04.迷子
「どんだけ広いのよ、ここ……」
道を歩くこと、およそ一時間ほど。景色は変わらずどこを見ても木ばかり。最初こそは久しぶりの外の世界を楽しんでいたものの、元気な頃から珠璃はインドアの趣味が多かった。
足腰も相応に疲労が溜まってきてるが、それ以上にどこまで歩いたらいいのか、という精神的な疲労が私の足取りを重くする。
「夢の中だっていうのに、どうして疲れなきゃいけないのよ……」
ついに私は立ち止まって小休憩を挟む。それでも地面に座り込まないのは、今座ってしまえば歩けなくなるのが目に見えているから。
膝に手をついて文句を垂れ流しながら、進んできた道を振り返る。一時間歩いて、出口は見えない。が、この私が、一時間も歩いてきた。
出発した時点でもしかしたら他にもっといい手段もあったのかもしれないが、この結果を選択したのは他でもない私自身なのだ。
「そうだよね、決めたのは私だもん。どんな状況でも、最後まで自分で責任持ってやりとげなきゃ」
パンッと両頬を叩き、改めて気を引き締める。
いざ足を進めようと決意したその時、少し遠くから背丈ほどもある草がガサガサと掻き分けられる音が聞こえた。
「え、なに?」
今、私の周囲には時折肌を撫でる程度の小風は吹いてこそいるが、草を大きく揺らすほどの強い風は吹いていない。となると、自然が奏でるそれではない。動物か、それとも人か、何者かが、そこにいる。
音はまっすぐこちらへと近づき、それと共に私の恐怖心も比例して掻き立てられる。
近くまで寄られたのか、音は大きい。今さら逃げられる距離ではないだろう。人なら話せばわかるかもしれない。もしかしたら人里まで案内してくれるかも。しかし、もし獣だったとしたら、今の私にはどうすることもできない。
どうしようとあわあわしているうちに、音の主は正体を表した。
「プギィィィィィィッ」
音の主はまっすぐ私へと直進してくるが、咄嗟のタイミングでそれを回避し、代わりに私は尻餅をついた。
勢いよく倒れ込んだため、鈍く強い痛みが臀部に広がる。痛みを堪えつつ、衝撃によって閉じていた目を開けると、音の主から襲撃者へと呼び名の変わった元凶が目の前にいた。
「い、猪……?」
豚のような鼻に茶黒の毛並み。そして一番目につくのは、異様に発達した、反り返った大きな牙。私が知っている限り、あんな物騒なものなど、猪は持ち合わせていない。
もし、あれに突き刺されでもしたら、と最悪の展開を思うだけで背筋が凍った。
とにかく、逃げる態勢だけでもと思い体を起こすが、それを見た猪は毛を逆立たせ、カッカッカッと、何か音を発している。
音の意味は分からなくとも、全体像から本能で察することはできる。『これは威嚇だ』と。
今すぐにでも逃げねば、とは思っていても、いざ本物の殺意を一身に受けた私の体は震えるだけで、私の意思を伝達しない。
(まずいまずいまずいまずい……!)
威嚇を終え、先ほどと同じように咆哮を上げた猪は地面を蹴り、私へと突進してくる。
あぁ、あれに轢かれたらものすごく痛いんだろうな、骨も折れるだろうし、もしかしたら内臓だって無事じゃない。いや、夢の中なんだから痛みはそう酷くはないかもしれない。
いずれにせよ、なんだって夢の中なのにこんな目に遭わなきゃいけないのだろうか。
明確な危機の前にぎゅっと目を瞑った私の思考は加速し、時間の経過がゆっくりになったように感じる。
さらば、夢の中の私。こんな森の中ではあるが、短い間でも外を歩けたんだから私は満足だよ。
夢の世界に別れを告げ、現実を迎合しようとしたその時。
「何してんのよ……っ!」
猪の突進方向とは別の方角から、女性の声が聞こえたと同時に横っ腹に突進を受け、私はすんでのところで猪の攻撃から難を逃れた。
受けた勢いのままに地面に倒れ込み、咳き込みながらも目をそっと開けると、目の前には先ほどの声の主であろう女性が目の前に一緒に倒れ込んでいる。
「危ないから、そのまま伏せてて!ハノン、私が相手をするから側についてあげて」
「はい!」
女性は立ち上がると前に出て猪からのヘイトを一身に受けつつ、彼女は猪に向かって走り出す。猪の前で跳躍し、そのまま猪の背中を取り、猪もそれに合わせて彼女の方へと顔を向ける。
「お姉さん、大丈夫ですからね。安心してください」
その隙にこちらへ走り寄ってきたハノンと呼ばれた小さな女の子が私に寄り添い、安心するように声をかけてきた。
「う、うん。だけど、あの人は大丈夫なの?猪相手に一人で立ち向かうなんて危険じゃないの?」
先ほどの跳躍を見る限り、彼女の運動能力は高いのだろう。
だが、それがそのまま戦闘能力に直結するわけではない。彼女も言ってしまえば一人の女性だ。獣に比べれば非力なのは目に見えている。
「だから言ったじゃないですか、もう大丈夫ですよって。お姉ちゃんなら猪の一頭くらい軽く蹴散らしてくれますよ」
一頭『くらい』?
この子は何を言っているのだろうか。たしかにあの猪の特性を知っているのであれば、軽くいなす程度ならできるかもしれないが、軽く蹴散らす?
私を安心させるためにしては、少しばかり冗談が過ぎるのでは?
ここで怯えている場合じゃない、無力ながら私も加勢するべきだろうか。いや、私が出ていっても却って邪魔になりはしないだろうか。
結論を出そうと急ぎつつも、今もなお猪と対峙しているであろう彼女のほうへと視線を向ける。お互いにタイミングを見計らっているのだろうか、大きな動きは見えず膠着状態にあるかと思われた。
が、その時間はすぐに解かれ、猪が鳴き声を上げ彼女へと勢い任せに突撃し、その大きな牙で貫かんとする。
それを難なく回避した女性が手をかざしたかと思えば、次いで猪の悲痛な鳴き声が聞こえ、そのまま猪はこちらに背を向けて草むらの中へと逃げ込んでいった。
「まったく、危ないったらありゃしない。」
ひとまず難は去った。そう判断した女性は、私を助ける際に草むらの中に放り捨てていた大きなリュックをよいしょと担ぎ直し、こちらに歩いてくる。
「あ、あの。助かりました。ありがとうございます」
「どういたしまして。あれくらいどうってことないわよ」
立ち上がって礼を言う私に対して、軽く手を振り、如何に簡単なことだったかを表現する彼女に、本当に蹴散らせるほどの人だったんだ、と私は内心驚愕する。
ありがとうございましたと改めて頭を下げると同時に、これも失礼かもしれないが、私は二人の風貌を気付かれない程度にちらりと見る。
助けてくれた恩人たちの顔くらい覚えておきたいのだが、顔をじっと見るのは気が引ける。これは仕方ないことなのだ、と私自身に言い聞かせた。
一人は小さい体躯に対して大きなリュックを抱えた、まだまだ成長期真っ盛りであろう可愛らしい長い白髪の女の子。私を助けてくれた、レザーの胸当てを装備している、ハノンちゃんと同じく白髪の髪を後ろで一つ結びにしているお姉さん。ちなみに声をかけてくれたのは後者の女性である。
下げた頭を上げたあたりで、それで、とお姉さんは私に問いかけた。
「あなた、どうして一人でこんな所にいたの?仲間とはぐれちゃったのかしら」
「あ、いえ。元々一人で、同行者はいません。それで、森の奥から来たんですけど道が分からなくて……」
「ん?迷子って、森に入ったばかりの場所で?しかも森の奥に一人でいた……?」
「え、えっと……」
やっと人に会えたと喜んだのも束の間、今度は怪しいといわんばかりの視線で見られる始末。なにか変なことを言ってしまったのだろうか、私はおろおろとしながら二人を交互に見る。
その中で、先ほどは気づかなかったが、刃渡り十五センチはあるだろう、鞘に収められた長めの刃物がお姉さんの腰に携えられているのが見えた。
もしかして、と私はお姉さんに言葉を紡ぐ。
「まさか、私を助けたのってそういう……?あ、あの私金目のものなんて何も持ってなくて、本当なんです!誘拐なんてしても私可愛くないからお金にもならないですし……も、もしかしてその刃物で内臓を……?ごめんなさいなんでもするので命だけは勘弁してくださいー!」
「ち、違う違う!違うわよ!誰が強盗や人攫いよ!そんな物騒なことを大声で叫ばないでちょうだい!」
「あ、あのあの私ったらごめんなさい!だから命だけは……!」
「だから違うってば!」
「お、お姉ちゃん。そんな顔しないでください。ほら、このお姉さんも怖がってるじゃないですか」
「だ、だってハノン、この子ってば……」
「ほら、刃物を持った知らない人に怖い顔をされたり大声を上げられたら私だって怖いです。あ、あと!私たちは怪しいものなんかじゃないので、お姉さんも安心してください」
『お姉ちゃん』と呼んでいるあたり、二人は姉妹なのだろう。お姉さんを見かねたのか、女の子がそれを諌め、こちらに優しく微笑む。可愛い。
「それに、もしかしたら他所から来た人かもしれないですし、多少舗装されてるとはいえ、森で迷うのも仕方ないです」
だから落ち着いてください、とお互いを宥め、この場は落ち着いた。
「ハノンがそういうなら、まあ……。取り乱してごめんなさいね、私ったら……」
「あ、いえこちらこそ勘違いしてすみません。失礼なことばかり……」
私のほうが、いいや私のほうが、と始まる謝罪合戦が始まりかけたところで、ハノンちゃんからのストップが掛かり、プチ修羅場は終焉を迎えた。
と思いきや。
「あ、あれ?」
知らない場所で孤独に歩き続け、果ては獣に襲われるときた。肉体的にも精神的にも疲労が溜まっていたのだろう。ここにきて実害が出てきた。要するに『腰が抜けた』のである。
「お、お姉さん、大丈夫ですか?」
「う、うん、大丈夫。安心しちゃって腰が抜けちゃったみたい」
とてとてとこちらに心配そうにこちらの様子を窺うハノンちゃん。
「はぁ、仕方ない。ハノン、たしか敷物を持ってきてたわよね?ここで休憩して、そのあと街までこの人を送っていくわよ」
「え、そんな。そこまでしてもらうのは申し訳ないです」
「こんな状態のあなたを放置していってもし何かあったら、私たちも困るのよ。寝覚めが悪くなるっていうか後味が悪いっていうか……」
「ふふ、そうですね。私も賛成です」
そそくさとリュックを地面に下ろして休憩の準備を始めるハノンちゃん。
慣れた仕事であるかのように設営の手順をこなしつつ、こちらに顔を向け、ハノンちゃんは頭をぺこりと下げた。
「お姉ちゃんがごめんなさい。でも、ああ見えてお姉ちゃんってばとても優しくて。今だってお姉さんのこと心配してるんですよ?」
「ハノン、またなにか余計なこと吹き込んでないでしょうね?」
「なにも言ってないですよぅ、楽しくお話ししてただけです。ね、お姉さん?」
むっとした表情の姉と対称的に、こちらににっこり笑顔を向けてくるハノンちゃん。
この子、見た目の割に、なかなかに強かである。
「はい、準備ができましたよ!お姉ちゃんもお姉さんもお休みしましょう!」




