第七章 生きていけるのと、生きていくのは、ちゃう
組んで最初の三日で、着火具は十二個売れた。
ハロルドが宿屋と飯屋を回り、実演し、「ひと月で魔石一個」と言って、その場で売った。一か月で一個しか売れなかったものが、三日で十二個。
「なんで売れるんですか」
工房の作業台で、セレナは呆然としていた。
「相手が違うからや」
ハロルドは椅子に逆向きに座って、背もたれに顎を乗せている。行儀が悪い。
「あんたは、火が要らん人に火を売っとった。わしは、火が要る人に売った。それだけや」
「それだけ、ですか」
「それだけや。せやから商人は要るねん」
悔しいが、その通りだった。
「次な。数を作れるか」
「どのくらいですか」
「ひと月で五十」
セレナは、指を折って数えた。一個作るのに、今は半日かかる。
「……無理です」
「そやろな。作り方を変えなあかん」
ハロルドは立ち上がって、作業台の上の道具を見た。
「あんた、一個ずつ最初から最後まで作っとるやろ」
「はい」
「あかん。分けろ」
「分ける、とは」
「金具の切り出しを十個ぶんまとめてやる。次に回路を十個ぶん刻む。次に組み立てを十個ぶん。同じ作業をまとめてやったほうが速い」
セレナは、その場で試してみた。金具を十個ぶん、まとめて切る。慣れてくると手が勝手に動くようになった。刻みも同じ。組み立ても同じ。半日で、十個できた。
「……速い」
「そやろ」
「なぜ思いつかなかったのかしら」
「職人はな、一個の完成度を上げるほうに頭がいく。数を作る発想がないねん。それは悪いことやない。役割が違うだけや」
◇
揉めたのは、二週目だった。
セレナが新しい試作品を作った。着火具の改良版で、火花の強さを三段階に調整できるようにしたものだ。
「見てください。ここをこう回すと、弱・中・強と切り替わります」
「ほう」
「弱ければ紙に、強ければ薪に直接。細かい火加減ができます」
「なるほどな。原価は」
「……銀貨一枚と、銅貨四十ほどです」
「上がっとるやん」
「はい。部品が増えましたので」
ハロルドは、しばらく黙って試作品をいじっていた。それから、こう言った。
「いらん」
セレナは、手を止めた。
「……え?」
「この機能、いらん」
「なぜですか。便利ですよ」
「便利やけど、誰が使うん?」
「誰が、と言われましても」
「宿屋のおかみが、毎朝二十個の竈に火ぃ点けるときに、いちいち弱中強を切り替えると思うか?」
セレナは、反論しようとして、口を閉じた。切り替えない。毎朝、二十回、同じ竈に。強のままだ。
「でも、細かい火加減ができたほうが」
「できたほうがええ、と、要る、は違う」
「同じでしょう」
「全然ちゃう」
ハロルドは、試作品を作業台に置いた。
「原価が銅貨四十上がった。売値も上げなあかん。上げたぶん、買える人が減る。減ってまで届けたい機能か? それを聞いとる」
「……」
「もっかい聞くで。誰が使うん」
セレナは、握った手を見た。悔しい。悔しいけれど。
「……使いません」
「せやろ」
「でも!」
思わず、声が出た。
「でも、性能を上げるのは、悪いことではないはずです」
「悪ない」
「では、なぜ」
「悪ないけど、今やない」
ハロルドは、椅子に座り直した。
「あんたの技術で、もっとええもんが作れるのはわかっとる。せやけど今は、あんたの工房の家賃が払えるかどうかの話をしとる。順番があるやろ」
セレナは、黙って作業台の木目を見つめていた。
前世でも、こういうことがあった。何かを提案して、それが通らなくて、私は黙った。黙って、引っ込めた。今回も、そうするのか。
顔を上げた。
「ハロルドさん」
「うん」
「今は要らない、というのは、わかりました」
「おう」
「では、いつなら要るのですか」
ハロルドが、片眉を上げた。
「……ん?」
「今は家賃の話をしている、とおっしゃいました。ではその段階を越えたら、この機能は要るようになるのですか。それとも永久に要らないのですか」
しばらく、沈黙があった。それから、ハロルドが噴き出した。
「はは! ええな、それ」
「……笑うところでしょうか」
「褒めとんねん」
ハロルドは身を乗り出した。
「答えるで。要るようになる。ただし客が変わったときや」
「客が、変わる」
「今の客は宿屋と飯屋や。数を捌く連中やから、機能は要らん。単純で丈夫で安いのがええ」
ハロルドは指を一本立てた。
「けど、そのうち別の客が来る。菓子職人とか、薬師とか、細かい火加減が命の仕事や。そういう連中は、銀貨五枚出しても細かい調整が欲しい」
「……」
「そのときに、その試作品は要る。捨てんと取っとけ」
セレナは、試作品を手に取った。捨てなくていい。今ではないだけだ。
「……わかりました」
「わかったか」
「はい。ただ、ひとつだけ申し上げます」
「なんや」
「わたくしは、これからも『要らない』と言われるものを作ります」
ハロルドが、目を丸くした。
「そのときは、また今のように理由を教えてください。理由を聞けば、次はもっと良いものを作れますので」
しばらくして、ハロルドは声を上げて笑った。
「あんた、ほんまに公爵夫人やったんか?」
セレナは、心臓が止まりかけた。
「……なぜ、それを」
「王都で二年も商売しとったら、噂くらい入るわ。アシュフォード公爵夫人が静養に入った、いうてな」
「……」
「安心せえ。誰にも言わん。言うても得せえへんし」
ハロルドは、あっさりと続けた。
「それにな、正直どうでもええねん。あんたが元公爵夫人でも、元パン屋でも、作るもんは同じやろ」
セレナは、しばらく黙っていた。それから、小さく笑った。
「……はい。同じです」
◇
ふた月が経った。
最初の月の締めは、銀貨十五枚だった。暮らしに要るのは、家賃に十二枚と食費に八枚で、ひと月に二十枚。五枚足りない。足りないぶんは、残っていた金から出した。
それでも、その前までは丸ごと持ち出しだったのだ。五枚で済んだ、と思うことにした。
二月目に入って、着火具は月に六十個売れるようになった。宿屋の女将が別の宿を紹介してくれて、そこからまた注文が来た。家賃は払えている。食事も三食とれている。
セレナは、朝から晩まで工房にいた。手は傷だらけで、髪はいつも適当に束ねているだけ。爪は短く切って、煤が入り込んでいる。
ある日、水を汲みに出た井戸端で、近所のおかみさんに声をかけられた。
「セレナさん、あんた最近顔つき変わったねえ」
「……そうですか?」
「来た頃はさ、なんか幽霊みたいだったよ。今は、まあ、汚れてるけど生きてる顔してる」
セレナは、水桶に映った自分を見た。髪はぼさぼさ。頬に煤。目の下に隈。それでも、屋敷の鏡に映っていた「公爵夫人」より、ずっとましな顔をしていた。
◇
その夜、ハロルドが帳面を持って工房に来た。
「今月の締めや」
彼は作業台に帳面を広げた。売上、原価、利益。全部書いてある。数字は汚い字だが、きちんと合っている。
先月は、この帳面を見るのが怖かった。今月は、少し違った。
「売上が金貨一枚と銀貨二十枚。原価が銀貨六十。差し引き銀貨六十が利益。半分こで銀貨三十や」
ハロルドが革袋を置いた。じゃら、と重い音がした。
セレナは、それを見つめた。銀貨三十枚。家賃が十二枚。食費が八枚。残るのは、銀貨十枚。
残る。生活して、残るのだ。
先月は五枚減った。今月は十枚増える。差は十五枚しかないが、減るのと増えるのは、まるで違うことだった。
「あの」
「うん」
「わたくし、生きていけますか」
自分でも間の抜けた質問だと思った。
ハロルドは、帳面を閉じながら答えた。
「今のままなら、生きていける」
「……そうですか」
「けど、それだけや」
セレナは顔を上げた。
「今のままやと、月に銀貨十枚しか残らん。病気したら終わりや。歳とったら終わりや。工房の炉が壊れても終わりや」
ハロルドは、椅子の背に肘をかけた。
「生きていけるのと、生きていくのは、ちゃうねん」
この人は優しくない。でも。
「どうすればよいのですか」
「そう来ると思た」
ハロルドは、にっと笑った。
「品数を増やす。着火具一本足打法やと、流行が終わったら終わりや」
「何を作りましょうか」
「そこはあんたの領分や。わしは何が売れるかは言えるけど、何が作れるかは知らん」
セレナは、作業台に肘をついて、考え始めた。
暮らしを楽にするもの。毎日使うもの。庶民が買える値段になるもの。
前世の記憶が、頭の隅で光った。湯を沸かす道具。保温する道具。物を冷やす道具。照明。乾燥。前の世界には、全部あった。でも、あのままは作れない。仕組みが違いすぎる。この世界の魔石と回路で、同じことができないか。
紙を引き寄せて、書き始める。ペンが止まらない。
ハロルドが覗き込んだ。
「なんやそれ」
「湯沸かしです。魔石で水を温める」
「もうあるで、そんなもん」
「知っています。貴族の屋敷にあります。でも、あれは魔石を一日一個食べます」
セレナは、ペンの先で回路図を叩いた。
「回路を単純にして、温度を上げすぎないようにすれば、消費はずっと減らせるはずです」
「……ひと月一個、みたいな話か」
「そこまでは無理でしょう。でも、五日に一個くらいなら」
ハロルドの動きが、止まった。彼は、紙をじっと見ている。
「セレナさん」
「はい」
「それ、ほんまにできるんか」
「わかりません。試したことがありませんので」
「……」
「でも、理屈の上ではできるはずです」
ハロルドは、しばらく黙っていた。それから、ぼそりと言った。
「あんた、自分が何言うてるかわかってるか」
「え?」
「貴族の屋敷にしかない道具を、平民の家に持ち込む話やぞ」
セレナは、まばたきをした。そうか。そういうことになるのか。
工房の窓の外で、風が鳴った。
ハロルドは椅子から立ち上がって、上着を羽織った。扉の前で振り返る。
「材料、なんぼでも仕入れたるわ。作ってみ」
「はい」
「言うとくけど、たぶん最初は失敗するで」
「はい」
「そんで、たぶん高すぎて売れへん」
「……はい」
「それでもやるか?」
セレナは、紙の上の回路図を見た。それから、顔を上げて答えた。
「やります」
ハロルドは、満足そうにうなずいて、扉を開けた。
「ほな、また来るわ」
扉が閉まる。工房に、セレナひとりが残った。燭台の火が、紙の上でゆらゆらと揺れている。
セレナはペンを握り直し、線を一本、引いた。
今度の人生は、私が決める。何を作るかも、誰と組むかも、全部。
夜は、まだ長かった。




