〜視覚情報だけでは足りない。指で見る世界〜
私はたまに、娘が学校に行っている間に部屋を片付ける。
床に散らばった鉛筆とノート。 途中で放置された工作。 開きっぱなしの図鑑。 絡まった毛糸。 少しだけ切り取った折り紙。 踏むと痛いLEGO。
けれど、娘が帰ってくると、またすぐに部屋は散らかる。
なんでこの子は片付けができないのだろう。ずっとそう思っていた。
けれど、違った。
娘は、片付けられないのではなかった。片付けると、世界が消えてしまうのだ。
娘が小学生になって、宿題になぞり書きのプリントが出るようになった。娘はそのなぞり書きが、とても雑だ。
線からはみ出る。同じプリントの中にある絵のなぞり書きに至っては、やろうとすらしない。先生に言われて渋々一つだけやると、個人懇談で聞いた。
なぜ、こんな簡単なことをきちんとやれないのだろう?
娘はボタンの服が大嫌いなのに、着なくてはいけないからと制服は着る。タイツの縫い目が嫌なのに、バレエの時はタイツを履く。どんなに嫌なことでも、しなくてはいけないと納得すれば、する子だ。
なので、なぞり書きという行為はしている。課題だからやらなくてはいけないことは、納得している。
娘が納得できていないのは、丁寧にすることだ。
なぜ丁寧にしなくてはいけないのか、娘には目的がわからない。だから、丁寧にしなくてはいけないという気持ちも生まれない。
娘の手は正直だ。折り紙は丁寧に折れる。工作も丁寧にできる。丁寧にしないと、後の工程で自分が困るからだろう。
ハサミは使える。細かいパーツも切り出せる。けれど、なぞり書きになると線がかすれる。手が揺れる。
不思議なことに、同じ鉛筆を使っていても、書きたいものを書く時は、娘は綺麗な字が書ける。
なぞり書きの単調すぎる繰り返しが、娘には苦痛なのだと思う。
家で宿題をするとき、娘は「あああああ」などと、書くひらがなを口に出しながらリズムを作り、リズムに乗ることで強引に同じ字を何度も書いていた。
発達性協調運動症があり、鉛筆の持ち方もおかしい。それでも、書きたいものを書くときの線は、きちんと娘の意図した通りに引ける。
例えば、迷路を書く時はとても細かい線で、枝分かれを作りながら壮大なコースを作る。
もし、なぞり書きを丁寧にしなさいと怒られる環境なら、娘は丁寧にしたかもしれない。けれど、丁寧にやっても、雑にやっても、どちらにしろ丸がもらえる。だから娘は雑を選んだのではないだろうか。
娘には、とにかく最短で終わらせようとする癖がある。解くことに興味が沸かなかった面倒な紐の知恵の輪ならば、紐を切ればいい。それが彼女の考え方だ。
一方で、娘は学校の机の引き出しを、本当に丁寧に整えているらしい。
一つひとつの文房具や教科書の置き場に、娘の意図がある。ここにはこれがあるべきだという、娘の中の答えがある。その答え通りに、手が動く。机の整理は、まるでパズルのようで楽しいのだろう。
自分が丁寧にしたいと思えば、娘は神経質すぎる程、どこまでも丁寧になる。工作やブロックは、ミリ単位で調整する。
娘は素直だ。思ったことがそのまま行動になる。なぞり書きの雑さも、知恵の輪の紐を切ることも、引き出しの美しさも、工作の丁寧さも、全部同じ理屈だ。意味があればやる。意味がないと思えばやらない。
学校の引き出しは綺麗に片付けられる。つまり娘は、片付けができないのではないのだ。なのに、娘は家では何も片付けない。全て、出したら出しっぱなしだ。
だからノートがいつも見える場所にある。ノートが見えていれば、娘は何かを書く。ノートを見て、書きたくなって、書く。書きたいから道具を探すのではない。道具が見えることで、書きたい気持ちが生まれるようだ。
私にとっては全てただの書きかけのノートだけれど、娘にとっては一冊ずつ独立した存在となっている。書きたいものが、それぞれのノートで違う。
全ての出しっぱなしに、意味があった。
ノートは、彼女にとって、見えている間にだけ存在している。ノートを片付けると、もう書かない。彼女は自分の目の前にないものを探し出して書くということを、よっぽど書きたいことがなければしない。
なので、ノートが見えないと、もう、書きたい気持ちが生まれてこない。
娘は、好きなものが見える場所に散らばっていて、やりたいことがすぐに始められる状態で、はじめて安心できる。
だから、整った、何もない部屋では落ち着けない。
見えないと消えるものは、物だけではない。
娘は、嬉しいと歌う。
楽しいと踊る。
不安だと、私にくっつく。
気持ちが、言葉より先に体に出る。
娘にとって感情は、内側で静かに確かめるものではなく、まず体が動いて外に出ることで、はじめて自分にも見えるものなのかもしれない。
踊りながら楽しさを大きくし、歌いながら嬉しさを確かめ、不安な時は私に触れることで、安心を探している。
年中の時、娘はバレエの発表会の招待状は書けたのに、年長さんへのお礼の手紙が書けなかった。
見えている気持ちは書ける。けれど、過ぎ去った出来事になると、急に言葉が見つからなくなる。
だから私は、日記を書けば、見えなくなった気持ちを掴み直せるのではないかと思った。
大好きなちいかわのノートを買い、ご褒美で釣って日記を書かせた。
けれど、娘にはその日の出来事を思い出して書くということが難しそうだった。娘にとって見えなくなった出来事は、もう存在しない。存在しないことは、書けない。
ラーメン食べたことは?
LEGOで遊んだことは?
一つずつ私が列挙し、娘はその中に書きたいものがあれば書いた。
「しおらーめんをたべました」
そんな日記でも書き続けていると、いつの間にか、おいしかったですと続けて書けるようになった。
楽しかった、嬉しかった、そんな言葉を書けるようになった。時々自分から、楽しかった一日を日記に書くこともあった。
毎日ではないけれど、薄いノート1冊分の日記を書いたとき、娘は誇らしげな顔をした。そして、もう日記は辞めた。
いつか忘れやすい彼女が、日記を書くという選択肢を思い出すかもしれないし、思い出さないかもしれない。
出来事だけではなく、見えなくなると、気持ちも消える。
バレエ教室の帰り、クラスメイト3人で一緒にシール交換をした。その後3人で駐車場に向かう際、2人の子に置いて行かれたと思って、娘は後ろを歩く私の方に引き返してきた。
娘は複数人のコミュニケーションが苦手だ。相手が複数人になると、いつ会話に入ればいいのかわからない。なので、他の2人が並んで話していると、自分は疎外されたと感じるようだ。
娘は、みんなでわいわい話したいというより、一人の子と深く話したいのだと思う。
何でもない雑談が苦手だ。けれど、一緒に踊る。 一緒に世界を作る。 同じイメージを共有する。そういう関わり方の時、娘はとてもイキイキとする。
駐車場までの道のりを、娘は2人の後ろを寂しそうに歩いた。車に乗り込みバイバイをした時もまだ悲しんでいたのに、車窓から2人の姿が見えなくなった瞬間、娘は笑ってケロリと言った。
「お腹すいた!とんこつラーメン食べたい」
悲しみの対象が見えなくなって、気持ちも消えたのだと思う。
幼稚園の頃に好きだった子と、違う小学校になった。すると娘は、入学してすぐに同じ小学校の6年生に恋をした。
少し気になって、幼稚園で好きだった子は?と聞いてみた。すると「小学校が違うからもういい」と返ってきた。
今は、集団生活の中で、少し変わった子で済んでいる。支援学級も放デイも、ありのままの姿の娘を受け入れてくれる。
けれど、娘はこのままで、将来、女の子の集団でやっていけるだろうか。
そんな少しの心配と、娘ならば、きっとなんとかなるのではないかという希望もある。
娘は幼稚園に入学したばかりの頃、一人の女の子とよく衝突していた。どちらも自分を曲げない。けれど、ずっと一緒に過ごすうちに、お互いに曲がらないまま、ぶつからない関わり方を身につけた。
支援学級も、放デイも、極端に女の子がいない。けれど、週1回のバレエ教室で、女子社会に慣れる練習ができている。そこで、シール交換ができた。
もちろん、女子社会が合わなければ、無理に合わせなくていいと思う。
人間関係は、時に衝突し、傷ついても、娘が自分で学んで、自分で自分に合う繋がりを見つけていくしかない。
一人、年に数回だけれど、定期的に一緒に遊ぶ女の子がいる。家が遠いので、頻繁には会えない。
娘はその女の子への手紙に「なつやすみあそぼうね」と書けなかった。夏休みに一緒に何をするかが具体的に見えなくて、イメージが浮かばなかったのだろう。
けれど、「らいねんもいっしょにおはなみしようね」は書けた。先日一緒に楽しんだお花見は、来年も一緒にしているイメージが見えた。だから書けた。
その子と遊ぶと、いつもステージが始まる。児童館で、公園で、河原で、橋の上で、滑り台の上で。娘が踊りだすと、一緒に踊ってくれる。もちろん、桜の下でも一緒に踊った。
娘は、自分の世界を壊さずに一緒に遊んでくれる相手であれば、気づけば自然と隣に並んでいる。
そしてそれは、人だけではない。
売り場で「これ欲しい!」と散々言っていたおもちゃを、買った途端に触らなくなる。
またいらないものを買ってしまったと、いつも、私はため息をつく羽目になるのだ。
メルちゃんの着せ替えマグネットブック、すみっコぐらしのビー玉コースターやクレーンゲーム…
飽きっぽい、わがまま、本当に欲しかったの? そう思っていた。
けれど、それは外から見ただけの現象だった。
娘は、おもちゃを見た瞬間に遊び終わっていた。
どう遊ぶか、どんな展開になるか、頭の中で一瞬で一通り遊ぶ。だから手に入れた頃には、もう遊び終わっている。
私は欲しい物は使いたいのだと思っていた。けれど、娘にとっての「欲しい」は、「知りたい」だった。
欲求は本物だけれど、目的が違った。
次々、欲しいものが増える。一つ買ったら、もう次の欲しいものをリクエストされる。
今は、バレエの発表会が終わったら、ご褒美にぽこあポケモンを買って欲しいと言われている。
マイクラも、どうぶつの森も、ピクミンも、カービィも好きなまま。
好きは上書きされない。新しい好きが来るたびに、古い好きは奥へと押し込まれていく。
一番好きな子はコロコロ変わる。でも前に一番だった子のことも、好きなままでいる。新しい好きの下に、どんどん積み重なっている。
ただ、娘は見えなくなると、思い出せなくなる。おもちゃも、気持ちも、人も、全部同じだ。
おもちゃは「もう遊ばないなら捨てるよ」と言いながら見せて、思い出させると、また遊び始める。そんなおもちゃとは違い、会えなくなった人は、そうはいかない。出しなおす機会がない。だから消えたように見える。
娘は図書館が好きだ。1枚のカードで10冊ほど借りられる。私と娘でカードは2枚。一度に20冊もの絵本を、自分で選ぶ。
小学生になって図書館に行く暇がなくなり、娘が学校に行っている間に私が娘の好きそうな本を選んで借りたことがあった。
娘は喜んで読んだけれど、やっぱり自分で選びたいと言った。
娘にとって、図書館のたくさんある絵本の中から読みたい本を探すことが、何よりも楽しいことだったのだ。
ただ、絵本が読みたいだけではなかった。
けれど、娘は気に入っていた絵本も忘れる。だから、前に借りた本を選ぶことも多い。
「この絵本、家にも買って」
本当に気に入った絵本は、そう頼んでくる。けれど絵本には絶版があるので、全ては入手できない。それでも、家の本棚は既にパンパンになっている。
いくら好きな本でも、手元にないと思い出せなくなることに、自分で気付いているからだろう。
だから、娘は溜める。
描いた絵は「貼っておいて」と言う。
おもちゃは「捨てないで」と自分で先に言う。
気に入った絵本は「買って」と言う。
忘れると消えるとわかっているから、好きだったものの存在を守るために、物を残す。
物が記憶の錨になっている。
物が存在している限り、その物との関係は終わらない。「もう捨てるよ」と目の前に出すと、また遊び始めるように、見えた瞬間に、存在が戻ってくる。
娘の脳は、自分で保持できない記憶を外部に保存しているのかもしれない。
交換したシール、一緒に作った工作、一緒に遊んだゲーム。関連した何かさえあれば、思い出は消えない。
娘が出しっぱなしにするのは、だらしないからではなく、それが彼女にとって正しい状態だからだった。見える場所に置くことで、自分の世界を維持している。
娘はいつだって、自分の脳の仕組みに正直に生きているだけ。
それでも、娘のやりたい気持ちが消えるとわかっていても、片付ける日がある。
たぶん娘の目は、情報量が多いものを視界から外すようになっているのだと思う。だから、平置きのテーブルの上は見る。けれど、棚差しでは見ない。
わかっていながら、棚にしまう。うちには、全てを平置きにできるようなスペースはないのだ。
娘がわが家で整理整頓できる場所が、一箇所だけあった。本棚だ。いつの間にか3台になった娘の本棚に、ジャンルごとにこだわって、丁寧に絵本を並べている。
ジャンルごとにわけてあれば、娘は探せる。図書館でも、まず表紙が見えるように置かれたものから選ぶけれど、その後、読みたいジャンルの棚から絵本を選ぶ。
娘にとって情報は、順番に並んだ記号ではなく、空間の中に配置されたものなのだと思う。
だから、文字だけがぎっしり並ぶと、どこから手をつければいいのかわからなくなる。
娘は、余白がなく字が詰まっている本が苦手だ。なので、児童書はまだ読まない。
楽譜も、八分音符の多い曲は譜読みが辛い。だから楽譜を見るのではなく、鍵盤を触りながら、指先の感覚で音を紡いでいく。
その時に娘が、「自分には指にも目がある」と言った。
指に目があるとは、一体どういうことだろう?
そういえば娘が幼稚園に入る前、一緒にスーパーに行くと、彼女は商品をやたら触っていた。
物を触る、踊る、走る、ばら撒く。
なので、夫が帰宅してから、私一人でスーパーに行っていた。
あの頃の私にとっては、娘のスーパーでの行動は困った特性でしかなかった。
今思えば、知らないものがあれば触って知りたくなる娘にとって、好きなものと未知のものがたくさんあるスーパーは、刺激的すぎたのだと思う。
娘はいつも、ビニール越しに肉や魚を触っていた。あれは、手が知りたがっていたのだ。
2歳の時、80ピースのパズルをした。あの時も、描かれた絵ではなく、指でピースの形を探っていたのを思い出した。
幼い頃から何時間も遊んでいた、砂場や水遊び、粘土、ブロック。全部同じことが起きていた。
娘はずっと、指で見ていた。そして、彼女が指で見る時、大人顔負けの集中力を発揮していた。
確かに、彼女の指には目があるのかもしれない。
そして、指の目はきっと、彼女の苦手な平面の情報を補完する働きがある。
例えば、娘はトリックアートが好きだ。
平面なのに立体に見える絵を、不思議がるというより、「見える!」と喜んでいる。
擬態する昆虫や魚を探す本も好きだ。葉っぱや岩に紛れた生き物を、「いた!」とすぐ見つける。私にはただの模様にしか見えないのに、娘には空間の中の違和感として浮かび上がって見えているのかもしれない。
空を見上げれば、「あの雲は龍が飛んでいる所」「あっちは今鯉が空に昇っているから、この後龍になるね」と、見立て遊びを始める。
娘は、物の形そのものを見ているというより、その奥にある空間や立体を頭の中で組み立てているように見える。
だから娘が描く絵は、何かを描いたと言うより、頭の中の立体映像をそのまま紙の上に置いたように見える。
娘は、触ることで情報を立体として捉え直しているのかもしれない。
目だけで見ると平面の記号として流れてしまうものも、指先から入ることで、立体感のある情報に変わる。
余白の少ない本。 八分音符が並んだ楽譜。 それらは全て、平面的な情報だ。
そういうものを見ると、娘の脳は渋滞する。
けれど、立体になると急に理解できる。本は読み聞かせにする。楽譜は弾いてみる。
目だけでは足りないから、指や耳の情報がいる。
娘は絵を描く時、妙に立体にこだわる。
人の顔より先に、建物の奥行きや階段の角度を描こうとする。
それに比べるとなんとも簡素すぎる棒人間を描き、周りに、彼女なりの遠近法を使った立体的な背景を描く。
迷路も、ただ線を引いているのではない。紙の上に、まるで宝の地図のような空間が、勢いよく一気に広がっていく。
工作もそうだ。
裏側はどうなっているか。どんな仕組みを作ればいいか。娘の頭の中では、常に立体が動いている。
娘は工作をするとき、「ちっ、ちっ、ちっ、ちっ…」と、舌打ちでメトロノームのようにリズムを取りながら作っている。
嫌な癖だと思ってやめさせようとしたこともあった。けれど今は、あれは彼女の脳がノっているサインだとわかったので放置している。
手だけでは足りない。頭だけでも足りない。工作しながら増やせる刺激を自分で作りながら、どんどん増やしている。
立体的な刺激なら、多ければ多いほど、娘は落ち着く。
娘の頭の中には、常に完成形がある。でもそれを外に出す手段が、言葉では間に合わない。絵では、まだ上手く描けない。
けれど工作は、思ったままの形になる。手の目を使い、頭の中の立体的なイメージを、あっという間に三次元に再現できる。
言葉や視覚的な記号を介すると脳の処理が渋滞してしまうけれど、指先からダイナミックに入ってくる三次元の情報ならば、娘の高速な脳は渋滞せず、ダイレクトに処理できる。
処理速度が速すぎる娘にとって、工作は、自分の速度に世界が追いついてくれる数少ない行動なのかもしれない。
単調な繰り返しのなぞり書きが苦痛なのも、きっと同じ理由だろう。なぞり書きには、奥行きがない。だから声に出してリズムに乗ることで、とにかく早くやろうとする。
動画もそうだ。娘はいつも、早口なYouTuberや、AI音声を好む。もうやめてと何度言っても、暇さえあればYouTubeを見ていて困っている。そして、お風呂の時間に切り替えられず、癇癪を起こす。
珍しく動画を見ていないなという日に、娘はいつも工作をはじめる。
紙を切る。テープを貼る。箱を繋げる。思いついたまま、手を動かす。こちらもなかなかやめられない。次々とアイディアを思いつく。脳の回転が止まらない。
けれど、動画の時と同じようにお風呂の声をかけても、工作ならばピタリとやめられる。
たぶん、途中の作品が、そこに残っているからだと思う。続きを目で確認できる。娘の中で終わりではなく、一時停止にできた。
動画も完全に消すと怒る。トイレなどでの一時停止は怒らない。すぐに戻って来れるなら、流れが消えない。けれど、いったん離れると、もうその流れに自分が戻れないのを知っている。
動画を止めることは、ただ画面を消すことではなく、その瞬間まで自分の中に流れていた感覚ごと切れてしまうことなのかもしれない。
だから、視聴履歴から同じ動画を見ても、娘にとっては同じではないのだ。それで、娘は癇癪を起こす。
さっきまで確かにあった自分の一部が、急に無くなる。それは、6歳が受け止めるには衝撃的なことなのかもしれない。
動画の時、娘は刺激を受け取っている。
工作の時、娘は刺激を生み出している。
娘の特性を一つひとつ並べると、わかりやすくなる。幼児向けワークの、関連したものを線で結ぶ問題のように、シンプルにつながっていく。
複雑に見えていた娘の行動は、実はとてもシンプルだった。
娘にはいくつもの特性がある。自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症、発達性協調運動症…
だから、わかりにくいと思っていた。けれど、一つひとつ見ていくと、それぞれの理由はシンプルだった。
なぞり書きを丁寧にしない理由が、丁寧にしなくても丸になるからだったように。
娘は太い毛糸でリリアン編みをする。本当はかぎ針編みがしたいけれど、まだ難しいからだ。
リリアン編みは、同じ動作の繰り返しだ。それでも娘は飽きない。指に毛糸を引っ掛けて、一目ずつ外していく。その時の娘の指は、毛糸の太さや引っかかりを確かめながら動いている。頭ではなく、手が考えている。
私には、リリアン編みもなぞり書きと同じ、単純作業のように感じる。できあがるのは、くるくると丸まった紐だ。何かに使うわけでもない。ただ作る。
娘にとって大事なのは、単純か複雑かではなく、指先で世界と繋がれているかなのかもしれない。
だからこそ、娘は完成したものより、自分の手で無限に変化させられるものに惹かれる。
指先で世界を自由に作るおもちゃと言えば、LEGOがある。おもちゃにすぐ飽きる娘だけれど、LEGOは、ずっと一軍のままだ。沈んでいかない。
それはきっと、LEGOには終わりがないからだ。
作れるものが無限にある。壊して、また作れる。娘が成長するたびに、LEGOはそれについてくる。満タンになる前に、次の遊び方が生まれる。
ずっと無限に続く、終わらない世界。
娘の脳にはカラフルなパーツがたくさん入ったLEGOの黄色いボックスがあり、普段は見えるものばかり使っている。けれど、一度作りたいものが思いつけば、小さなパーツ一つでも底まで探して見つけ出す。
4歳の時、娘はハートちゃんというキャラクターを生み出し、絵本を何冊か作った。6歳の時、自分の図書館が作りたいと思った彼女は、真っ先にその絵本を出してきた。
底に沈んでいたものでも、やりたいことに使えると思った瞬間、ぱっと取り出すことができる。
娘が毛糸でリリアン編みをした後、残りの毛糸が床に散らかっている。
引っ張り出された何色もの毛糸が、それぞれ好き勝手な方向を向いて、何個も転がっている。
私には、娘の特性も、短く太い毛糸が無数にあって、絡まっているように見えていた。
けれど娘の中には、無数のパーツが存在していただけだった。
なんだ、LEGOだったのか。
そもそも、糸ですらなかったのだ。
見えない糸を勝手に絡ませて、一人で困っていたのは、私だった。娘を理解しようとして、ずっと疲弊していた。
それが明確になった時、私の心は軽くなった。
娘の脳にとって、見えているものだけが、存在している。見えないものは、存在しない。
なぞり書きが雑なのは、丁寧にする理由が見えないから。
おもちゃを触らないのは、見た瞬間に頭の中で遊び終わっているから。
好きが消えたように見えるのは、新しい好きの下に沈んでいるだけで、消えてはいない。
出しっぱなしは、だらしなさではなく、見える場所に置く事で自分の世界を維持している。
スーパーで商品に触るのは、指で見たいから。
全部が一本ずつ、つながっていた。私が難しく見ようとし過ぎていただけだった。
それでも、わかっていても、私は部屋を片付ける。何事にも限界がある。娘にばかり配慮していたら、生活ができない。
娘の中からその存在が消えることを知りながら、片付ける。捨てるものだってある。
だから、私の自己満足かもしれないけれど、ノートと鉛筆だけは、テーブルの上に置いておくようにしている。
娘が、いつでも自分の世界に戻ってこられるように。
見えている間だけ存在する娘の世界を、今日も私は、なるべく壊さないようにしながら、隣で見ている。




