第三章 離婚していただけますか
義母のアシュフォード先代公爵夫人がやってきたのは、その三日後だった。
応接間の長椅子に腰を下ろすなり、義母は湯気の立つ紅茶のカップを、コトン、と受け皿に置いた。
この音だ、とセレナは思う。前世の義母は湯呑みを置き、今世の義母はティーカップを置く。器は違うのに、置き方がそっくりだった。話を始める前に、必ず一度、音を立てる。
「まあまあ、痛々しいこと。頭を打ったと聞いて、生きた心地がしませんでしたのよ」
「ご心配をおかけしました」
「いいのよ。あなたに何かあったら、エドワードが困りますもの」
エドワードが困る。私が困る、ではなく。
セレナは黙って微笑んだ。これも前世で何百回もやった顔だ。口の端を少しだけ上げて、目は動かさない。
「それでね、セレナさん」
義母が身を乗り出した。
「こんなときに言うことではないのだけれど、お体を大事になさいね。そろそろ、ね」
来た。一言一句、同じだ。
「結婚して二年でしょう。周りも気にし始める頃合いですし。お医者様には診ていただいたの?」
「……いいえ」
「あら。行ってみたらいかがかしら。最近は良いお医者様もいらっしゃるそうよ」
紅茶の湯気が、義母の顔の前でゆらゆらと揺れている。
前世の私は、ここで「そうですねえ」と言った。笑って、うなずいて、それから台所で卵を落とした。二十年ぶん、同じことをした。
息を、吸う。
「お義母様」
「なあに?」
「お医者様に診ていただいても、たぶん何も出てまいりません」
義母の眉が、わずかに動いた。
「あら、どうして?」
「エドワード様が、わたくしに触れておられませんので」
部屋の空気が止まった。義母のカップを持つ手が宙で止まり、紅茶の表面が小さく揺れる。
「……セレナさん」
「結婚した直後の数日だけです。それからの二年間、一度もございません。ですから、お医者様に診ていただく必要があるとしたら、わたくしではないかと存じます」
言った。言ってしまった。自分の声が、自分のものではないみたいに響く。
義母の顔が、みるみる強張っていく。
「そんな、はしたないことを口に出すものではありませんよ」
「はしたない、でしょうか」
「当たり前でしょう。閨のことを、まあ、なんてこと……」
「では、子どもができないことをわたくしの責任として繰り返しお尋ねになるのは、はしたなくはないのでしょうか」
義母のカップが、受け皿の上でカタンと鳴った。
「あなた、頭を打ったせいで、おかしくなったのではなくて?」
「かもしれません」
セレナはうなずいた。
「三日眠っておりましたので、いろいろ思い出したのです」
「思い出した? 何をです」
「わたくしが、一度も自分で何かを決めたことがない、ということを」
義母はあんぐりと口を開けたまま、しばらく言葉を探していた。やがて、憤然と立ち上がる。
「エドワードに話します」
「はい。どうぞ」
セレナが即答したので、義母はまた言葉に詰まった。それから、逃げるように応接間を出ていった。
扉が閉まる。
セレナは長椅子に座ったまま、自分の胸に手を当てた。心臓がどくどくと速く打っている。怖い。すごく怖い。
でも、と息を深く吐いた。
気持ちよかった。
◇
その日の夕方、セレナは廊下で彼女に会った。
デボラ・ミルズ。濃い茶の髪を無造作に片側へ流し、深い赤のドレスを着ている。豊かな胸、細い腰、口元のほくろ。すれ違うだけで香水が漂う、そういう種類の華やかさを持った女だった。
「あら、奥様。お加減はいかが?」
声には、隠しきれない棘があった。
「おかげさまで」
「よかったこと。エドワード様、それはもう心配なさっていましたわ」
嘘だ。あの人は一度顔を出しただけで、それも医者と話して帰った。
以前のセレナなら、ここで曖昧に微笑んで、視線を落として、通り過ぎただろう。だが、今日は足が止まった。
「デボラさん」
「なんでしょう?」
「ひとつ、伺ってもよろしいかしら」
デボラの目が、わずかに細くなる。喧嘩を売られたと思ったのだろう。
「どうぞ」
「あなたは、この暮らしに満足していらっしゃいますか」
デボラは、きょとんとした。
「……は?」
「わたくしは、していません」
セレナは廊下の窓の外を見た。もう日が落ちかけている。
「地位はあります。屋敷もあります。ドレスも山ほどあります。でも、わたくしの一日は、朝起きて、誰とも話さず、本を読んで、夜になって眠るだけです。二年間、それだけでした」
「……何が言いたいの」
「あなたはどうかしら、と思っただけです」
デボラの表情が、少しだけ変わった。棘の後ろにあるものが、一瞬だけ見えた気がした。
「わたくし、あなたと争う気はありません。エドワード様を取り戻したいとも思っておりません」
「……あなた、変わったわね」
「はい。たぶん」
セレナは会釈をして、歩き出した。三歩ほど進んだところで、背中に声がかかる。
「ねえ」
振り返ると、デボラは腕を組んだまま、少し不機嫌そうな顔でこちらを見ていた。
「同情してるつもり?」
「いいえ」
「じゃあ何よ」
「同じ屋敷に閉じ込められている女がふたりいるな、と思っただけです」
デボラの目が、はっきりと見開かれた。
セレナはもう一度会釈して、今度こそ廊下を歩いていった。
◇
エドワードが書斎に呼びつけたのは、三日後の夜だった。
「母上から聞いたぞ」
机の向こうで、エドワードは腕を組んでいた。怒っている、というより、面倒な事態に巻き込まれた、という顔をしている。
「なぜあんなことを言った」
「事実を申し上げただけです」
「事実かどうかの話ではない。場をわきまえろと言っている」
「わきまえておりましたら、来年も再来年も、同じことを言われ続けます」
「言わせておけばいいだろう」
エドワードは、心底わからない、という顔をした。
「母上が何を言おうが、君の地位は揺るがない。私が保証すると言っているだろう」
保証、保証。この人の口からその言葉を何回聞いただろう。
セレナは机の前に立ったまま、静かに口を開いた。
「エドワード様」
「なんだ」
「離婚していただけますか」
書斎が、しん、と静まり返った。暖炉の火が、ぱちりと爆ぜる。
エドワードはしばらくセレナの顔を見つめていた。それから、笑った。
「はは。何を言い出すかと思えば」
「本気です」
「本気で言っているなら、なおさら質が悪い」
エドワードは椅子の背にもたれ、両手を広げた。
「いいか、セレナ。君は公爵夫人だ。この国で最も高い地位にある女性の一人だ。離婚したら何が残る? 実家に出戻った侯爵令嬢か? 物笑いの種だぞ」
「かまいません」
「かまうんだよ。うちの家名に傷がつく」
ああ、そっちの心配か。
「デボラのことなら、何度も言っただろう。彼女は正式な妻にはなれない。君の座は誰にも脅かされない。何が不満なんだ」
「不満ではありません」
「では何だ」
「要らないのです」
エドワードの笑みが、初めて少しだけ揺れた。
「……何だと?」
「地位も、屋敷も、衣装も、公爵夫人という肩書きも、わたくしの人生には要らないのです」
セレナは、まっすぐにエドワードを見た。
「わたくしがこの二年で手に入れたものは、たくさんあります。でも、そのどれ一つとして、わたくしが自分で選んだものではありません。この結婚も、この屋敷も、この暮らしも、全部、誰かが決めたものです」
「当たり前だろう。貴族の結婚とはそういうものだ」
「はい。ですから、抜けます」
沈黙。
エドワードはまじまじとセレナを見ていた。まるで、飼っている猫が突然しゃべり出したかのような顔だった。
「……君、本当に頭を打っておかしくなったんじゃないのか」
「そうかもしれません」
セレナは少しだけ微笑んだ。
「でしたら、おかしくなってよかったと思っています」
エドワードは何か言おうとして、口を開き、閉じた。それからもう一度開いた。
「認めん」
「……はい?」
「離婚は認めん。醜聞になる」
そう来るか。まあ、そうだろう。
「わかりました」
「わかったなら、下がれ。この話は終わりだ」
「いいえ」
セレナは首を振った。
「終わりではありません。わたくしは、認めていただけるまで何度でも申し上げます」
「なっ……」
「おやすみなさいませ、エドワード様」
セレナは深々と礼をして、書斎を出た。
扉を閉めた瞬間、膝が笑い出した。壁に手をついて、しばらく息を整える。怖かった。心臓が止まるかと思った。
でも、と思う。前世の私は離婚届を三十分見つめて、引き出しにしまった。今日の私は口に出した。三十分ではなく、三秒で。
廊下の突き当たりの窓から、月が見えた。セレナはそこまで歩いて、しばらく月を眺めていた。
一回目は言えなかった。二回目は言えた。ここからだ。




