第五章 二十日目に、ひとつ売れた
最初の一週間で、セレナは自分がいかに何も知らなかったかを思い知った。
まず、宿の主人に足元を見られた。「一泊、銀貨三枚だね」と言われて素直に払い、そのあと隣の宿の看板に「一泊 銀貨一枚」と書いてあるのを見つけた。三倍取られたのだ。
次に、パンを買った。「これください」「はいよ、銅貨五枚」。払って、店を出て、袋を開けたら昨日焼いたパンだった。硬い。今日焼いたのを、と言わないといけないのだ。当たり前のことだった。誰も教えてくれないだけで、みんな知っている。
三日目に、セレナは決めた。黙って買うのをやめよう。わからないことは聞こう。
これが、思ったよりも難しかった。公爵夫人だった二年間、セレナは誰にも何も尋ねなかった。尋ねれば「そんなことも知らないのか」と思われる。侍女の目が、いつもそう言っていた。
だが、平民街の人々は違った。
「あの、すみません。このお野菜、どうやって食べるものですか」
「え、知らないの? これはねえ、こう、皮を剥いてスープに入れんの。あんた、どっから来たの」
「北のほうから出てきました」
「ああ、だからかい。じゃあこっちの菜っ葉も買っときな。安いし日持ちするから」
教えてくれる。普通に、教えてくれる。拍子抜けするほどだった。
◇
工房を借りるのに、十日かかった。
鍛冶通りの外れ、細い路地の突き当たり。前の借り手が夜逃げしたという小さな石造りの建物で、家賃はひと月銀貨十二枚。作業台と煉瓦の炉がついていて、二階が住居になっている。
大家は、腰の曲がった老婆だった。セレナを上から下まで眺めて、こう言った。
「あんた、貴族だろ」
セレナの心臓が止まりかけた。
「……なぜ、そう」
「歩き方だよ。背中がまっすぐすぎる」
老婆はけたけたと笑った。
「まあいいさ。家賃さえ払ってくれりゃ、素性は聞かないよ。この街はそういう街だ」
「……ありがとうございます」
「ただし三か月分前払いね。夜逃げされちゃかなわん」
銀貨三十六枚。持ち金の四分の一が、一瞬で消えた。半年の余裕が、四か月半になった。
家賃の相場は聞いていた。前払いのことは、誰も教えてくれなかった。リタも知らなかったのだろう。
鍵を受け取って、扉を開ける。埃と、油と、焦げた金属の匂いがした。窓は小さく、床には前の借り手が残していった鉄くずが散らばっている。汚い。
でも、とセレナは作業台に手を置いた。表面が傷だらけで、あちこち焦げている。ここは私の場所だ。誰にも「公爵夫人ともあろうかたが」と言われない場所だ。
その夜、セレナは工房の床を這いつくばって掃除した。手は真っ黒になり、爪の中にまで煤が入った。夜中に手を洗いながら、ふと自分の手のひらを見る。もう、公爵夫人の手ではなかった。
嬉しかった。
◇
執事が訪ねてきたのは、それから三日後だった。
扉を叩く音がして、開けると、見慣れた黒い上着が立っていた。屋敷で二年間、毎朝顔を合わせていた人だ。
「……どうして、ここが」
「お調べいたしました」
それだけ言って、執事は革の書類入れを差し出した。
「離婚の書類でございます。旦那様の署名はお済みです。奥様の署名をいただければ、こちらで手続きを進めます」
「奥様では、もうありませんよ」
「……失礼いたしました」
セレナは作業台に書類を広げた。埃を払っていない台だったので、慌てて袖で拭いた。
文面は短かった。婚姻の解消。財産の分与なし。公表は健康上の理由による静養とする。
二年が、紙一枚に収まっていた。
ペンを借りて、署名した。
前世では、印刷した紙を三十分見つめて、引き出しにしまった。今日は、三十秒もかからなかった。
「確かにお預かりいたしました」
執事は書類をしまい、それから、工房の中を一度だけ見回した。作業台。煉瓦の炉。床に積んだ本。
「屋敷は、大丈夫ですか」
「……滞りなく」
「そう」
それ以上は聞かなかった。聞いても、この人は同じ答え方をする。
「差し出がましいことを、申し上げてもよろしいですか」
「どうぞ」
「屋敷にいらしたときより、顔色がよろしいようです」
セレナは、少し驚いた。この人がそういうことを言うのを、二年間で一度も聞いたことがなかった。
「ありがとう」
「いえ。失礼いたしました」
執事は深く一礼して、路地を戻っていった。
その背中を見ながら、セレナは思った。
使いをよこすこともできたはずだ。
◇
最初に作ったのは、着火具だった。
構想は、あの夜に書いた紙の通り。魔石の力で火花を飛ばすだけの、極めて単純な回路。魔道具としては赤ん坊のようなものだ。
ただし、この形は三十冊のどこにも載っていない。前世の台所にあったものを思い出して、この世界の魔石と回路に置き換えただけの、自分の思いつきだ。
図面がない。手本がない。それが、こんなに難しいとは思わなかった。
一週目、回路を刻む手が震えて、線が曲がった。二週目、魔石の座りが悪くて、力が伝わらなかった。三週目、ようやく火花が飛んだ。三回に一回だけ。
「……点いた」
誰もいない工房で、セレナは思わず声を出した。点いた。点いたわ。誰か見ていてほしかったが、誰もいなかった。
セレナはひとりで両手を上げて、それからその手をゆっくり下ろした。三回に一回では売り物にならない。
四週目、接点の形を変えた。五回に四回。五週目、魔石の固定方法を変えた。九回に八回。六週目、ようやく、十回試して十回とも火花が飛んだ。
その日、セレナは工房の床に座り込んで、しばらく動けなかった。
できた。
本に載っていないものを、自分の頭で考えて、自分の手で形にした。生まれて初めてだった。
これまでずっと、書いてあるとおりに作ってきた。うまくできても、それは本が正しかっただけだ。今日のこれは違う。誰の手本もない。
窓の外はもう暗かった。腹が減っていた。財布の中身は、心細くなっていた。でも、その夜のセレナは、とても機嫌がよかった。
◇
問題は、そこからだった。
できあがった着火具を十個作り、籠に入れて、市場へ持っていった。道の端に布を敷いて、その上に商品を並べる。周りの露天商を真似た。そして、座った。
一時間、誰も足を止めなかった。二時間、誰も足を止めなかった。おかしい。いいものなのに。
三時間目に、ようやく老人がひとり立ち止まった。
「なんだいこりゃ」
「着火具です。ここを押すと火花が出ます」
「ふうん」
老人は手に取って、しげしげと眺めた。それから、こう言った。
「いくらだい」
「銀貨二枚です」
老人は、着火具を布の上に戻した。
「火打石なら銅貨三枚だよ」
そして、行ってしまった。
セレナはその場に固まっていた。銅貨三枚。銀貨二枚は銅貨にすると二百枚。六十六倍だ。顔から血の気が引いた。
材料費が銀貨一枚かかっている。安くしたら、作れば作るほど損をする。ではどうすればいいのか。
日が傾くまで座っていたが、ひとつも売れなかった。布を畳んで、籠を抱えて、路地を歩いて帰る。石畳に自分の影が長く伸びていた。
いいものを作れば売れると思っていた。違うのだ。作るのと売るのは、全然違う仕事なのだ。
工房に戻って、扉を閉めて、セレナは作業台に突っ伏した。お腹がすいた。お金がない。売れない。
顔を上げて、壁の棚に並べた本を見た。三十冊の魔道具の本。この中に、「売り方」の本は一冊もなかった。
◇
翌週も、その翌週も、セレナは市場に通った。
少しずつ、わかってきたことがある。まず、値段を聞かれる前に手に取ってもらうこと。次に、実演すること。カチ、と火花が飛ぶのを見せると、目の色が変わる人がいる。
「おお、すげえな」
「便利でしょう」
「便利だな。……で、いくらだい」
「銀貨二枚です」
「ああ、いや、うん。すげえけどな」
同じところで、必ず止まる。値段だ。値段さえ何とかなれば。
二十日目に、ようやくひとつ売れた。買ったのは、宿屋の女将だった。
「毎朝二十個も竈に火を熾すんだ。これで楽になるならね」
銀貨二枚を受け取ったとき、セレナは手が震えた。売れた。私が作ったものが、売れた。
その夜は、久しぶりにちゃんとした食事をした。パンと、スープと、干し肉が少し。自分で稼いだお金で食べるごはんは、こんな味がするのだと思った。
でも、翌日から十日間、また一つも売れなかった。財布の中身が、いよいよ薄くなってきた。
◇
その男が現れたのは、市場に通い始めて一か月が過ぎた頃だった。
その日は雨上がりで、客の出も悪かった。セレナは布の上に着火具を並べたまま、膝を抱えて座っていた。
ふと、影が落ちた。顔を上げると、男が立っている。
少し赤みのある茶の髪。歳は三十前後だろうか。上等だが飾り気のない上着を着ていて、貴族ではないとひと目でわかる。ただ、平民街の人間にしては、目つきが違った。値踏みする目だ。ただし、こちらの身分ではなく、商品を見ている。
男はしゃがみ込んで、着火具をひとつ手に取った。ためつすがめつ、しばらく眺めている。裏返し、振り、押し、火花を飛ばし、また裏返した。何も言わない。
やがて、男は顔を上げた。そして、開口一番、こう言った。
「これ、売れてへんやろ」
セレナの頭が、真っ白になった。




