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〜処理速度から見る娘の脳の仕組み〜

娘の脳は、何を処理するのが速いのか。


去年受けた娘の知能検査の結果。処理速度が非常に高い。他の指標も少し高めの中、ワーキングメモリーだけが平均値だった。


処理速度とワーキングメモリーの差は27。でも、それが日常のどこに現れているのかが、わからなかった。


探している速さとは反対に、娘の遅い部分はこれでもかと目についた。


朝食を食べるのが遅い。取り掛かりが遅い。同じことを何度言っても動かない。


娘は毎朝、小学校に遅刻ギリギリで出発する。

「早く早く、遅刻するよ」と、私は娘を急がせようとするけれど、娘は全く急いではくれない。


本当に処理速度が高いのだろうかと、正直、疑っていた。


やっと見つけたのは、音楽の好みがきっかけだった。 娘が好きな音楽には共通点がある。テンポが速く、変化があり、情報量が多い。トルコ行進曲、運命、歓喜の歌。


逆に苦手なのは、低音中心で、ゆっくりで、単調なもの。トイレを流す音や掃除機の音も嫌いだ。


ただ速い音楽ではだめで、変化し続けることが必要だった。たとえばトルコ行進曲。音が細かく動き続け、同じように聞こえて少しずつ変わっていく。


情報量の多い話は聴けないのに、情報量の多い音楽は聴ける。その違いは、リズムだ。


音楽に限らず、娘はリズムを感じられるものが好きだ。娘の脳は、リズムが楽しさに直結する。


娘はやたら早口のYouTuberのゲーム実況ばかり見ている。処理速度が高いと、早口の方が聞き取りやすいのかもしれない。仮入学の際に先生から「近くでゆっくりはっきり話します」と言われた時、「ゆっくりよりも早口の方が聞き取れるかもしれません」とお伝えできたのも、その気づきがあったからだ。


情報処理の支援は、入力を遅くすることではなく、適切な密度と変化を維持することにある。その認識は、娘と暮らす中でじわじわと形になってきたものだ。


決定的な瞬間があった。


「2・4・6・8・10、にーしーろーはーとー」

カービィのグルメレースの替え歌で、娘はこのフレーズを繰り返し歌いながら踊っていた。そして言った。

「この中に、鳥が隠れています」

答えはハトだ。自分で作った替え歌の歌詞の中から言葉を見つけ、さらにクイズにしてきた。


音楽から言葉へ、言葉から謎かけへ。娘の発想はその場で三段飛びしていた。


これだと思った。


娘の処理速度の速さは、何かを速くこなす力ではなかった。領域を飛び越えながら、発想を転換していく速さだ。


作業療法士の先生に、こう言われたことがある。

「娘ちゃんと話す時は、いつもお母さんの通訳が必要なんです」

娘と話していると、突然、飛ぶ。関係なさそうな話題に、なぜかジャンプしている。でも、無意味に飛んでいるのではない。本人の中には、必ず筋道がある。


私は慣れているのでついていけるが、他の人にはそれが見えない。


大好きなラーメン屋で、娘は辛そうな担々麺のPOPをじっと見て、突然言った。


「ダジャレ言うね。からし食べたカラスのどカラカラ」


そこから娘は急に、辛子学校の世界を作り始めた。辛子小学校にはカラスがいる。辛子中学校には辛子がいる。辛子高校にはキムチがいる。辛子大学には唐辛子がいる。辛子大学は現実の市内の大学の隣にあると言った。


そのラーメン屋は少し遠く、頻繁には行けない。娘はいつも、そこへ行きたがる。


つまり、道中楽しみでワクワクして、お店について嬉しさが爆発した時に見たPOPから、ダジャレへ、ダジャレから世界創造へ飛んだ。


楽しい時、娘の思考の速さは連鎖的に、どこまでも跳ぶ。いつも思いつきから、世界が広がる。



娘はバレエのレッスン中、ゆっくりちょこまか動くパドブレがどうしても苦手で、親の見学日に、ふざけて逃げた。


それも、今思えば処理速度が関係していた。


あの時私は、娘は苦手な事をするのを私に見られたくなかったのだろうと思った。けれど、それだけではなかった。


速い動きは体に入るのに、ゆっくりした単調な動きは脳が処理できない。刺激が足りない分、刺激を求めて走り出したのかもしれない。


ゆっくりすぎる世界は娘にとって処理しにくい。変化がなさすぎるのだ。


音楽でも、解説動画でも、ゆっくりしたものは嫌がる。娘は内容よりも速度と情報量で見る動画を選んでいるのかもしれない。


工作などで何かを楽しんで作り出す時の勢いが凄まじく、遊んでいると次から次に興味が移り、彼女が遊んだ後はリビングも子供部屋も足の踏み場もなくなる。


感覚統合訓練でトランポリンをしていた場所のことを事細かく覚えていたのも、そこが楽しかったからだ。


楽しい時、彼女の処理速度は爆発的に上がる。


つまり、ゆっくりすぎる世界では、娘は生きられない。だから自分でスピードを上げる。苦手な息苦しい場所で彼女が回り出すのも、そのせいだったのか、と今は思う。


やればできるのにやらない、気分にムラがある、ではなかった。娘の処理速度には、発動する条件があるだけだった。


楽しい時、自由な時、変化がある時。その条件が揃った時、娘は海に飛び込んだペンギンのように、高速で泳ぎ回る。



なのに、その速さには致命的な制約がある。


ワーキングメモリーとは、情報を一時的に頭の中に保持しながら処理する力だ。広い机なら、たくさんのものを広げながら同時に作業できる。狭い机だと、一度に置けるものが少ない。


娘のワーキングメモリーは平均値で、処理速度との差が大きい。その落差が、日常の様々な場面で娘を止める。


長い話が理解できない。複数の指示で混乱する。


「靴下はいて、制服着て、ハンカチ持った?」

一度に言うとフリーズする。


使ったものを片付けられない。

あれこれ全部やりたくなるので、リビングの机の上はどんどん娘のものでいっぱいになる。シールも鉛筆もオタマトーンもゲームのコントローラーも、全部がごちゃごちゃになる。


「片付けなさい」と言うと、娘は今度はレゴブロックを出すのだ。


この机が、娘の頭の中にもある。


ピアノの楽譜が読めないのに、楽譜を半分隠すと途端に弾けるようになる。


視覚だけではなく、全ての感覚でそうなる。情報量が多いと混乱する。情報量を減らすと、処理できる。


「なんでやったの?」


してはいけないことをした娘は、黙る。しばらくして、こう言う。


「わからない」


自分でやったのに、わからないわけがないじゃない。私はそう考えて、さらにまくし立てていた。


でも、娘がわからないと言う時は、本当に、わからないのだ。


怒られている状況で、なぜやったかを答えることは、娘の脳の許容量を超える。


元々、受け取りたくないものは受け取らない子だ。物だけではなく、情報も。私が怒っている時、いつもと声が変わり、言葉の量も増える。処理しきれなくなって、「わからない」しか出てこなくなる。


「ママのせいで頭が混乱する」


と言われた時、私の言葉と感情が、娘の言葉を押し潰していたのだとわかった。


できるのにやらないのではなかった。いつもならわかることが、状況によって本当にわからなくなるのだ。


まず、落ち着くまで待つ。そうして初めて話ができる。その時わからなくても、落ち着けば、処理できる。


娘の好きなマインクラフトに例えると、娘のワーキングメモリーがよく見える。娘はマイクラで家にたくさんのチェストを置く。けれどアイテムは整理されず、どこに何があるかわからない。


持ち歩けるアイテムには限りがある。しかもいつも、娘のインベントリには水色のガラスとか空色の羊毛とか、いらないものがたくさん入っている。


それでも娘は、入手したアイテムを持ち替えながら、どこまでも楽しそうに進んでいける。


処理速度のリズムの波に乗れた時、娘はどこまでも行ける。けれど、持って行ける荷物は少ない。それでも、行く先々で取っては投げ、取っては投げ。手に取れるものがいくらでもある環境ならば、娘は無限に進めるのだ。



ワーキングメモリーの問題は、別の意味でも日常に現れる。


娘はノートを出しっぱなしにする。テーブルの上、床の上、どこにでも。思いついたら近くにあるノートに書き、使いかけのノートがどんどん増えていく。それを私や夫が棚に片付けると、娘は書かなくなる。


ノートが出ていれば、娘は何かを書く。ノートを見て、書きたくなって、書く。書きたいから道具を探すのではない。


小さい子はかくれんぼで目をつぶる。自分に見えなければ相手にも見えないと思っている。棚にしまわれたノートは、娘にとって、存在しない物なのだと思う。


見えないものは、存在しない。だから書きたくならない。書きたいという気持ちが湧いてこない。


工作の材料は違う。使いたいものを思いつくと、どこかにあるはずと記憶を探して見つけてくる。自分の意図が先にあるとき、娘は見えないものを召喚できる。


でも、ノートの存在は消える。 娘が出しっぱなしにするのは、だらしないからじゃない。それが彼女にとって正しい状態だからだ。見える場所に置くことで、自分の世界を維持している。


ノートを片付ける度に、私は娘のやりたい気持ちを存在ごと消していたのだ。




これは処理速度の点火条件とも直結している。何かが見えている、目に入っている、それがそのまま起動のきっかけとなる。変化がある環境で速く動ける娘は、その変化を自分の周囲に常に置いておく必要がある。


出しっぱなしのノートも、散らかったリビングも、娘にとっては自分が動ける状態を保つための布陣なのだろう。



娘の速さは、最短でたどり着くという形でも現れる。


科学館の体験型パズルが並ぶ空間で、娘は紐が絡まった知恵の輪を少し触って動かし、すぐに手を止めて言った。


「紐、切って」


できないから投げたのか、と思いかけた。


すぐ隣にあったテトリスのようなピースを組み合わせて立方体にするパズルは、娘は夢中で組み立てた。ピースを置いて、違えば外して、また組み直す。うまくいかなくても、やめなかった。


私が手伝おうとすると、怒るでもなく冷静に「自分でやる」と言って続けた。そして一人で完璧に立方体を作った。


その答えが見えたのは、夫がその知恵の輪を解いた時だった。


一人っ子の娘にとって夫は、絶対に負けたくないライバルでもある。ポケモンカード、将棋、マリオカート、いつだって真剣に対戦している。


そのライバルが先に解いた。娘の空気が変わった。


もう一度知恵の輪を手に取ると、今度は何度もやり直し、粘って、解いた。


けれど、たくさん並んだ他の知恵の輪には、全く興味を示さなかった。


紐を切れば早い。最短でゴールに行ける。娘の「紐切って」は、できない白旗ではなく、手順を省略する思考の表れだった。


展示室に入る前の工作教室でも、先生のお手本が持てず、最後まで一気に作ろうとした。手順を一つずつ踏むより、まとめて速く進む方法を選ぶ。


娘のこのやり方は、これからも変わらないだろう。


学校ではうまくいかないこともある。でも放デイや感覚統合訓練ではそれが許される。自分のやり方を間違いにしないでくれる場所が、娘にはある。



最短で行こうとする娘が、絶対に手放さない物がある。根拠だ。


娘が2歳の頃、青信号を「緑信号」と呼んでいた。何度教えても変えなかったのに、自分が読んだ本に「青信号」と書いてあったら、それだけで変えた。


3歳の時、ダンス教室でブレイクダンスを見て家で床に頭をつけて回ろうとした。危ないからやめてと何度言ってもやめない。でもダンスの先生にまだ早いと言ってもらうと、ピタリとやめた。


廊下を走るなという言葉は無視するのに、貼り紙を指差せば止まる。


将棋の駒の動かし方を間違えても私の指摘では納得しないので、説明書を見せる。


娘にとって根拠となるものは、本、説明書、掲示されたルール、専門家の言葉だ。


親の発言は個人の意見として処理される。娘は反抗しているのではない。親を軽んじているのでもない。ただ、人がそう言ったことと、そうであることを、区別している。


物心ついた頃からずっとそうだ。多くの子供は母親の言葉を一番の真実として受け取るのだろう。


「お母さんが言ったから」


でも娘は、きっとそんなことは言わない。それは、少しだけ淋しい。


ある朝、小学校の裏門で娘が号泣した。送迎の子は裏門から登校するようにとプリントに書いてあり、その日から裏門に行くことにしたのだが、娘は一歩も歩こうとしなかった。


私が隣にいて声をかけても、動かなかった。それなのに先生が迎えに来て説明してくれると、娘はあっさりと門をくぐった。


また届かなかった、と思いかけた。でも違う。届かなかったのではない。親の言葉は、娘の納得の根拠にならないだけだ。


だから私も。本を開く。先生にお願いする。ルールを一緒に読む。掲示物の前に並んで立つ。娘が納得できるように、さりげなく誘導する。今まで通り。


娘の中に確固たる納得の仕組みがある。私には娘を納得させることはできない。


けれど娘は、いつもギューってして、と言ってくる。私から届いているものも、ちゃんとある。



娘は、確固たる根拠がある時だけ動く。根拠のないところでは止まる。納得しないと動けない。それが一貫している。


入学してからしばらく、娘は登校時の挨拶ができなかった。


名前を呼ばれて「はい!」と手を挙げることは初日からできたのに、なぜだろうと思っていた。


それが急に、何でもない事のように、おはようございますと普通に言った。


特別な練習をしたわけでもない。頑張ったわけでもない。いきなりできるようになったように見えた。


挨拶は、その場で一発勝負の行為だ。タイミングも、声も、全部が一瞬で決まる。娘にとっては、とても難しい種類の行動だ。タイミングがわからない。失敗したくない。だから、しなかった。


でも毎日同じ時間、同じ場所、同じ流れの中で、先生の位置も、クラスメイトの顔と名前も、周りの空気もわかってきた。


見えなかったルールが、見えるようになった瞬間に、はじめて言えた。


一度言えたら、もう言える。


それが、小児科ではまだできない。慣れた病院なら雑談はできるようになった。でも挨拶はしない。


娘は挨拶を、場所ごとに別のスキルとして覚えているからだ。


観察して、少しずつ正解を集めていく。そして納得できた時に、はじめて挨拶ができる。


明確なルールは守れる。暗黙の了解が、わからない。


習い事では挨拶がルールとして明示されていたので、娘はした。小学校でも明示されていたが、タイミングや順番がわからないからしなかった。観察してわかったので、できるようになった。


小児科はルールが書かれていない。他の子が先生に挨拶をしているのを見ることもない。だからしない。


これは、やればできるのではない。条件が揃えばできる。揃わなければ動かない。それだけのことだ。



外から見たら、娘はたぶんこう見える。小学校に行けている。習い事もできている。友達もいる。元気が取り柄の、活発で少し行儀の悪い、どこにでもいる女の子。


あの子発達障害じゃない? とも、あの子ギフテッドじゃない? とも、思われないだろう。


外側からは見えない。けれど、娘はいつも作り続けている。自分が困らない世界を…


発達障害やギフテッドの特性がありながら、娘があまり困っているように見えないのは、彼女が自分の過ごしやすいように環境を調節しようとするからだと思う。


娘の幼稚園は、自主性を何より大切にして、やりたいことはどんどんやる、やりたくないことは無理にさせない、とても自由な場所だった。


幼稚園に通っている間は、自由な園が奇跡的に娘に合っていたのだと、ずっと思っていた。


けれど、卒園してから違って見えた。


娘は幼稚園に適応できたのではなく、適応しやすい環境を自分で作っていたのではないか。


合う活動を選び、それに合う子を選んで遊んだ。自分が困らないように、過ごしやすくなるように、自分で環境を調節していた。


眩しいからサングラスをする。寒いから上着を着る。人がそんな当たり前のことをするように。


これをマスキングと呼ぶのかはわからない。でも娘は、自分が困らないように過ごすことに、幼稚園では成功した。


小学校以降は違う。時間割が固定され、全員同じペースになり、途中も見られて、評価が増える。


娘は2Eだから、できたりできなかったりする。環境が合えばすごくできる子になったり、合わなければ問題児になる。


けれど娘は、環境を自分に合うように変えようとする。 図書館を作り、踊りを作り、自分が困らない世界を作る。


これは才能ではなく、この子の生き方だと思う。




娘が困らない世界には、失敗もない。完璧主義で理想が高い娘にとって、失敗は一番許されない行為だ。


だから、自信がない時は挨拶をしなかった。しなければ、彼女にとって失敗ではない。


折り紙を折っている時、絵を描いている時、何かを作っている時、娘は私が覗き込もうとすると、体で遮り「見ないで」と言う。


でも完成すると、必ず見せに来る。


ただ恥ずかしいのだと思っていたけれど、違った。


過程を人に見られたら、失敗した時にリセットにならないのだ。


娘は自分図書館を作ったことがある。自作の本に手書きのバーコードを貼り、ポスターとチケットを作った。私と夫をお客さんにして、最初に娘が考えたルールを言って、開館した。


この子はなぜこんなに本気なのだろう。家でも、幼稚園でもそうだった。誰かと遊ぶ時、自分が決めたルール通りにしようとする。


そう思って見ると、わかった。


娘が作っているのはただの遊び場ではなかった。自分が失敗しない世界だった。


並んでいるのは自分の知っている本だけ。館内ルールも返却期限も全部娘が決める。


この世界に失敗という概念は発生しない。なぜなら基準ごと、娘のものだからだ。


完璧主義で失敗したくない子供は他にもたくさんいるだろう。やらない。確信が持てるまで動かない。失敗しても人のせいにできる状況を作る。こっそり練習して完璧にできるようになってから披露する。


娘の戦略は違った。


世界を作り直す。自分が主導権を持つ場所に入ることで、失敗の定義ごと自分のものにする。


処理速度が高い娘は、失敗が見える。失敗しそうになると、リセットする。自分で失敗のない世界を設計する。



「なぜ言った言葉は取り消せないの」と娘はよく聞いてくる。「なぜやってしまったことはなしにならないの」と。


娘は自分の衝動性を「手が勝手にしちゃう」「口が勝手に言っちゃう」と言う。


自分の世界では失敗を消せるのに、なぜ現実では消せないのか。それを本当に理不尽に感じている。



発想の転換が速いほど、現実の不可逆性との摩擦も大きい。


バレエの発表会で、娘はちゃんとやる。音楽に合わせて、振り付け通りに、最後まで。


でも表情が硬い。


客席から見ていると、「耐えている」か「こなしている」のどちらかに見える。


家で、公園で、自分の世界で踊る娘は、発表会の時と顔が明らかに違う。こちらまで楽しくなるような笑顔で踊っている。


主体が自分にある時、娘はいつだって楽しそうな顔をしている。娘ができているかどうかより、どんな顔でやっているかを、私は見るようになった。


ずっと、娘が頑張れる場所を増やそうとしていた。でも本当に必要だったのは、娘が頑張らずにいられる場所だと気が付いた。


それは、娘が笑顔でいられる場所だ。


バレエもピアノも小学校も、娘にとっては頑張る場所だ。楽しいけれど、気を張っている。帰宅すると、まず私にくっついてくる。それで今日も頑張ってきたんだな、とわかる。


なので、放デイ選びでは、発散と自主性、自由な時間があることを重視した。


決め手となった放デイには広いグラウンドがあり、スケジュールは宿題の後は自由時間だった。


この放デイで、娘は初日からお友達と廊下を走って怒られた。不安症で初めての場所が苦手な娘が、まさか1日目で、と驚いた。


最初は先生と古生代図鑑を見ていたそうだ。でも男の子がベイブレードをしているのが気になって、自分から声をかけて仲良くなって、一緒に廊下を走った。


それを聞いて、私の放デイの選び方は間違っていなかったと思った。


自主性を重んじてくれる場所で、娘は自分らしくいられる。



疲れて帰ってきた娘がくっついてきたら、くっつけておく。まるでルンバみたいだと思った。


そうか、私は充電ステーションだったのか。


頑張ってきた娘が戻る場所、エネルギーを蓄える場所は、私の隣だ。


そして外にも、娘が安心できる場所が少しずつ増えてきた。


感覚統合訓練をする病院の作業療法士の先生の隣、楽しく通える放デイ、もう一件の去年から通っている放デイ。


その放デイで、年上の女の子たちがお世話をしようとしてくれた時、娘はその輪から逃げた。


別の放デイでは、年上の子と手をつないで散歩に行けたのに、何が違うのか。


お散歩の時は、相手は一人だった。誰を見ておけばいいかがわかりやすい。手を繋いで一緒に歩くという目的もはっきりしていた。手を引かれるではなく、手を繋いで隣を歩く。コントロールされる感が少なく、受け入れやすかったのだと思う。


一方、複数の子が一度に来ると、娘の情報処理の許容量を超える。誰を見たらいいのか、誰に返事をしたらいいのか、わからなくなってしまう。これはワーキングメモリーの問題だ。


処理速度は高いのに、同時に保持できる情報量が限られている。


一対一なら入ってくる情報を処理できるのに、相手が複数になると、情報が多すぎて処理しきれなくなる。


同じような事が、バレエ教室の時にもあった。


バレエの後、シール交換という目的があってのコミュニケーションならば、相手が複数人でもできた。


でもその後、3人で一緒に帰ろうとなった途端、娘だけ後ろにいた保護者の集団に引き返してきた。


3人でいて、他の2人が盛り上がっていると、娘はその会話に入れなくなってしまう。


どこで声を出したらいいのか、どちらの子に話しかけたらいいのか、わからなくなる。


目的もルールも順番もない雑談が難しいのだ。


相手が優しいかどうかは、あまり関係がなかった。相手の年齢も、たぶん関係がない。


娘が安心できるのは、自分で把握できる世界の中だ。その中では、ちゃんと人と関われる。むしろ人と関わることが好きだ。それが、3人になると急に難しくなる。


駐車場に着き、2人にバイバイをしてもらった時はまだ不機嫌だった。それが、車窓から2人の子が見えなくなった途端、娘はケロリと切り替えた。


感情の揺れも激しいけれど、回復も速い。処理速度が速いということは、そういうことでもある。



娘の処理速度の速さは、何かを速くこなす力ではなかった。 領域を飛び越えながら、発想を転換していく速さだ。


画像からダジャレを思いつき、ダジャレの中に世界を作る。


紐を切れば早いと即座に判断し、これは解く必要がないと思っても、ライバルに先を越された途端、それを撤回する。


挨拶を場所ごとに別のスキルとして覚え、ルールが見えた瞬間に動く。


自分が困らない世界を設計し、評価のタイミングを自分でコントロールする。


娘の速さには条件がある。楽しい時、自由な時、変化がある時、自分が主体である時。


その条件が揃えば、娘は海に飛び込んだペンギンのように、高速で泳ぎ回る。


でも持って行ける荷物は少ない。船は小さい。だから条件が揃わない場面では、止まる。フリーズする。わからないしか言えなくなる。


それは能力がないからではない。荷物がいっぱいになっているだけだ。


外から見れば、普通の子に見えることもある。娘の中で、様々な特性が打ち消し合っているからだ。内側の困難も強みも、外からは見えにくい。


娘の言葉の奥にあるものを、なるべく見落とさないようにしたい。


「紐、切って」の奥に、最短で行こうとする思考がある。


「わからない」の奥に、パンパンになった脳がある。


「見ないで」の奥に、失敗のない世界を守ろうとする意志がある。


そしてくっついてくる娘の奥に、今日も頑張ってきた子がいる。充電が終われば、また泳ぎ出す。


自由に…




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