第二章 私、二度目の人生まで何をしているの?
白い天井が見えた。
蛍光灯じゃない。それが、最初に思ったことだった。
視界にあるのは淡い水色の天蓋で、その向こうに漆喰の天井がある。窓のカーテンは引かれていて、隙間から橙色の光が細く差し込んでいた。夕方らしい。空気の匂いも違う。柔軟剤の匂いも換気扇の油の匂いもしない、乾いた石とほのかな薬草の匂いだった。
セレナはゆっくりと息を吸った。頭の右側が鈍く痛む。手を伸ばすと、包帯が巻かれていた。
「奥様……! 奥様、お目が覚めたのですか!」
寝台の脇で、下女のリタが飛び上がった。目が真っ赤に腫れている。
この屋敷でいちばん下の働き手だ。火の始末と洗濯と水汲みをしている、まだ十六か七の娘。公爵家では珍しく、セレナに対して普通の口をきく。
「三日です。三日もお目覚めにならなくて。お医者様は、頭を強く打っているから安静にと。わたし、わたし、もう……」
「……リタ」
「はい!」
「泣かないで。生きているから」
「泣きますよ! 三日ですよ!」
リタは目元を袖でぐしぐしと拭いた。その乱暴な仕草を見ていたら、なぜだか少し笑ってしまった。
枕元に、水の入った器と、固く絞った布が置いてある。椅子の背には毛布がかかっていた。誰かがそこで夜を明かした形だった。
「リタ。あなた、ずっとここにいたの」
「……はい」
「マーサは」
「……お忙しいそうです」
三日。
その三日のあいだ、この屋敷で自分の枕元にいたのは、いちばん下の働き手の娘ひとりだった。
笑って、それから、頭の中に詰まっているものに気がついた。
自分のものではない記憶。いや、自分のものだ。確かに自分のものなのだが、この体のものではない。蛍光灯。換気扇。横断歩道。スーパーの袋。離婚届。義母の湯呑み。夫の携帯の画面。
全部、覚えている。夢ではない。あれは私が生きた四十三年だ。
「奥様? どこか痛みますか?」
「……いいえ」
セレナは天井を見上げたまま、小さく息を吐いた。四十三年ぶんの記憶が頭の中に詰まっている。重かった。
「旦那様は」
尋ねると、リタの表情が一瞬だけ止まった。それから、慌てて明るい声を作る。
「昨日、一度お顔を出されました。お医者様と少しお話しになって、それで……」
「それで、すぐ戻られた?」
「……はい」
リタは唇を噛んだ。この娘は嘘が下手だ。
「いいのよ」
言ってから、セレナは自分の口から出た言葉に驚いた。いいのよ。この二年で何度言っただろう。
そのとき、廊下の向こうから笑い声が聞こえた。女の声だった。低くて、よく響く、機嫌のいい笑い方。それに応えるように男の声が何か言って、また笑い声が重なる。
リタが弾かれたように扉のほうへ動いた。閉めようとしたのだろう。
「いいのよ、リタ」
「……ですが」
「いいの。ほんとうに」
リタは扉の取っ手に手をかけたまま、しばらく動かなかった。それから、小さな声で言った。
「奥様は、いつもそうおっしゃいます」
セレナは、その言葉を胸の真ん中で受け止めた。
いいのよ。気にしていないわ。そういうものだから。言うたびに何かが少しずつ減っていった。何が減っているのかは、考えないようにしていた。
扉の向こうで、笑い声が遠ざかっていく。
◇
侍女のマーサが来たのは、それから半刻ほど後だった。
扉を開け放したまま入ってくる。廊下の笑い声はまだ続いていたが、閉めようとはしなかった。聞こえていないのではない。気にする対象に入っていないのだ。
マーサは部屋を一度見回して、リタに目を留めた。
「あなた、まだここにいたの」
「……奥様がお目覚めになったので」
「目が覚めたなら、もう用はないでしょう。洗濯場が溜まっているわ」
「はい」
リタはセレナのほうを一度見てから、頭を下げて出ていった。
マーサは寝台の脇に立ち、慣れた手つきでセレナの上半身を起こした。背中に枕を入れ、水を注いだ器を持たせる。動作に無駄がない。長く仕えてきた侍女の手だった。
「お加減はいかがですか」
「……ええ、大丈夫」
「それはよろしゅうございました」
目は、こちらを見ていなかった。
櫛を取り出して、髪を梳き始める。包帯を避けて、手早く、事務的に。痛くはない。丁寧でもない。
「奥様。差し出がましいことを申し上げますが」
「……なにかしら」
「お出かけの際は、お供をお連れくださいませ。今回のようなことがございますと、わたくしどもの落ち度になりますので」
セレナは、器を持ったまま黙っていた。
馬車が横転した。三日眠った。今朝、目が覚めた。
この人が最初に口にしたのは、それだった。
「……そうね。気をつけるわ」
「お願いいたします」
マーサは櫛を仕舞い、シーツの皺を伸ばし、器を下げて出ていった。最後まで、こちらの顔を見なかった。
扉が閉まる。
この二年、ずっとこうだった。落ち度になりますので。わたくしどもの。話すのは屋敷の秩序のことだけで、それでいて仕事は正確だ。
文句のつけようがない。だから何も言えない。二年、そうやってきた。
セレナは、水をひとくち飲んだ。ぬるかった。
◇
夫のエドワードが部屋に来たのは、その翌朝だった。
金の髪が窓の光を受けて眩しく光っている。相変わらず、絵に描いたように美しい男だった。十七で初めて会ったとき、セレナはこの人が自分の夫になるのだと言われて、うまく実感が持てなかった。今も持てていない。
「ああ、起きていたか」
エドワードは寝台の脇まで来て、セレナの顔を覗き込んだ。
「思ったより顔色がいいな。安心した」
「ご心配をおかけしました」
「まったくだ。御者は解雇しておいたぞ」
セレナはまばたきをした。
「……解雇?」
「当然だろう。公爵夫人を乗せていながら、あんな道を選ぶから馬が驚くんだ」
違う。前方で荷車が横転したのだ。あの人に落ち度などない。
以前のセレナなら、そう言おうとしてやめただろう。言っても覆らないからだ。今日も、やはり言わなかった。ただ、以前と違うことが一つあった。言わなかった理由が、はっきりとわかったのだ。
言えば面倒なことになる。面倒なことになれば自分が困る。自分が困るのは嫌だ。だから黙る。
前世と、同じだった。
「しばらくは静養するといい。夜会はすべて断っておいた。公爵夫人が包帯姿で出るわけにもいかないからな」
「……はい」
「ああ、それから。母上が、しばらくこちらへ滞在すると言っている。君の見舞いも兼ねて、と」
セレナは静かに息を吸った。
義母が来る。来れば、必ず言われる。結婚して二年、まだ子どもができない公爵夫人に向かって、あの方はいつもの穏やかな声で言うだろう。セレナさん、お体を大事になさいね。そろそろ、ね。
そろそろ、ね。言葉まで同じだ。
セレナは夫の顔を見上げた。この人は自分に触れなくなって久しい。夫婦らしいことをしたのは結婚した直後の数えるほどだけだ。そして今、廊下の向こうには別の女が住んでいて、この人はそちらで笑っている。それなのに、責められるのは自分だけだった。
前世でもそうだった。義母は何も知らず、夫は何も言わず、そして私は笑って「そうですねえ」と答える。
「エドワード様」
思ったより、するりと声が出た。
「なんだ」
「わたくしたち、夫婦でしょうか」
エドワードは一瞬きょとんとして、それから笑った。心の底からおかしそうな、屈託のない笑い方だった。
「何を言い出すんだ、君は。頭を打ったせいか?」
「いいえ。真面目にお伺いしています」
「君は公爵夫人だろう。この国で最も高い地位にいる女性の一人だ。何が不満なんだ」
「不満ではなく、質問です」
「デボラのことを気にしているなら、何度も言っているじゃないか」
エドワードは、少し面倒くさそうに息をついた。
「君と彼女は張り合うような関係じゃない。君の立場は私が保証している。屋敷も、衣装も、使用人も、全部与えているだろう。他に何が要るんだ」
保証している。この人はいつもそう言う。地位を、屋敷を、衣装を、夫人という肩書きを、与えているつもりなのだ。それで十分だと本気で思っている。悪意はない。だからこそ、話が通じない。
「そうですね」
セレナは答えた。エドワードは満足そうにうなずいて、「無理をするなよ」と言い残して部屋を出ていった。
扉が閉まる。
今、私は「そうですね」と言った。前世で何百回も言った、あの言葉と同じ形で。
◇
部屋が静かになった。
セレナは体を起こし、寝台の縁に腰かけた。頭がまだ少しふらつく。窓から朝の光が入ってきて、床に細長い形を落としていた。
思い出していたのは、あの日、横断歩道で薄れていく意識の中で、最後に考えたことだ。
私は、私の人生を、一度も自分で決めなかった。
あのときの気持ちを、セレナははっきりと覚えている。後悔でも恨みでもない、もっと静かで、もっと空っぽな感情だった。自分の人生なのに、一度も自分で決めなかった。その事実だけが最後に残ったのだ。
そして今、自分は何をしているだろう。
夫には別の女がいて、同じ屋敷に住んでいる。夫婦の実体はない。子ができないことだけを責められる。そして自分は「いいのよ」と言い続けている。
二年だ。
このまま三年、五年、十年と続いたら、自分はまた同じ場所に立っているのではないか。いつか何とかしようと思いながら、何もしないまま、また終わるのではないか。
「……私、二度目の人生まで、何をしているの?」
声に出してみると、あまりに間の抜けた響きだった。セレナは思わず小さく笑ってしまった。笑って、それから、笑いが止まった。
今回は死ななかった。馬車から投げ出されて、頭を打って、三日眠って、それでも目が覚めた。けれど、死ぬところだった。
人生は、こちらが決断するまで待ってはくれない。前世でそれを学んだはずだった。学んだ代償に四十三年を失ったはずだった。それなのに、二度目の人生でも同じことをしている。
セレナは寝台から立ち上がった。ふらついて、寝台の柱に手をついた。それでも立った。窓辺まで歩き、カーテンを開ける。
朝の王都が見えた。石畳の道を荷車が行き、パン屋の前に人が並び、洗濯物を抱えた女が路地を横切っていく。誰もが、自分の一日を生きている。
もう、この結婚は要らない。
エドワードを懲らしめたいわけではなかった。デボラから夫を取り戻したいわけでもない。愛される妻になりたいわけでも、もうない。ただ、要らないのだ。この生活そのものが、自分の人生には要らない。
窓辺に立ったまま、セレナは自分の手のひらを見た。細くて、なめらかで、傷ひとつない手だった。魔道具を組むときに指先が少し荒れるくらいで、それ以外は何もしてこなかった手だ。公爵夫人の手だ。この手で、何ができるだろう。
視線を動かすと、寝台脇の小卓にあの日の包みが置かれていた。誰かが事故現場から持ち帰ってくれたのだろう。紙が破れて、中の本の背表紙が覗いている。
『魔導回路の基礎と応用』。
セレナはそれを手に取った。表紙の角がひしゃげていたが、頁は無事だった。
夫は言った。君は変わっているな、と。周りは言った。公爵夫人ともあろうお方が、と。
でも、この本を面白いと思ったのは自分だ。誰かに言われて好きになったわけではない。子どものころからずっと、社交界の噂話より魔導回路の構造のほうが面白かった。それは本当のことだった。
自分について確かに言えることが、この世に一つでもあるなら。それは、たぶん、これだ。
セレナは本を胸に抱えた。そして、静かに決めた。
離婚しよう。そして今度こそ、自分の人生を生きよう。




