第一章 私、前世でも我慢していました
王都ルーメンの石畳の道を、セレナ・アシュフォードは馬車で進んでいた。
早く帰らなくてはいけないが、不思議と焦りを感じてはいない。今は膝の上に置いた本『魔導回路の基礎と応用』を手に入れられたことで胸がいっぱいだった。
今朝早い時間に屋敷を出たセレナが、開店したばかりの古書通りの馴染みの店を訪ねた時、セレナの顔を見た店主が奥から出してきてくれたものだ。三年前に絶版になった魔道具師向けの教科書。自身の技術の基礎固めのために、ずっと探していたものだった。
こういう買い物をする時、セレナはいつもひとりででかける。侍女を伴うと、余分な一言を言われるからだ。
「公爵夫人ともあろうかたが、そのような職人風情が読むような本を」
公爵家へ嫁いでからつけられた侍女は、夫には丁寧だが、セレナにはやや不遜な態度をとる。夫から愛されていない夫人など、丁寧に扱うに値しない、とでも思っているのだろう。逆らうわけでもないが、一緒にいて心地よいとは感じない。一言言われるとわかっているときは、置いていくに限る。
アシュフォード公爵家では、セレナがどこへひとりで行こうが、何を買ってこようが、特に咎められるわけでもない。関心を向けられていない、といった方が正確だろう。
今日は夫であるエドワード・アシュフォード公爵は、屋敷にいるが、セレナとエドワードが屋敷で一緒の時間を過ごすことはほとんどなかった。エドワードは今日も、デボラと時間を過ごしていることだろう。考えるのも面倒だった。
ふたりがどこで何をしているのかを、考えないようにすることが、この二年で一番うまくなったことだった。
前方で、重いものが倒れる音がした。
本から顔を上げる。窓の外、少し先で荷車が横倒しになっていた。積んでいた麻袋が石畳に散らばり、そのうちのひとつが破れて、白い粉が煙のように舞い上がっている。
荷車の主が、腰を抜かしたように座り込んでいた。
馬が、けたたましくいなないた。
不意に、体が横へ引っ張られるような気がした。
「うわぁっ!!!」
御者の叫び声と、馬のいななき。
右へ大きく馬車が傾き、体が浮く感覚がする。
座席から浮いた体と、手から離れた本。ページがパラパラとめくれて、やけにゆっくりと見えた。
「あっ……!」
声が出たのと、馬車の壁にセレナの体が強く打ち付けられたのと。どちらが先だったのだろうか。
ガシャン
バリバリ
ゴン
色々な音が同時に聞こえて、右肩と頭と背中にありえない痛みが走り……、セレナは意識を失った。
◇
沈んでいく。深いところへ、ゆっくりと。痛みも、音も、遠くなっていく。
そして。
◇
私は、台所に立っていた。
蛍光灯の白い光。換気扇の、ブーンという低い音。流しには洗い終えた食器がふたつ。壁の時計は十一時を回っていて、鍋の中の味噌汁はとっくに冷めている。温め直すべきか少し迷った。温め直したところで夫が食べるとは限らないが、冷めたものを出して「冷たい」と言われるのも嫌だった。
結局、コンロをひねる。
ボッ。
青い火が、鍋の底を舐めた。結婚してから、私は同じことを何百回も繰り返してきた。
玄関で、鍵の回る音がする。
カチャリ。
「おかえりなさい」
「ああ」
それだけ。夫はネクタイを緩めながら、私の横を通り過ぎていく。すれ違いざま、甘い匂いがした。柔軟剤でもシャンプーでもない、もう知っている匂いだった。
「ごはん、どうする?」
「食べてきた」
「……そう」
火を止めた。味噌汁が、もう一度冷めていく。
どこで食べてきたの、と聞けばいいだけの話だった。たった一言だ。それなのに私は聞かなかった。聞いたあとに続く会話を、全部想像できてしまったからだ。
◇
この匂いに気づいたのは、五年前だった。
一度目は気のせいだと思い、二度目は考えないようにして、三度目に私は夫の鞄を開けた。
ピリリ、と携帯が光る。画面に出た短い一行を、私は最後まで読んでしまった。
――今日もありがとう。またね。
それだけの文章だった。それだけの文章で、十分だった。
鞄を閉じて、元の場所に戻した。夫は風呂に入っていた。シャワーの音が、壁の向こうで規則正しく続いている。私は台所に戻って、次の日の朝の分の卵焼きを作ろうとして――手が震えて、卵をひとつ落とした。
ぐしゃり。
床に広がった黄色を、雑巾で拭いた。拭きながら、考えていたのは離婚のことではなく、そのあとのことだった。問い詰めれば離婚になる。離婚になれば私はひとりになる。この歳で、貯金もろくにない女がひとりで生きていけるのか。母は言うだろう、離婚だけはやめなさいと。近所の目もあるし、親戚の目もある。
だから、私は黙った。黙っていれば、いつか終わると思っていた。
そして五年経っても、私はまだ何も言えないまま、同じ台所に立っている。
◇
その次の年の正月、義実家でも同じ話をされた。毎年、同じ話だった。
お義母さんは湯呑みをコトンと置いてから話を始める。それが合図だった。
「そろそろ、ねえ」
「……そうですねえ」
「お医者様には行ったの? 最近はいい病院もあるらしいわよ」
「はい、考えてはいるんですけど」
「考えているうちに、歳をとってしまうわよ」
もうとっくにとっている。
夫は隣でみかんを剥いていた。何も言わないし、目も合わせない。
この人は私に何年も触れていません、と言えばいいのに、と思う。だから子どもができるはずがないのです、と。でも言えば、この人が責められる。責められれば家の中が気まずくなる。気まずくなれば、面倒なのは私だ。
だから、私は言わなかった。
「そうですねえ」
笑ってそう答えた。みかんの皮の匂いが、やけに濃かった。
◇
夫の女が妊娠したと知ったのは、その二年後だった。
隠しもしなくなった携帯の画面に、白黒の写真が出ていた。小さくて、丸くて、ぼんやりとした影。エコー写真だと気づくまで少しかかって、気づいてからしばらく動けなかった。
子どもができないのは私のせいだと思っていた。違った。夫は私とは家庭を作らなかった。そして、別の人とは作った。ただ、それだけのことだった。
その夜、私は市役所のホームページを開いた。離婚届の様式をダウンロードして、コンビニで印刷した。二十円だった。私のこれまでは、二十円の紙で終わらせられるらしい。
家に帰って、テーブルの上に広げた。ボールペンを持った。持ったまま、三十分が過ぎた。
今さらひとりになってどうする。私さえ我慢すれば丸くおさまる。これくらいで離婚するようなことだろうか。同じ言葉が頭の中を何百回も回って、回っているうちにボールペンを置いた。紙を折って、引き出しの奥にしまった。
その引き出しを、私は二度と開けなかった。そうしているうちに、また一年が経った。
◇
夏の、夕方だった。
スーパーの袋が右手に食い込んでいた。卵と、牛乳と、明日の朝の食パン。特売の卵は、ひとり一パックまで。
「今日は暑いねえ」
「そうですねえ」
レジのおばさんとのその会話が、その日、私が交わした会話のすべてだった。
横断歩道の前で立ち止まる。信号が青に変わった。私は歩き出した。
左から、光。
キィィィッ
ドンッ
体が宙に浮いた。袋が手から離れ、卵のパックがやけにゆっくり回転しながら飛んでいくのが見えた。あ、卵。そんなことを思った。
背中から落ちて、アスファルトが頬に冷たかった。誰かが叫んでいる。遠くでサイレン。視界の端で、割れた卵が広がっていた。あの夜、台所で落としたのと同じ黄色だった。
ああ。私の人生、ずっとこの色を拭いてたな。
◇
音が遠くなっていく。痛みは、もうなかった。
ふと、引き出しのことを思い出した。あの紙、まだ入ったままだ。誰かが見つけるだろうか。見つけて、どう思うだろうか。
……どうでもいいか。
四十三年。そのうちの二十年を、あの家で使った。我慢して、笑って、「そうですねえ」と答え続けた。いつか何とかしようとずっと思っていた。その「いつか」が来なかっただけ。それだけのことだった。
視界が白くなっていく。
最後に浮かんだのは、恨みでも後悔でもなかった。もっと静かで、もっと空っぽな、ひとつの事実だった。
私は、私の人生を、一度も自分で決めなかった。
それが、私の最後だった。




