第四章 火の熾し方から教えてください
離婚は認めない、とエドワードは言った。だから、セレナは準備を始めた。
認めないなら、認めざるを得ない状況を作ればいい。前世の私はただ待っていた。夫が変わるのを、状況が変わるのを、ずっと待っていて、そして何も変わらないまま死んだ。
まず、金を数えた。
自室の書き物机の引き出しを全部開けて、持っているものを机の上に並べる。侯爵家から持参した装身具。結婚のときに与えられた宝石。毎月渡される小遣いのうち、使わずに溜めていたぶん。宝石は売れるのだろうか。いや、公爵家から与えられたものは、たぶん返せと言われる。実家から持ってきたものだけだ。
紙に書き出していく。数字にすると、思っていたより少なかった。半年。うまく暮らして、半年。それまでに稼げるようにならないと、詰む。
背筋が寒くなった。同時に、頭の芯が冴えていくのも感じた。
前世でこれをやらなかったから、私は動けなかったのだ。「ひとりで生きていけるのか」とずっと漠然と怖がっていた。数えたら半年と出た。漠然ではなくなった。
次に、本を積んだ。『魔導回路の基礎と応用』を筆頭に、子どものころから買い集めた魔道具関係の本が、寝室の書棚に三十冊ほどある。ドレスより、宝石より、これが一番の財産だと思った。
そして、書き始めた。これまで読んだ本の内容を、自分の言葉で整理し直す。回路の組み方、魔石の消費量の計算、素材ごとの伝導率。
手は動く。実家にいたころから、本を見ながら作るのは好きだった。姉たちが刺繍をしている隣で、セレナは図面を見て銀線を曲げていた。ただし、本に載っているものを、載っているとおりに作るだけだ。線の太さも、魔石の位置も、全部書いてある。書いてあるから、そのとおりにやる。
自分で考えたものを作ったことは、一度もない。
書きながら、ひとつ困ったことに気づいた。
半年、と数えた。だが平民街の家賃がいくらなのかを、セレナは知らない。知らずに半年と言っても、それはただの願望だ。
屋敷から自由に出られない身で、聞ける相手はひとりしかいなかった。
◇
「奥様、本気ですか」
リタが、洗濯物を抱えたまま、目を丸くしていた。
「本気よ」
「平民街で、魔道具の工房で、職人になる、と」
「ええ」
「奥様が」
「ええ」
リタは洗濯物を椅子の上に置いて、腰に手を当てた。
「……奥様、火を熾したことはございますか」
「……ないわ」
「お湯を沸かしたことは」
「……ないわね」
「ご自分で髪を結ったことは」
「……ない」
「じゃあ無理じゃないですか!」
その通りだった。ぐうの音も出ない。
「だから、練習するの」
「練習」
「そう。今日から」
セレナは立ち上がって、リタの前に立った。
「リタ。教えてくれない?」
「……は?」
「火の熾し方。お湯の沸かし方。髪の結い方。洗濯の仕方。買い物の仕方。全部」
リタは、ぽかんと口を開けた。
「わたし、が、奥様に、ですか」
「あなたしか頼める人がいないの」
「侍女の方々に頼めば……」
「あの人たちに言ったら、明日には旦那様の耳に入るわ」
「……それは、そうですけど」
「それに、マーサたちは火を熾さないでしょう」
「熾しませんね。あの方たちがなさるのは、お召し替えとお髪とお茶ですから」
「あなたは」
「わたしは全部やります。下働きですので」
リタは、うっ、と息を詰まらせた。それはその通りだ、という顔だった。
「それと、もうひとつ」
「まだあるんですか」
「平民街で工房を借りると、ひと月いくらくらいなの」
リタは首を傾げて、指を折った。
「場所によりますけど……鍛冶通りの外れなら、銀貨十枚から十五枚くらいかと。うちの兄が似たようなところを借りてます」
「ありがとう。助かるわ」
セレナは、その数字を紙に書きつけた。
銀貨十二枚として計算し直す。食費と合わせても、やはり半年と出た。数字が動かなかったことに、少し安心した。
安心したのが早かったことに気づくのは、もう少し先の話だ。
しばらく黙ったあと、リタは大きく息を吐いた。
「……厳しくいきますよ」
「望むところよ」
「泣いても知りませんからね」
「泣かないわ」
セレナは、その日のうちに泣いた。
火が熾せなかったのだ。火打石を三十回打っても、火口はぴくりともしなかった。指の付け根に豆ができ、爪が割れた。
「奥様、握り方が違います。もっと角度を寝かせて」
「……こう?」
「もっと! そんな上品に打ってどうするんですか、火は上品に燃えません!」
「上品に打ってるつもりはないの!」
「出てるんですよ、上品さが!」
夜、シーツにくるまって、セレナは声を殺して泣いた。火も熾せない。魔石で火花を飛ばす回路なら図面を見れば組めるのに、火打石ひとつ打てない。そういう育ち方をしてきたのだ。
泣きながら、ふと思った。前世の私は火が点けられた。コンロをひねれば、ボッ、と。あれは便利だったな。
あれ、と思う。
セレナは起き上がった。枕元の燭台に灯りを入れて、机に向かい、紙を広げる。
コンロはどういう仕組みだった? つまみをひねると、ガスが出て、火花が飛んで、それで点く。火花。着火装置。魔石で火花を飛ばすだけの回路なら、たぶん、すごく小さい魔力で動く。そうしたら、火打石が要らない。
ペンを走らせながら、心臓が速くなっていくのがわかった。毎朝、火を熾すのに苦労している人が、この国にどれだけいるだろう。
夜が明けるまで、セレナは机に向かっていた。
◇
二か月が過ぎた。
その間に、セレナは三回エドワードの書斎を訪ね、三回とも「認めん」と言われた。
四回目のとき、エドワードは書類から顔も上げずに言った。
「まだ言うのか」
「はい」
「いい加減にしろ。周りに何と説明する」
「本当のことを説明なさればよろしいかと」
「本当のこと、とは」
「夫が愛人を屋敷に住まわせ、妻に二年間触れず、それでも妻に跡継ぎを求めた、と」
エドワードのペンが、止まった。ゆっくりと顔が上がる。今度は、笑っていなかった。
「……脅すつもりか」
「いいえ。事実の確認です」
「同じことだ」
「では、事実を口にすると困ることを、エドワード様はなさっている、ということですね」
エドワードは、ペンを机に置いた。
「セレナ」
「はい」
「君は変わったな」
「はい」
「以前の君は、こんなことを言う人間ではなかった」
「はい。以前のわたくしは、何も言わない人間でした」
セレナは、まっすぐに立っていた。
「そして、何も言わないまま、人生が終わるところでした」
窓の外で、風が鳴った。長い沈黙のあと、エドワードは深く息を吐いた。
「……条件がある」
セレナの心臓が、跳ねた。
「はい」
「公表は『健康上の理由による静養』とする。離婚の事実は当面伏せる。君は実家に戻ったことにする」
「実家には戻りません」
「どこへ行こうが君の勝手だ。だが、公爵家から与えたものは全部置いていけ。ドレスも宝石も、ひとつ残らずだ」
「承知しました」
即答したので、エドワードはまた眉を寄せた。
「……いいのか」
「はい。要りませんので」
「……君は」
エドワードは何か言いかけて、やめた。それから、書類の束を引き寄せて、こう言った。
「二週間後に書類を用意させる。それまでに出ていけ」
「ありがとうございます」
セレナは深く礼をして、扉に向かった。取っ手に手をかけたところで、背中に声がかかる。
「セレナ」
振り返る。エドワードはまだ座ったままだった。美しい顔に、初めて見る表情が浮かんでいる。困惑、と言うのが一番近い。
「なぜだ」
「……なぜ、とは」
「なぜ、そこまでして出ていく。ここにいれば、何不自由なく暮らせる。金も、地位も、屋敷もある。外に出れば、何もないんだぞ」
セレナは、少し考えてから答えた。
「エドワード様。ここにいて、わたくしが自分で決められることは、何かございますか」
エドワードは、答えなかった。
「その日に何を食べるかも、誰と会うかも、いつ寝るかも、全部決まっています。決めているのは、わたくしではありません」
セレナは、扉の取っ手を握った。
「外に出れば、何もありません。でも、全部わたくしが決められます」
そして、最後に付け加えた。
「二年間、ありがとうございました」
扉を閉めるとき、エドワードがまだこちらを見ているのが、目の端に映った。
◇
出発の朝は、よく晴れていた。
セレナの荷物は、鞄がふたつだけだった。ひとつは着替えと日用品。もうひとつは本が三十冊。重すぎて、リタとふたりがかりで階段を降ろした。
「奥様」
玄関の前で、リタが鼻をすすった。
「もう奥様じゃないわ。セレナよ」
「……セレナ様」
「様も要らない」
「無理です! 二年もお仕えしたんですよ!」
リタは、袖でごしごしと目を拭いた。
「本当に、行かれるんですね」
「ええ」
「あの、これ」
リタが差し出したのは、小さな布包みだった。開けると、火打石が入っている。よく使い込まれて、角が丸くなっていた。
「わたしのお下がりで恐縮ですが、使い慣れたやつのほうが火が点きやすいので」
セレナは、それをぎゅっと握った。
「……ありがとう」
「泣かないでくださいよ。わたしまで泣くじゃないですか」
「泣いてないわ」
「泣いてます」
ふたりでしばらく玄関先に立っていた。
やがてセレナは、屋敷を振り返った。二年間暮らした建物。一度も自分の家だと思えなかった建物。
二階の窓に、人影が見えた気がした。濃い茶の髪。デボラだ。目が合ったような気がしたが、確かめる前にカーテンが揺れて、影は消えた。
セレナは、鞄を持ち上げた。行こう。
門を出て、坂を下る。荷物が重い。手のひらに食い込む。腕がすぐに痛くなる。それでも、これ全部、自分が選んだものだった。
石畳の坂の下に、平民街の屋根が見えていた。朝の煙が、何本も細く立ち上っている。
セレナは、そちらへ歩き出した。




