嵐の予感。②
〜雛乃視点〜
お兄ちゃんと目が合った。
私の視線は、お兄ちゃんの上に座っている女性へと移る。
お兄ちゃんを見る。
女の人を見る。
もう一度、お兄ちゃんを見る。
これは、いったいどういう状況なのだろう。
お兄ちゃんが、女の子を連れ込んだ?
いやいや、あのお兄ちゃんが急にそんな……。
女の人は、お兄ちゃんの顔を心配そうに覗き込んでいる。
「よかった……大丈夫そう」
その声に、少しだけ安心した。
少なくとも、お兄ちゃんを傷つけようとしているわけではなさそうだ。
だけど――誰?
元カノ?
それとも、ストーカー?
胸の中の不安が、さらに大きくなっていく。
確かめるしかない。
お兄ちゃんの貞操は、今度こそ私が守る。
私はいつもの仮面を被った。
「初めまして〜♡」
女の人が、ようやく私の存在に気づく。
「ひゃっ!?」
怯えたように身体を跳ねさせる。
「私ぃ〜、雛乃〜って言います♡ あなたのお名前は?」
「あっ、そのっ、榊原栞と言いましゅ! 相澤さんにはお世話になっております!」
榊原栞。
聞いたことのない名前だった。
少なくとも、お兄ちゃんの口から出てきたことは一度もない。
それなのに、この人は昨日からここにいて、お風呂とベッドまで借りたらしい。
どういう関係なんだろう。
どうして、お兄ちゃんは何も話してくれなかったんだろう。
そんなこと、直接聞けば済む話だった。
それなのに私は、確かめるように質問を重ねてしまった。
「昨日から?」
「は、はい……」
「2人で?」
「はい……」
「夜から?」
「…………はい」
「ふぅ〜〜〜ん♡」
お兄ちゃんが何か言おうとする。
「違う。色々と違――」
「おに――恭佐は黙ってて!」
危ない。
勢い余って、おにぃと言いかけた。
ただ、今になって思えば、そこで正体を明かしておくべきだったのかもしれない。
私は、お兄ちゃんとこの人の関係を知りたかった。
お兄ちゃんが、この人をどう思っているのか。
この人が、お兄ちゃんをどう思っているのか。
だけど、私が妹だと知ってしまえば、本当の反応は見られないような気がした。
だから、ほんの少しだけ。
そんな言い訳を自分にして、私は芝居を続けた。
「私……ずっと信じてたのに……」
栞ちゃんの顔が、みるみる青ざめていく。
「ご、ごめんなさい! 私、本当に何も知らなくて……!」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
この人は、本気で怯えている。
本気で私に申し訳ないと思っている。
何も悪いことなんてしていないのに。
もうやめよう。
そう思った。
それなのに、一度始めてしまった芝居をどう畳めばいいのか分からなくなってしまった。
「あなたは……悪くないから……」
これは、演技ではなかった。
本当に、栞ちゃんは何も悪くない。
悪いのは、勝手に疑って、勝手に試そうとした私だ。
「全部……恭佐が悪いの……」
「おい」
……いや、お兄ちゃんにも少しくらい責任はある。
連絡を返さなかったし。
私は少しだけ怒っていた。
でも、今の状況に関して言えば、ほぼ私が悪い。
「私……私とは……!」
あとひと言。
ここで盛大にオチをつけて終わろう。
そう思って、勢いよく顔を上げる。
「私とは! 遊びだったの!?」
その直後。
顔面にクッションが飛んできた。
「ひでぶっ!」
視界が、柔らかな闇に包まれる。
「おにぃ! なぁにすんのっ! 大事な妹の顔を傷物にする気!?」
言ってから、気づいた。
やってしまった。
「えっ?」
栞ちゃんの目が、大きく見開かれる。
「おに……いも……うと?」
ようやく私が妹だと知り、栞ちゃんはその場で固まってしまった。
私の正体を知った安心よりも、恥ずかしさと混乱が勝っているらしい。
やがて栞ちゃんは、自分がまだお兄ちゃんの上に乗っていることに気づいた。
「きゃあああっ!? ご、ごめんなさい!」
慌ててお兄ちゃんから飛び退く。
そんな栞ちゃんの姿を見ながら、胸の奥がまた少し痛んだ。
私は、何をやっているんだろう。
お兄ちゃんが変なことに巻き込まれていないか、確かめたかった。
それは本当だ。
だけど、そんな事情は栞ちゃんには関係ない。
私はこの人を騙した。
何も知らない人に、試すような真似までした。
本当なら、私にこの人を試す資格なんてなかったのに。
「その……栞さん」
「は、はい」
「ごめんなさい。悪ふざけが過ぎました」
「い、いえ! 私も勝手に勘違いしてしまって……」
栞ちゃんは、そう言ってくれた。
だけど、勘違いするように仕向けたのは私だ。
いつもの悪ふざけでは済まされない。
きちんと反省しなければならないことだった。
◇
お兄ちゃんから事情を聞くため、私たちはリビングで腰を落ち着けた。
私だけ床だった。
横暴だと思う。
それに、フローリングさんが痛そうだったので、こっそりクッションを敷いてあげた。
もちろん、お兄ちゃんには怒られた。
話を聞いているうちに、お兄ちゃんが無事だったことへの安心が、少しずつ胸の中へ広がっていった。
昨夜は、スマホの電源を切っていたらしい。
通知は15件。
着信は3件。
自分でも、ちょっと連絡しすぎたとは思う。
でも、お兄ちゃんは私を責めなかった。
呆れた顔をしていたけれど、少しだけ申し訳なさそうにも見えた。
やがて、お兄ちゃんが飲み物を持って戻ってくる。
栞ちゃんには、ココア。
私にも、ココア。
2人を困らせたから、お水しかもらえないと思っていた。
だけど、目の前へ置かれたカップからは、懐かしい甘い香りが漂っていた。
一口飲む。
昔から変わらない、お兄ちゃんのココア。
「……変わらないなぁ」
「ん?」
「なんでもなーい」
怒るときは、ちゃんと怒る。
悪いことをすれば、きちんと叱る。
それでも、見放すことはしない。
私の好きなものを覚えていて、何も言わずに出してくれる。
お兄ちゃんの、そういう優しさ。
昔から、何も変わっていなかった。
「……お2人は、仲が良いんですね」
栞ちゃんが、両手でカップを包みながら呟いた。
少しだけ寂しそうな声だった。
私は何も言わず、栞ちゃんを見つめた。
その表情が、何かを思い出しているように見えたから。
「……聞いてくれますか?」
そして栞ちゃんは、静かに話し始めた。
自分のこと。
家族のこと。
お母さんのこと。
お父さんのこと。
お姉さんのこと。
何年もの間、たった1人で抱え続けてきたこと。
「…………」
最初は、ただ辛い話だと思って聞いていた。
可哀想だと思った。
苦しかっただろうと思った。
だけど、話を聞いているうちに、それだけではなくなった。
もし、私だったら。
もし、お母さんが同じ目に遭っていたら。
もし、お兄ちゃんが苦しんでいたら。
私は、どうしただろう。
きっと同じことをした。
家族を助けるためなら、何だってしたと思う。
自分の時間も、やりたかったことも後回しにして、お金を貯めたと思う。
家族のためなら、何年だって我慢したかもしれない。
できるかどうかなんて、分からない。
だけど、私は家族が大好きだったから。
絶対に諦めなかったと思う。
栞ちゃんと同じように。
そう考えた瞬間、もう駄目だった。
自分の家族に置き換えて想像しただけで、胸が締めつけられた。
怖かった。
悲しかった。
それでも、栞ちゃんがどんな思いで頑張ってきたのか、ほんの少しだけ分かったような気がした。
気がつけば、涙が次々とこぼれていた。
栞ちゃんが可哀想だから泣いたわけじゃない。
ううん。
もちろん、それもあった。
だけど、それ以上に――この人が他人のように思えなくなっていた。
もし私だったら。
その想像が、どうしても頭から離れなかった。
話し終えた栞ちゃんのココアは、すっかり冷めていた。
お兄ちゃんが、私たちのカップを温め直してくれる。
戻ってきたカップを受け取りながら、私は鼻をすすった。
「……ぐすんっ」
「なんだよ」
「わたし……アイスがよかった……」
半分は本音だった。
もう半分は、これ以上暗い顔をしていたくなかったから。
少しくらい、いつもの私に戻らないといけない気がした。
お兄ちゃんは呆れた顔をする。
その横で、栞ちゃんが小さく笑った。
「……ふふっ」
その笑顔を見て、少しだけ安心した。
笑ってくれた。
私が泣いても、ふざけても。
この人は、私を嫌いにならずに笑ってくれた。
さっき酷いことをした私にさえ。
やっぱり、お兄ちゃんに似て、優しい人だと思った。
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