4.【存在抹消(※自己責任でチェックしてください)】
男はチラとこちらを見たような気がしたが、距離がありすぎる。
しばらく様子を見守っていたものの、これといった反応がないので気を揉むばかりだった。
私はいったん窓際を離れ、席に戻った。
モニターと対峙する。
すでに彼からのレスが届いていた。
七種:「なんだか花房さんとは気が合いそうな気がします。なんだかんだ言って、退職代行のお世話になったとき、あなたの名前だけはよく憶えてたんです。特徴的な名前だから」
花房:「そりゃどうも。君の方こそ忘れ難かった」
私はすぐに返信した。
事務所の近くにいるなら、大声を張り上げて言葉を交わせなくもないが、なにぶん深夜である。えらく回りくどい、現実味を欠いたやりとりをしていると思った。それとも現代特有の孤立感を表しているのか。
七種:「社会の歯車にすらなれなかった僕たちの居場所は、きっとこの夜の中にしかないんだと思います」
花房:「夜?」
七種:「どうせなら、僕と花房さんで、このシステムからログアウトしませんか? バックれるんです」
花房:「ログアウト? この世からバックレだって?」
七種:「じきに朝を迎えます。昼専属の人たちが、僕らを裁きにやってくる。僕らは夜の住人だ。その前に、いっしょにバックれるんです。退職届も、遺書も残さずに」
花房:「それはつまり――」
七種:「履歴書からも、戸籍からも、誰かの記憶からも。今この瞬間、僕たちが『いなかったこと』にする代行、自分たちでやってみませんか?」
私は混乱した。
七種はいったいなにが言いたいのだ?
モニターを凝視したまま、頭を掻きむしった。
同時にこの世界から、なにもかも――それこそあらゆる責任さえ、ほっぽり出して――バックれるとは抗し難い魅力に思えた。
昔でいうところの窓際族――あるいは社内ニートの私とはいえ、与えられた職務を投げ出すことは、私の自尊心が許さない。無責任すぎる。
しかしながら、私も夜勤疲れで、どうかしていたのかもしれない。あるいは人間関係のもつれで魔が差したのかも――。
私より年下の、高橋代表の顔が思い浮かぶ。
スタッフが見守るなか、グジグジと私の仕事ぶりをなじったあの顔。
「花房さんは理屈ばっかり並べて、現場のスピード感がないんです。ツベコベ言わず、僕の指示に従ってください」
「そんなに気に食わないんなら、夜勤でLINEの監視でもしててよ。そしたらあんたの思い通りにできるだろ」
「願ったり叶ったりだ。これであんたの顔、見なくて済むんだしさ!」
――そう言って冷笑した顔。
私がこの世から消えたところで、高橋代表は、「いいトシこいて、無断欠勤かよ」と舌打ちし、新しい夜勤のスタッフを補充するだけだろう。しょせん39年間の人生など、その程度の軽さなのだ。
キーボードを叩く指が、微かに震えていた。
花房:「……だけど、どうやってバックれるんだ? 警察に捜索願を出されたら意味がない」
七種:「大丈夫です。『bye』のシステムを使えばいいんです。だてに僕は、『bye』と3年間、付き合ってるんじゃありません。ホーム画面を知り尽くしているんです」
花房:「システム?」
七種:「試しに管理者ページを開いてみてください。顧客データベースの一番下。退職理由の選択フォームの横に、小さなチェックボックスがあるはずです」
花房:「なんだって?」
言われた通りマウスを操作し、日ごろ見慣れた顧客管理画面の最下段をクリックした。
こんな箇所、スタッフの私でさえ気にも留めなかったが……。
【退職種別:1. 自己都合 / 2. 会社都合 / 3. 契約満了】
さらにその下、グレーの極小フォントで、確かにそれは存在していた。
【4. 存在抹消(※自己責任でチェックしてください)】
なんだこれは?
バグか? それとも開発業者のジョークのつもりか?
私が言葉に窮しているうちに、七種からのメッセージが届く。
七種:「そこに僕のID『N-7353』と、花房さんご自身の社員IDを入力して、送信ボタンを押すだけです。そうすれば、僕らは『最初から存在しなかったこと』になる。戸籍も、税金も、家賃も、人間関係も、過去の失敗さえも……すべて清算されます」
花房:「清算だと?」
ふたたび私は席を外し、よろけながら窓辺に行った。
眼下を見下ろす。
歩行者用信号機の真下に佇むパーカー姿が、こちらに向かって手を振っていた。特徴的なブーツを履いている。まるでマカロニウエスタン気取りだ。
やはり、七種であろう。
いつの間にか空が明けはじめていた。
遠くで始発列車が動きはじめたにちがいない。間延びした踏切の音が聞こえた。
東の空が、薄紫色になりつつある。
やがて夜が終わる。昼の世界が、私たちを裁きにやってくるのだ。
平静の私には考えられないことをしでかした。
「……こうなったら、バックれてやるか」
私はネクタイを緩めながら、そう呟いた。
画面に社員IDを打ち込むと、幾分ためらったのち、マウスをクリックした。
カチッ。
そのとたん、画面が暗転した。
私の意識までもが瞬時に闇に閉ざされた。




