26.野外活動
素材調達をするべく街を出て歩くこと、およそ二時間。
前世の私だったらすでに白旗を上げていた距離だ。毎日粉を擂り潰したり、重い荷物を運んだりしていた成果だろう。知らないうちに体が丈夫になっていたらしい。どちらかというと今は足より先に、夏の日差しが体力を削っていく。時折吹き抜ける風だけが夏の炎天下の熱を少しだけ和らげてくれた。
時折、ハノンちゃんが歩く速度を少しだけ緩めて私の隣まで来る。
「疲れていませんか?」
その気遣いに「大丈夫」と返すと、ハノンちゃんは安心したように頷いた。
「無理だけはしないでくださいね。疲れたらすぐ言ってください。遠慮する必要なんてありませんから」
そう言って柔らかく微笑むと、彼女はまた一歩前へ出ていった。
ハノンちゃんだって、私と同じだけ歩いてきている。むしろあの小さな体なら私以上に疲れていてもおかしくない。それでも真っ先に心配するのは自分ではなく私なのだから、本当に優しい子だ。
森まではあと一時間ほど。森に入ってすぐに休憩を挟んでくれるとのことなのでもう少しの我慢だ。私は少し前から気になっていたことをカレンさんに投げかける。
「そういえば、ここに来るまで平穏そのものでしたけど、街からどれくらい離れると魔獣が出るんですか?」
「開けた場所に魔獣が出ることは、群れからはぐれた個体と出くわすくらいね」
カレンさんは前を向いたまま、汗を拭いつつ答える。
「この辺の魔獣は、森に生えている植物や、それを餌にしている魔獣を狙って生きているものがほとんどなの。だから、自分から森の外へ出てくることはあまりないわ」
「つまり、警戒するのは森に入ってからってことですね」
「そういうこと。だから今はそんなに緊張しなくても大丈夫よ」
カレンさんはそこでようやくこちらを振り返り、小さく口元を緩めた。
「もちろん森に入ってからは、私がちゃんと守ってあげるわよ」
同性ながら思わず惚れそうになるセリフだった。なにそれ私も言ってみたい。人生で一度は言ってみたい台詞ランキング上位に食い込んだ。
カレンさんの言ったとおり、道中に魔獣と遭遇するなんてこともなかった。
時折雑談を挟みながらしばらく歩き続けると、目の前には青々とした木々が空を覆う深い森が広がっていた。
「着いたわ。ここから先が目的の森よ」
カレンさんの言葉に、私は無意識に背筋を伸ばした。
街道を歩いている間は肩の力を抜いていられた。けれど、ここから先は違う。素材採取という仕事の始まりであり、同時に危険と隣り合わせの時間でもある。
「さっきも言ったとおり、森に入ったところで休憩しながらこれからの行動を確認するわよ」
カレンさんの指示に頷き、私たちは森の中へと入っていくのだった。
森に入ってすぐ、良さげな木陰に座り込んだ私たちは持参していた昼食を食べながら改めて採取リストを確認する。
「さて、私たちが採取する薬草の確認よ」
今回私たちが採取するものは、薬草はコール、ケファ、ヘリヤの根。キノコはシロシズクダケとツキアカリダケの合わせて五種類。
……うん。名前だけ聞いても全然分からない。
「覚えなくても大丈夫ですよ」
私の表情を見て察したのか、ハノンちゃんがくすりと笑う。
「採取しながら一つずつ説明しますから」
「ありがとうね……」
やはり私は表情に出やすいらしい。困っていることを見透かされたようで少しだけ照れくさくなり、私は思わず視線を落とした。
束の間の休息も終わり、いざ素材採取の開始。
私たちが向かったのは森の中にある湖。絶えず湧き続ける泉があり、その水が小さな湖を作っているらしい。そこで採取するコールは、その澄んだ水辺でしか育たない。また、シロシズクダケも湿気の多い場所にある原木に生えているため、湖に行けば素材が一気に二種類採取できるということだ。
「綺麗な湖だねぇ」
「ですよねぇ。私、ここに来るの好きなんですよ」
ちなみにハノンちゃん曰く、『ここの水は飲んでも大丈夫だし美味しいんですよ』とのこと。私はその話を聞くや否や水を手で掬い口に含んだ。確かに、少し舌触りが柔らかく飲みやすい気がする。
「……せっかくだし、こっちの水を汲んでいこうかな」
水筒に残っていた水を飲み干す。そして空になった容器を軽く振ってから、水面へと視線を向けた。
せっせと水を汲んでいる私とハノンちゃんの会話を他所に、カレンさんは軽く周囲を見回したあと頷いたあと、手をパンっと叩く。
「さあ、まずはコールの採取から始めるわよ。水辺を中心に手分けして探して」
その一言で、先ほどまで緩んでいた私たちの空気が少しずつ仕事のそれへと変わっていった。
というわけで採取活動の開始だ。コールの特徴は濃いピンクの花弁に黄色のめしべ。ここら一帯では似た色の植物は自生していないため割と簡単に発見できた。
「これで合ってるかな?」
「正解です。リズさんさすがです」
ハノンちゃんが嬉しそうに頷く。
今回私たちが必要とするのはコールの花の部分のみ。乾燥させた花を粉にしてシグの葉と調合することで風邪薬として使われるとのこと。
「今年は夏風邪が流行ってて、普段よりも在庫の減り方が早いらしいんですよ」
「そうなんだ。じゃあ今日はいつもより多めに採るんだ」
「はい。採れるだけ採っちゃいましょう!大漁です!」
「意気込んでるところ悪いけど、採りすぎても持って帰れないからね。袋に入る分までにしておきなさい」
カレンさんの注意にもはーい、と元気よくお返事。そうして作業すること約一時間。作業自体は滞りなく進んでいき、目標である袋いっぱいまで採取できた……わけだが。
「腰が痛い……」
コールは水辺に低く群生しているため、採取中はほとんど中腰の姿勢になる。途中で何度か背筋を伸ばして誤魔化してはいたものの、慣れない体勢を続けたせいか、とうとう腰が悲鳴を上げ始めてしまった。
「まったく、だらしないわね。ほら、次はシロシズクダケよ、しっかりしなさい」
私が腰を押さえているのを見て、カレンさんは小さくため息をつき空を見上げた。
「休憩させてあげたいところだけどあんまり休みすぎると帰りが夜遅くになっちゃうわよ」
採取を始めた時点で、すでに昼は過ぎていた。コールだけで一時間。残りも同じくらい時間がかかるとすれば、全部集め終えるまでには五時間近くかかる計算だ。
……思っていた以上に体力勝負の仕事である。
さらに一時間後。私たちは黙々とシロシズクダケを採取し、袋の中身も目標量まであとわずかというところまで増えていた。
「この調子なら予定通りに終われそうですね」
ハノンちゃんがそう言って笑う。その直後だった。
風は吹いていない。それなのに、少し離れた茂みから、ガサ……ガサッ、と草を掻き分ける音が聞こえた。どくん、と心臓が大きく脈打つ。
「……二人とも、こっちに来て」
カレンさんが声を潜めて私たちを呼ぶ。その表情からいつもの余裕は消えていた。私たちは音を立てないよう息を潜め、一歩、また一歩とカレンさんのそばへ寄り、茂みへと姿を隠す。
音の鳴る方向に対し警戒をしていると、茂みをかき分けて姿を現したのは、口元から反り返るような大きな牙を生やした猪。そう、私がこの森に初めて来たときに遭遇したあの魔獣だった。
「あの時に見た魔獣と同じ種類の……」
魔獣はどうやら水を飲みに来たらしい。私たちの存在にはまだ気づいていないのか、水辺までゆっくり歩み寄ると、湖の水を舐め始めた。
「ええ、そうね。まだ私たちには気付いてないようだし、ここでやり過ごすわよ」
カレンさんの指示に私たちは頷く。
息を殺し、魔獣が立ち去るのを待つ。ほんの数十秒のはずなのに、何分にも感じられた。
魔獣は水を飲み終えると、ゆっくりと森の奥へ向かって歩き始める。
……助かった。私が胸をなで下ろし、ほんの少しだけ力を抜いた、その時だった。
ぱきっ。
足元で、小枝を踏み折る乾いた音が森に響く。
「馬鹿……!」
しまった、と思ったときにはもう遅い。魔獣はゆっくりとこちらへ振り返り、その赤い瞳が、まっすぐ私たちを捉えた。
「あなたたちはそこにいて、絶対に出てきちゃ駄目だからね」
カレンさんはそう口早に指示を出すと、隠れていた茂みから飛び出した。
「こっちよ」
魔獣の視線を自分へ向けるため、わざと声を出す。その一声で、魔獣の意識が完全にカレンさんへと向いた。
じりじりとお互いに間合いを取り合う。低く唸り声を上げた次の瞬間、地面を蹴り上げ、巨体とは思えない速度で一直線に突進した。
「危ない……!」
思わず息を呑む。あの日の私は、その突進を避けることすらできなかった。だが、カレンさんは慌てることなく半歩だけ体をずらす。牙が服の裾をかすめる寸前を通り抜け、魔獣は勢い余って前方へと駆け抜けた。
「そこ」
彼女の手元に何かが集まっていく。それは淡い赤色の光を帯び、そこだけ空気が歪んでいるように見えた。
そして手を前に突き出したかと思えば、次の瞬間、放たれたそれは目にも留まらぬ速さで一直線に駆け抜けた。魔獣の首元を通過したかと思うと、一拍遅れて首がずるりと滑り落ち、そのまま音を立てて地面へと崩れ落ちた。
森は、再び静寂を取り戻した。
「……終わった?」
勝負をつけたのは、あまりにも一瞬だった。
「もう大丈夫よ。出てきなさい」
ふう、とカレンさんは一仕事を終えたかのように額の汗を拭い、私たちを呼ぶ。
恐る恐る茂みから顔を出す。さっきまで生きていた魔獣はぴくりとも動かず、その巨体を地面へ横たえていた。
「すごい……」
私がただ立ちすくんで動けなくなってしまっていたあの魔獣を、カレンさんはほんの数秒で倒してしまった。あまりにも実力差がありすぎて、強いという言葉だけでは足りない。
「ケガは?」
「だ、大丈夫です」
「私も問題ありません」
私とハノンちゃんが返事をすると、カレンさんは小さく頷いた。
「ならよかったわ」
「えっと、カレンさん。さっきは一体何をしたんですか?」
自分でも少し間の抜けた質問だとは思った。けれど、目の前で起きたことはそれくらい理解が追いついていなかった。
「なにって、風を魔法で圧縮して刃にしただけよ。あの距離なら十分」
「風……刃?」
魔法。やはりというべきか。医療魔法という人を救うための魔法もあれば、逆に相手を攻撃するための魔法だってある。同じ『魔法』という言葉で括られていても、その用途はまるで違うのだろう。
「そんなに難しい話じゃないわ」
カレンさんは手を振りながら淡々と言った。
「今後あなたにも必要になってくるだろうし、良かったら教えるわよ」
魔法を、教える?そんな簡単に魔法というのは取得できるものなのだろうか?
「そんなに驚くことじゃないわよ」
私の驚きに対して、カレンさんは肩をすくめる。
「基礎は誰でも覚えられるし、使い方次第なだけ。攻撃だって、さっきみたいに単純よ」
「単純って言いますけど……」
思わず視線が魔獣の残骸へと向く。あれを単純で済ませていい世界なのだろうか。そんな私の様子を見て、ハノンちゃんが小さく苦笑した。
「お姉ちゃんの『単純』は、ちょっと参考にしない方がいいですからね」
「失礼ね」
カレンさんとハノンちゃんの軽いやりとり。けれどそのやり取りが、少しだけ場の緊張を和らげてくれた。
「まぁ、無理にとは言わないわ。必要になったときでいいから」
その言葉は、いつもの淡々とした調子のままだった。けれど妙に引っかかる。
必要になる。
それが、ただの親切心だけじゃない気がして、私は小さく息を呑んだ。
「この仕事をやるなら、最低限の身の守り方くらいは知っておいた方がいいってだけよ」
カレンさんはそう言った後、周囲へ一度だけ視線を巡らせる。
「じゃあ、あなたたちは引き続きシロシズクダケの採取を続けて。少し急ぎ目にお願いね。私はちょっとやることができたから」
そう言うと、カレンさんは倒れた魔獣のもとへ歩いていき、腰に差していたナイフを抜いた。
その姿を見て、私は何をするつもりなのかを察した。
解体だ。
魔獣とはいえ命をいただく以上、最後まで無駄なく使う。それはきっと、この世界では当たり前のことなのだろう。理屈では納得できる。でも、感情がすぐについてきてくれるわけではなかった。
「リズさん、大丈夫ですか?」
心配そうに覗き込むハノンちゃんに、私は小さく笑って頷いた。
「うん。ちょっとびっくりしただけ」
「最初はみんなそうですよ」
その一言に、少しだけ肩の力が抜けた。
「行きましょうか」
「うん」
カレンさんに任された仕事を終わらせるため、私たちは再びシロシズクダケを探し始めた。とはいえ、魔獣に遭遇するまでにある程度の採取は終えていたため、残りを採りきるのにそう時間はかからなかった。
「どう?終わったかしら」
あちらの作業を終えたカレンさんがこちらにやってきた。何気なくその後ろへ視線を向けた私は、思わず息をのんだ。
皮は剥がされ、必要な部位だけが丁寧に切り分けられている。さっきまで牙をむいて襲いかかってきた面影はなく、そこに残されていたのは、ただの肉の塊だった。
「血の匂いを嗅ぎつけて別の魔獣が寄ってくる可能性もあるわ。長居はしない。すぐ次へ移動するわよ」
「は、はい!」
私たちは慌ただしく採取したシロシズクダケを袋へ詰め、忘れ物がないことだけを確認する。
さっきまで穏やかだった森が、今はまるで別の場所のように思えた。魔獣はいつ現れるか分からない。それでも、この人たちはそんな危険と隣り合わせの場所で、いつも仕事をしているのだ。
警戒を怠らないように周囲へ視線を巡らせながら、それでも歩みは自然と速くなる。さっきまでの穏やかな時間が嘘のように、森の空気は少しだけ重く感じられた。
ここは、ただ素材を集めるだけの場所じゃない。私はようやく、それを実感し始めていた。
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