第九章 金があっても買えない
冬が近づく頃、事態は次の段階に入った。
値段が上がらなくなったのだ。良い知らせではなかった。売る魔石そのものが、市場から消えたのである。
商人が売り惜しんでいるのではない。国全体で、掘り出される量が需要に届かなくなった。金貨を積んでも、ないものは買えない。
王城が使用制限を布告したのは、その月の半ばだった。街灯は三本に一本。公共の施設は夜間の照明を停止。魔道具の新規販売には登録が必要になった。
「登録の書類、通ったで」
ハロルドが分厚い紙束を持って工房に来た。
「三日並んだ。役人が『何の店だ』って十回聞いてきよった」
「ご苦労さまでした」
「これで一応、売る権利はある。売るもんがあればな」
工房の魔石入れは、もう底が見えていた。
◇
貴族街が音を上げ始めたのは、平民街から二か月遅れてのことだった。
最初は、夜会が減った。次に、社交の季節そのものが縮小した。理由は単純で、大広間を照らすだけの魔石が確保できなくなったからだ。
工房の女のひとりが、貴族街の屋敷で下働きをしている姉から聞いた話を持ってきた。
「セレナさん、聞きました? お屋敷の方、大変らしいですよ」
「どんなふうに?」
「広いから、余計に困るんですって。部屋が四十もあって、全部に灯りと暖房が要るでしょう。うちらの家なら一部屋だけ我慢すればいいけど、あっちは我慢する部屋が四十あるって」
セレナは、手を止めた。
その通りだった。公爵邸の廊下は、夜通し灯りがついていた。誰も歩いていない廊下が、朝まで明るかった。あれを維持するのに、どれだけの魔石を食べていたのか、当時の自分は考えたこともなかった。
「あと、お風呂ですって。あそこ、魔道式でお湯を出すから、止まると水しか出ないんですって」
「井戸から汲めばいいのに」
「それが、汲む人がいないらしくて」
女は笑った。
「使用人がみんな薪の割り方を知らないんですって。ずっと魔道具でやってたから」
セレナは笑わなかった。笑えなかった。
屋敷を出るまで、自分は火の熾し方を知らなかった。あの屋敷にいた頃、湯がどこから来るのか、灯りが誰の手でつくのか、一度も考えたことがなかったのだ。
◇
アシュフォード公爵邸では、その頃、使用人たちが必死に頭を働かせていた。
「旦那様。東棟を閉鎖してはいかがでしょうか」
執事が申し出たのは、寒さが本格的になった日の朝だった。
「東棟は現在どなたもお使いになっておりません。閉鎖すれば、暖房と照明の魔石を三割ほど削減できます」
「閉鎖?」
エドワードは、書斎の椅子から顔を上げた。
「公爵家の屋敷を、半分閉めろというのか」
「一時的な措置でございます。多くのお屋敷が、すでに」
「他所は他所だ」
エドワードは書類に目を戻した。
「魔石を買え。金は出す」
「……売っておりません」
「金を積め。積めば出てくる」
「積んでも、ないものはございません」
執事は、この二か月で同じ説明を四回している。四回とも、同じところで話が止まった。
「では王家に掛け合え。うちは公爵家だ。優先的に回すよう言えば通る」
「すでに嘆願書を提出しております。返答は、全家に等しく分配する、と」
「等しく?」
エドワードは、心底わからない、という顔をした。
「男爵家とうちが同じ量なのか。屋敷の大きさが違うだろう」
「はい。ですので、大きい屋敷ほど足りません」
執事は、ようやく本題に戻れると思って続けた。
「旦那様。閉鎖のご許可をいただけませんでしょうか。あるいは、夜間の照明を廊下だけ落とすなど――」
「公爵家がそんなみすぼらしい真似をできるか」
エドワードは、書類を叩いた。
「灯りが消えた屋敷など、没落したと言われるだけだ。体面というものがある」
執事は、深く礼をして下がった。
廊下を歩きながら、彼は思っていた。以前は、この手の話を奥様に相談すればよかった。奥様は旦那様に告げずに、使用人と一緒に段取りを組んでくださった。灯りを落とす場所を決め、余った分をどこに回すか算段し、旦那様の目に触れないところで屋敷を回してくださった。
誰も、あの方がそれをやっていたと気づいていなかった。いなくなって初めてわかった。
◇
その週、公爵邸で三つのことが同時に起きた。
まず、厨房の魔道竈が止まった。魔石の配分を絞りすぎて、火力が足りなくなったのだ。料理人は薪を使おうとしたが、薪の在庫がなかった。誰も薪を買っていなかった。この十年、必要がなかったからだ。
次に、洗濯が滞った。温水が出ないので、真冬の井戸水で洗うことになった。洗濯女がふたり、手を痛めて休んだ。
最後に、暖房を集中させた部屋で、使用人が倒れた。人が集まりすぎて空気が悪くなっていた。
「どうなっている」
エドワードは執事を呼びつけた。
「何がですか」
「屋敷が回っていない。食事は遅れる。服は乾かない。誰かが倒れたと聞いた。お前は何をしている」
執事は、少し間を置いてから答えた。
「東棟の閉鎖をご許可いただければ、いずれも解決いたします」
「そういうことを聞いているのではない」
「では、どのようなご指示でしょうか」
エドワードは、口を開いた。そして、閉じた。
彼にはわからなかった。何をどうすれば屋敷が回るのか、考えたことがなかったからだ。今まではいつの間にか回っていた。それが当たり前だった。
「……お前が考えろ。それがお前の仕事だろう」
「かしこまりました」
執事は下がった。
その日から、執事はエドワードに無断で東棟を閉めた。エドワードは東棟に行かないので、半年経っても気づかなかった。




