいま』だろ?」
栞ちゃんは少し驚いた顔をして、開いた扉の向こうを見た。
それから、俺を見上げて微笑む。
「……ただいま、です」
「おかえり」
二人で、我が家へ帰った。
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