第六章 「これ、売れてへんやろ」
「これ、売れてへんやろ」
セレナは、口を半分開けたまま、男を見ていた。当てられた、と思った。初対面の人に、一目で。
顔が熱くなった。ひと月半かけて作ったものだった。三十回失敗して、指に豆を作って、夜中まで机に向かって作ったものだった。
「……失礼ですが」
声が震えた。
「あなたは、どなたでしょうか」
「ハロルドや。商人」
男はあっさり答えて、着火具をもう一度カチと鳴らした。
「隣の国から来て、この国で商いしとる。まだ三年目やけどな」
「そうですか。それで、なぜ売れていないと」
「値段」
ハロルドは、着火具を布の上に置いた。
「これ、なんぼで売っとるん」
「銀貨二枚です」
「うん。誰が買うん、それ」
ぐさりときた。実際、一か月で一個しか売れていない。事実だから、言い返せない。
「材料費がかかっているのです。魔石と、伝導用の銀線と……」
「知ってる」
「え?」
「魔石が銅貨四十くらいやろ。銀線が三十。あとの金具で二十。ぜんぶで銅貨九十から百。銀貨一枚ぶんやな」
セレナは、まじまじと男の顔を見た。
「……どうしてわかるのですか」
「仕入れとるからな、魔石も銀線も」
ハロルドは肩をすくめた。
「原価が銀貨一枚。売値が銀貨二枚。粗利が銀貨一枚。悪い商売やないよ。理屈は合っとる」
「では、なぜ」
「理屈は合っとるけど、客がおらん」
ハロルドは立ち上がって、市場を指した。
「あんた、この通りを歩いとる人らを見てみ。あの人ら、一日いくら稼いでるか知ってるか」
セレナは通りを見た。荷を担いだ男、籠を抱えた女、走り回る子ども。
「……いえ」
「日雇いなら銅貨五十から八十や。一日働いて、それ」
一日で銅貨八十。では、銀貨二枚は。
「三日ぶん、ですね」
「そう。三日分の稼ぎ出して、火打石の代わりを買う人間がおるか?」
いない。いるわけがない。
セレナは、自分の膝の上で手を握った。
「では……この着火具は、無駄だったということですか」
言ってから、声が湿っているのに気づいた。情けなかった。
ハロルドは、意外そうな顔をした。
「なんでや」
「え?」
「誰も無駄なんて言うてへんやろ」
ハロルドはもう一度しゃがみ込んで、着火具を手に取った。
「これ、ええもんやで」
セレナは言葉に詰まった。今、売れないと言ったばかりではないか。
「あの、おっしゃっていることが」
「ええもんやけど、高い。この二つは別の話や」
ハロルドは、着火具の回路の部分を指でつついた。
「これ、あんたが設計したんか」
「はい」
「魔石一個で、何回くらい火花飛ぶ」
「五百回ほどです」
「……五百?」
ハロルドの手が、止まった。
「はい。回路を単純にしましたので、一回の消費が非常に小さいのです」
「毎日二十回使って、二十五日か」
「はい」
「ひと月、魔石一個で足りるんか」
「そうなります」
ハロルドは、着火具を持ったまま、じっとそれを見ていた。それから、急に立ち上がった。
「あんた、名前」
「セレナです」
「セレナさん。ちょっと座って話さんか。そこの茶屋でええから。奢るわ」
「……はい?」
「話が長くなる。地面に座ってしとうない」
◇
茶屋の隅の席で、ハロルドは薄い茶をふたつ頼んだ。
運ばれてくるまでの間、彼は紙と鉛筆を出して、何かを書き始めた。字が汚かった。数字ばかりだった。
「な、セレナさん。あんたな、大事なことを一個も言うてへんかった」
「大事なこと、とは」
「五百回、や」
ハロルドは鉛筆で紙を叩いた。
「あんた、市場で客に何て言うてた? 『ここを押すと火花が出ます』やろ」
「……はい」
「そんなん、火打石でも出るがな」
セレナは、言葉に詰まった。
「客が知りたいのはな、火花が出るかどうかやない。『これ買うたら、自分の暮らしがどう変わるか』や」
ハロルドは紙をくるりと回して、セレナのほうへ向けた。そこには、こう書いてあった。
――火打石 銅貨3 ※毎朝10回打って点かん ※雨の日は点かん
――これ 銀貨2 ※一発で点く ※雨でも点く ※ひと月魔石1個
「宿屋のおかみに売れたって言うたな。なんで売れたと思う」
「毎朝、竈に二十個も火を熾すからと」
「そや。その人は、火打石で毎朝三十分損しとった。三十分×三十日で十五時間や。銀貨二枚で十五時間買えるなら、安い」
セレナは口を開けた。
「……時間を、売っている?」
「そう」
ハロルドは、にやりと笑った。
「あんた、火花を売ろうとしとった。ちゃう。売るんは時間や」
セレナは、紙の上の数字を見つめた。そんなふうに考えたことは一度もなかった。私は回路のことばかり考えていて、買う人が何を欲しがっているかを考えていなかった。
「……あの」
「なんや」
「では、この着火具は、誰に売ればよいのでしょうか」
ハロルドの目が、きらりと光った。
「ええ質問や」
彼は紙をめくって、新しい面に書き始めた。
「毎朝たくさん火を熾す人。宿屋、飯屋、風呂屋、パン屋。あと鍛冶屋。この辺は一日何回も火ぃ点ける。銀貨二枚でも安いと思う連中や」
「では、そちらへ」
「せやから、市場の道端で通行人待っとってもあかんねん。あんたの客は通りを歩いてへん。店の中で働いとる」
あまりに当たり前で、セレナは自分の頭を叩きたくなった。お店に行けばよかったのだ。
「あの、ハロルドさん」
「ハロルドでええよ」
「ハロルドさん。どうしてわたくしにこんなことを教えてくださるのですか」
ハロルドは茶を一口飲んで、あっさり言った。
「儲かるからや」
「え」
「あんたの技術で、わしが売る。ふたりで山分け。悪い話やないやろ」
セレナは、しばらく彼の顔を見ていた。
この人は、私の身分を一度も聞かなかった。貴族かどうか、どこの出か、なぜ平民街にいるのか。何ひとつ聞かれていない。聞かれたのは、名前と、魔石が何回もつか、だけだった。
「あの」
「うん」
「わたくしが何者か、お聞きにならないのですか」
「聞いてほしいんか?」
「いえ……その、気になりませんか」
「気にならん」
ハロルドは首を振った。
「昨日まで何やったかは、商売に関係ない。明日から何ができるかが関係ある」
セレナは、茶碗を両手で包んだ。温かかった。
この二年間、誰もそんなふうに私を見なかった。みんな「公爵夫人」を見ていた。この人は、「魔道具を作る人」を見ている。
目の奥が熱くなって、セレナは慌てて茶を飲んだ。熱くて、舌を焼いた。
「……あつっ」
「そら熱いわ、淹れたてやもん」
「はい……」
ハロルドは、鉛筆をくるくる回しながら言った。
「で、どうする。組むか」
「はい」
セレナは即答した。それから、慌てて付け加えた。
「あの、でも、条件を伺ってもよいですか」
「おお、ええやん」
ハロルドが、初めて感心したような顔をした。
「いきなり『はい』だけで終わる素人が多いんや。条件聞くのは正しい」
「……では」
「先に言うとくわ。わしは、あんたの取り分をごまかす気はない。理由は簡単で、そんなことしたら次から誰も組んでくれへんからや。信用なくしたら商売終わりやろ」
ハロルドは紙にまた何か書いた。
「原価はぜんぶ帳面に付ける。あんたにも見せる。売れた金から原価引いて、残りを半分ずつ。文句あるか」
「……ありません」
「ほな、決まりや」
ハロルドは手を差し出した。
セレナは、その手を見た。指の節が太くて、日に焼けていて、爪が短く切られている。自分の手も、もう白くはない。煤と傷でいっぱいだ。働いている人の手だった。
セレナは、その手を握った。
「よろしくお願いいたします」
「よろしゅう」
握った手は、乾いていて、力強かった。
そして、ハロルドは席を立ちながら、こう言った。
「あ、それとな。ひとつ言うといていいか」
「はい」
「あんた、自分の仕事を安う見積もりすぎや」
セレナは、まばたきをした。銀貨二枚は高すぎる、とさっき言われたばかりだ。
「値段の話やない。値段は高い。せやけど、あんたが自分の技術を思っとる値段は、安すぎる」
ハロルドは、着火具を指した。
「魔石一個で五百回や。それ、この国で誰もやってへんぞ」
「……そんなことは」
「ないな。わし、魔道具の仕入れもやっとるからわかる」
ハロルドは、当たり前のように言った。
「あんた、思っとるよりだいぶ腕がええよ」
そして、金を置いて、さっさと店を出ていった。
セレナは、その背中を見送った。それから、空になった茶碗を見つめて、しばらく座っていた。
腕がいい。そう言われた。初めて言われた。
二年間、誰も自分の技術について何も言わなかった。褒めもしなかったし、貶しもしなかった。ただ「変わっている」と言われるだけだった。それが今日、お世辞でもなく、身分でもなく、技術に値段をつけられた。
セレナは、両手で顔を覆った。泣いているのを、店の人に見られたくなかった。




