第八章 鉱山が落ちた
湯沸かしが完成したのは、それから四か月後だった。
ハロルドの言った通り、最初は失敗した。回路が熱に耐えられずに三度焼き切れ、四度目でようやく形になった。魔石一個で五日。目標には届かなかったが、貴族用の一日一個と比べれば十分すぎる数字だった。
値段は銀貨八枚。決して安くはない。それでも、風呂屋と宿屋が飛びついた。毎日大量の湯を沸かす商売にとって、魔石の消費が五分の一になるのは死活問題だったからだ。
「これで工房の炉、直せるな」
帳面をつけながら、ハロルドが言った。この半年で、セレナの月の取り分は銀貨三十枚から八十枚に増えていた。
工房には人が増えた。金具の切り出しを手伝ってくれる少年がひとり、組み立てを覚えた女がふたり。セレナが設計と最終調整をやり、あとは分けて回す。ハロルドの言った「分けろ」を、そのまま人に広げた形だった。
「セレナさん、次は何や」
「保温です。温めたお湯が冷めないようにする箱」
「またえらい地味なもん作るな」
「地味なものしか作りません」
セレナは真顔で答えた。ハロルドが笑った。
「ええこっちゃ。派手なもんは高いだけで売れへん」
屋敷にいたころ、二階の窓から平民街の屋根を見下ろしていた。あのころの自分に、今の景色は想像もできなかっただろう。朝起きて、工房に降りて、人に指示を出して、手を動かして、夜に帳面を見る。誰かに決められた一日ではなかった。
自分で決めた一日が、毎日続いている。それだけのことが、こんなに違うのだと思った。
◇
異変の知らせが届いたのは、秋の初めだった。
その日、ハロルドは約束の時間に来なかった。二時間遅れて工房の扉を開けた彼は、いつもより顔が硬かった。
「セレナさん。仕入れが止まった」
「……何がですか」
「魔石や」
セレナは、手を止めた。
「北のグラン鉱山、崩落したらしい。坑道の主要部分が丸ごとや」
グラン鉱山。この国の魔石の、七割を掘り出している場所だ。
「復旧は」
「わからん。三か月とも、一年とも言われとる。誰も正確なことは言えん」
ハロルドは椅子に座らず、立ったまま続けた。
「今、王都中の商人が魔石を買い占めにかかっとる。仕入れ値が朝と夕方で変わる。今日の午後で、先月の三倍や」
「三倍」
「明日には四倍かもしれん」
セレナは、作業台の上の魔石入れを見た。今ある在庫は、着火具にして二百個分ほど。湯沸かしなら四十台分。
「……在庫は」
「工房のぶんは、ひと月もたん」
ハロルドは、ようやく椅子に座った。
「セレナさん。しばらく新規の受注は止めよう。作れんもんは売れん」
◇
最初に苦しくなったのは、平民街だった。
半月も経たないうちに、魔石の小売価格は五倍になった。パン屋の主人が店先で頭を抱えているのを、セレナは水を汲みに行く途中で見た。
「窯が焚けねえんだ」
パン屋は、誰にともなく言っていた。
「魔石代が売上を食っちまう。かといって、パンの値段を上げたら誰も買わねえよ」
そのパン屋は、翌週から営業時間を半分にした。
夜になると、通りが暗くなった。街灯の魔石を市が節約し始めたのだ。工房の並ぶ通りでは、日が落ちると仕事が終わるようになった。灯りをつけるだけの余裕がない。
風呂屋が三軒のうち二軒閉まった。宿屋は暖房を切った。井戸端では、水の話ではなく魔石の話ばかりしていた。
「うちは今週から、夜は蝋燭にしたよ」
「蝋燭だって値上がりしてるじゃないか」
「そりゃそうさ。みんな同じこと考えてるからね」
セレナは、その会話を聞きながら思った。
貴族の屋敷で暮らしていた二年間、魔石が高いという話は一度も出なかった。誰かが買ってきて、誰かが取り替えて、灯りは当たり前についていた。あれが当たり前ではないことを、私は知らなかったのだ。
◇
その頃、王都の上のほうでは、まだ誰も困っていなかった。
工房の少年が、届け物のついでに聞いてきた話を持ち帰ってきた。
「セレナさん、貴族街の方はまだ普通に明るいらしいですよ」
「そうでしょうね」
「なんでですか? 同じ国なのに」
セレナは、少年の顔を見た。十四になったばかりの子だ。
「値段が上がっても、払える人は困らないから」
「ずるくないですか」
「ずるいわね」
セレナはあっさり答えた。少年が驚いた顔をした。
「でも、その人たちも、そのうち困ると思う」
「なんでですか」
「お金で買えるうちはいいの。でも、物そのものがなくなったら、お金は役に立たないから」
少年は、よくわからないという顔をして、作業に戻っていった。
セレナは、作業台の魔石入れをもう一度見た。半分に減っている。
払える人は困らない。今は。
だが鉱山が落ちたということは、この国全体で、掘り出される量そのものが減ったということだ。金貨を積んでも、ないものは買えない。
その日から、セレナは工房で本を読み返し始めた。『魔導回路の基礎と応用』。角がひしゃげているのは、馬車が横転したときのものだ。あの日に買って、あの日に壊れて、それからずっと手元にある。
消費量の計算。伝導率。回路の長さと損失の関係。
何かできることがあるはずだ、と思った。何ができるのかは、まだわからなかった。




