3.昼勤のコミュニティから除け者にされたアウトサイダー
私はキーボードに手を添えたまま、返信をためらった。
退職代行の仕事は、あくまで『会社を辞める』手続きの代理にすぎない。
人間や、この世界からの逃走――そんな依頼は、マニュアルに記されていないし、高橋代表でさえ口を閉ざすだろう。
花房:「人間社会やこの世からバックれる。――それは、どういう意味ですか?」
七種:「そうです。僕は社会に溶け込めない社会不適合者だ。労働だけじゃありません。人間関係も、家族との会話だってギクシャクし、全部うまくいかない。こんななら、いっそ人間すら辞めたい」
私の背筋に寒気が忍び寄ったのは、晩秋の冷気のせいだけではあるまい。
花房:「早まるな。落ち着くんです」
七種:「別にそんなつもりじゃありません。つまり、自死を考えてるわけじゃない」
花房:「だったら――」
七種:「僕という存在そのものや、名前、人生の履歴なんかいらない。いっそ誰にも知られず、どこかに漂っていたいと思うようになりました。たとえばクラウドの中にでも」
花房:「クラウドの中だって?」
彼の理解し難いポエムに、私は思考停止した。
ふと、モニターの端に映る私自身の顔が眼についた。
夜勤疲れが隠せない目元と、ほうれい線のついた中年男の顔。
居抜き物件の片隅で、誰にも見られない、誰からも評価されない仕事をこなす没個性の姿だ。
対面したことさえない誰かの『退職』を処理するだけの疑似的な神の代理人といったところか。
いや、神という言葉すらおこがましい。
正確には夜勤専門の私に、彼らを助けている実感はない。
夜間集まった通知をまとめ、昼勤の社員が出勤してきたら引継ぎ報告するだけのつなぎ役でしかないのだ。
だとすれば、私の存在意義は――。
もしかしたら、私だって――。
七種ほどではないにせよ、『人間』という枠組みから逸脱した存在だとしたら?
昼勤のコミュニティから除け者にされたアウトサイダー。
◆◆◆◆◆
花房:「七種君、それは、我が社では扱えない事案です。でも君の気持は、わからなくもない」
七種:「?」
花房:「本来は、仕事外の私的なやりとりをすべきじゃないとわかったうえでアドバイスしよう」
七種:「今さらですか」
花房:「とりあえず聞いてくれ――じつは、かく言う私もこの『bye』に来る前職は、大手企業のしがないサラリーマンだった。歯車のひとつさ。ところがある日、くだらない派閥争いや足の引っ張り合いに嫌気がさし、職を辞した。一部上場企業でステータスではあったが、これっぽっちも未練はなかった」
七種:「そうでしたか」
花房:「むろん辞めるときは、ちゃんと退職届を提出したけどね。私だって人間関係を築くのは苦手だった。世渡りが下手だったんだ」
花房:「そこでブランクを経て、この仕事に就いた。私より上の世代は、仕事を辞めるくらい自分の口で言うべきだろ、との見方が強く、こういった業者に対する偏見も多かったさ。むしろ私は、こういったサービスこそ今後伸びると思ったから飛び込んだ」
七種:「なるほど」
花房:「自分の居場所がない。――それは私だって同じかもしれない。こうなったら白状するよ。何かと理屈をこねる私は高橋代表に嫌われ、夜勤専属を命じられたんだ。たった一人だけ。認めたくないけど、どうもそういうことらしい」
七種:「……」
花房:「夜通し事務所で顧客のLINEを待ったところで、めったに連絡は来ない。むしろ人件費、電気代がかかるポジションだろう。つまり、私も隅に追いやられた社員にすぎなかったんだ。嫌がらせ人事の一環だと思う」
レスを送ると、ラリーがぴたりと止まった。
よけいなことを書いてしまっただろうか? エンターキーを押してから後悔した。
私はモニターの前で頭を抱えた。遅まきながら恥ずかしくなった。
3分後、ようやく彼から返事が届いた。
七種:「それってつまり、花房さんも、僕と同じ境遇だったってわけですか」
七種:「誰にも見られず、ただシステムを回すための歯車」
花房:「あいにく歯車ですらないかもしれない」
七種:「じつは、さっきから見ていたんです。『bye』の事務所って、古い雑居ビルの3階、大通りから見て右端の部屋ですよね? 看板もないんで自信ないですけれど。一室だけ灯りがついてる」
そのレスを眼にするなり、私は息を飲んだ。
朝と呼ぶにはまだ暗すぎる。3時47分。空が白みはじめるのは、もうしばらくの辛抱を要するだろう。
席を外し、窓辺に寄ってみる。
アルミサッシの窓を開け、身を乗り出して眼下を眺めた。
木枯らしが吹き、街路樹のイチョウやハナミズキの根元で、たくさんの落ち葉が渦を作りながら歩道で踊っているようだ。
私は乾いた冷気を浴び、思わずスーツの胸元を閉めた。
道を挟んだ向かいの歩道で誰かが身じろぎした。
横断歩道のそばの歩行者用信号機の下。
ポツンと人影が佇んでいるのだ。
パーカー姿でブーツを履いた背の高い男がスマホを操作している。かすかな光を受け、フードをかぶった顔が浮かび上がっていた。
あれこそが七種ではないか?
だけども、3階の雑居ビルから声をかけるのも憚られた。




