第十章 体面を守ってたら、家が先になくなったの
デボラ・ミルズは、寒さに強い女だった。
男爵家が事業に失敗して没落したのは、彼女が十五のときだ。それから公爵家に囲われるまでの数年間、彼女は平民として暮らした。冬に薪が買えない年もあったし、湯を沸かせない朝も知っている。
だから、公爵邸で暖房が絞られ始めても、彼女は最初さほど困らなかった。厚着をすればいい。窓に布を張ればいい。使わない部屋は閉めればいい。当たり前のことだ。
当たり前ではなかったのは、この屋敷の人たちのほうだった。
「エドワード様。東棟、閉まってるの知ってた?」
夕食の席で、デボラは言った。前菜が冷めている。厨房から運ぶまでに廊下が寒すぎるのだ。
「今朝、通ろうとしたら鍵がかかってたわ。誰も使ってないから、それでいいと思うけど」
「体面がある」
「誰が見るのよ、あんな棟」
「そういう問題ではない」
エドワードは、フォークを置いた。
「うちは公爵家だ。灯りを落としたと知れれば、金に困っていると噂される」
「もう困ってるじゃない」
「困っていない。物がないだけだ」
デボラは、その言い分をしばらく頭の中で転がしてみた。困っていないが、物がない。それは困っているというのではないか。
「じゃあ、夜会は? 来月のやつ」
「予定通りやる」
「大広間、灯りが足りないでしょう」
「他の部屋から回せばいい」
「他の部屋って、私たちが使ってる部屋よ」
「一晩だけの話だろう」
デボラは、ワイングラスの脚を指でつまんだまま、しばらく黙っていた。
この人は、一晩のために、日常のほうを削ろうとしている。逆ではないか。日常を守って、一晩を諦めるのが普通ではないか。
だがエドワードにとっては、逆ではないのだ。彼にとって日常は「あって当たり前のもの」で、夜会は「守るべきもの」なのだった。
◇
夜会の準備が始まると、屋敷はさらに冷えた。
大広間に魔石が集められ、居住区の配分が削られた。デボラの部屋の暖房は、朝と夜だけになった。
彼女は文句を言わなかった。寒さには慣れている。代わりに、別のことを観察していた。
厨房で、料理長が頭を抱えていた。
「夜会の分の料理を作るには、竈を全部使わないと間に合わないんです。でも今の配分だと、三つのうち一つしか動かせない」
「薪でやったら?」
「薪竈がもうありません。十年前に全部、魔道式に取り替えましたので」
「町の店から借りるとか」
「……そういう発想が、ありませんでした」
料理長は、その日のうちに近所の飯屋と交渉して、鍋と携帯竈を借りてきた。夜会の料理は間に合った。
デボラは、その一部始終を見ていた。
解決したのは料理長だった。エドワードではない。エドワードは「夜会をやる」と言っただけで、どうやるかは何も言っていない。
そして夜会が成功すると、彼は満足そうにこう言ったのだ。
「ほら見ろ。やればできるじゃないか」
やったのは、あなたではない。
デボラの中で、何かが小さく音を立てた。
◇
決定的だったのは、その次の月のことだった。
王家から各貴族家に、魔石の追加配分についての通達が来た。内容は、削減目標を各家が自主的に提出し、達成度に応じて次期の配分を決める、というものだった。
「ふざけるな」
エドワードは通達を机に投げた。
「削減目標を出せだと? こちらが困っているから配分を増やせと言っているんだ」
「でも、出さないともっと減るんでしょ」
デボラが通達を拾い上げて読んだ。
「ここに書いてあるじゃない。未提出の家は最低配分になるって」
「役人の脅しだ」
「脅しでも、書いてあるなら従ったほうがいいと思うけど」
「うちは公爵家だぞ」
また、それか。デボラは思った。この人は困ったとき、必ずそこに戻る。
「公爵家だから何なの」
言ってから、自分の声が冷たいことに気づいた。エドワードが顔を上げる。
「何だと?」
「公爵家だから、役人が特別扱いしてくれるの? してくれてないじゃない。嘆願書、返事が来たんでしょう。全家に等しく分配するって」
「それは形式的な返答だ」
「形式でも返答は返答よ」
デボラは通達を机に置いた。
「ねえ、エドワード様。目標を出しましょうよ。東棟はもう閉まってるんだから、あとは夜間照明を減らして、それを書いて出せばいいだけ。三十分で終わるわ」
「認めん」
「なんで」
「削減目標を出すということは、うちが窮乏していると公式に認めることだ」
デボラは、しばらく彼の顔を見ていた。
この人は、紙に何と書かれるかを気にしている。屋敷が冷えていることや、使用人が倒れたことよりも。
彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
「私、貧乏だった頃のこと、覚えてるの」
「……何の話だ」
「薪が買えなくて、冬に毛布を三枚重ねて寝てたの。そのとき、うちの父も同じこと言ってたわ。『男爵家がみっともない真似はできない』って」
「それで?」
「それで、うちは潰れたわ」
部屋が静かになった。
「体面を守ってたら、家が先になくなったの」
「……君は、私の家が潰れると言いたいのか」
「わからないけど」
デボラは扉に向かった。
「潰れかけたとき、あなたが何もしないのは、もうわかった」
◇
その夜、デボラは自室で長く起きていた。
暖房は切れている。毛布を膝にかけて、燭台の火だけで座っていた。
考えていたのは、去年この屋敷を出ていった女のことだった。
あの人は、屋敷を出るとき、宝石もドレスも全部置いていったという。何も持たずに平民街に行った。当時のデボラは、正気ではないと思った。
だが、あの人は今も生きている。噂は少しずつ流れてくる。鍛冶通りに女の魔道具師がいて、腕がいいらしい、と。
自分で稼いでいるのだ。誰かに与えられるのではなく。
デボラは、自分の手を見た。細くて、白くて、綺麗な手だった。この七年、この手で何かを作ったことがあっただろうか。
与えられたものを守るために、ずっと機嫌をとってきた手だった。
廊下で、あの人が言ったことを思い出した。
――同じ屋敷に閉じ込められている女がふたりいるな、と思っただけです。
あのときは腹が立った。何を言っているのだと思った。私は自分で選んでここにいる、あなたとは違う、と。
でも、と今は思う。
私は、この暮らしを選んだのだったか。それとも、他に行くところがなかっただけか。
燭台の火が、ゆらりと揺れた。




