5.『※ただし、新天地での労働義務は免除されません』
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「おお寒っ。勤怠管理つける前に、エアコン入れなくっちゃ」
入口のドアが開く音とともに若い男の声がしたので、私は眼を醒ました。
不覚にも、また居眠りしてしまったらしい。
玄関をふり返った。
『bye』の一番の若手、小林だ。いつの間にか出社の時間になっていた。
窓の外はすっかり明るくなり、スズメのさえずりが姦しい。
「おはよう」
と、私は声をかけた。姿勢を正す。
しかし小林は、私には一瞥もくれず、エアコンのスイッチを入れるとコートを脱ぎはじめた。
「おざっす。小林君、ゆうべは平和でね。報告すべきことはないよ」
私はまた声をかけた。
ところが相手は気づいたそぶりも見せない。
おかしい。私の声が届いていないんじゃあるまいし。
それとも高橋代表に、私のことを徹底的に無視しろと命じられたのか?
「おい、小林君」
立ち上がろうとして、私自身のデスクに眼をやった。
キーボードのそばにあったはずの飲みかけの缶コーヒーや、愛用のボールペンもなくなっている。個人を特定する私物はすべてだ。むろんスマートフォンも然り。
なに食わぬ顔で小林は私のデスクまでやってくると、デスクトップPCに手を伸ばし、電源ボタンを押そうとした。
「あれれ。電源入れっぱじゃねーの。さては誰か切り忘れたな」
小林は、すぐそばに私が腰かけているにもかかわらず、ひとりごちた。
小林の腕が、私の肩をすり抜けた。接触もしない。
まるで透明人間になってしまったかのように。
ふたたび玄関で人の気配が湧いた。
「おざーす。おう小林、ご苦労さま。今朝も一番乗りか」
コート姿の高橋だった。経営にかけてはシビアな36歳のやり手の男。
「あ、代表。おはようございます」
小林が私の傍らで我関せずといった調子で声をかける。
高橋がやってきて、自身のデスクの前に来た。コートを脱ぎ、壁のハンガーに掛ける。
「夜勤からの引き継ぎはどうだった? 姿が見当たらんが、まさか帰ったってか?」
「それが高橋代表――昨日の夜勤担当って、誰でしたっけ? スケジュール表、空欄になってるんですよね」
小林は突っ立ったまま、しきりに頭をひねっている。私がすぐそばにいるのに。
「誰って、おまえ――」と、高橋は笑みを浮かべたまま、急に言い淀んだ。真顔で俯く。眉根を寄せ、顔をしかめた。「夜勤? アルバイトの子、雇ったんだか?」
「でしょ? なぜか思い出せない」
高橋は頬に手を添え、しばらく考えごとをしたが、記憶がすっぽり抜け落ちているらしい。なんの取っ掛かりも得られず、ムキになった口調でこう言った。
「なに言ってんだ。『bye』は人件費削減のため、夜勤なんてはじめから置いてなかっただろ。LINEの自動応答システムを回してるだけで事足りる」
「そうでしたっけ」と、小林は頭を掻いた。「なんかハナさんってあだ名のスタッフがいたような……」
「誰だそりゃ。聞いたこともない名だ」
「ですよねー」
そこで二人は笑いながら給湯室へ行き、朝のコーヒーを淹れはじめた。
私は呆然と自身の手に眼をやった。
右手は半透明になっており、ノイズ混じりに明滅している。
まさか本当にバックれてしまったのか? 戸籍からも、人の記憶からも、この世のあらゆる履歴から……。
ピンポン。
朝の静けさが漂うフロアで、PCにLINEの通知音が届いた効果音。
このように退職代行の朝ははじめこそ平和なのだが、時間が経つにつれ次々連絡が入り、やがて息つく暇もないほど忙しくなる。
画面の右下に、新しいメッセージが表示されている。
私は半透明になった手でマウスを握った。幸いにも感触はあり、ちゃんとクリックすることができた。
『はじめまして。朝早くからお世話になります。仕事辞めたいです。もう人生にも疲れました。人間社会からバックれたいのですが、代行してもらえますか?』
キーボードに五指を置く。
とりあえず定型文を打つべきだ。
この『夜』の側から、次のバックレ希望者を案内するために。
完全に私がこの世からログアウトする前に、私の形跡を隠してしまおう。
退職種別のフォームの最下段には、相変わらず小さなチェックボックスが点滅している。
クリックしてみた。
またもや見慣れぬ【備考欄】がある。
さらに開いた。
『※ただし、新天地での労働義務は免除されません』
『bye』のスタッフ全員が出社する前に、私の意識はしだいに消失していった。
ついに天に召される時か……。現代社会からドロップアウトした令和のルサンチマンたちはどこへ行くというのだろう?
◆◆◆◆◆
『データが転送されました』
いかにもテキスト読み上げ機能の、やや胡散臭いイントネーションの音声合成が聞こえた。
私はふたたび眼を醒ました。今度こそ別世界にバックれますように……。
うつ伏せで硬い床に倒れていた。頬や全身には冷たい石の床の感触。
ここはどこだ?
腕立て伏せする形で身を起こす。
整然とした石組みの通路がどこまでも広がっている。
灰色の花崗岩で、紙一枚さえ入らないように隙間なく組み合わされているようだ。
壁にはところどころ松明台に、誰が置いたか炎を点じられた松明が挿し込まれている。パチパチと松脂の爆ぜる音。おかげで明るい。ずっと向こうまで見通せた。




