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今度の人生では、我慢しません  作者: ねむけもの


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第十七章 右の欄には、一つしか書けなかった

 アシュフォード公爵邸は、その頃、まだ寒かった。


 魔石不足そのものは、少しずつ緩和していた。セレナの回路が公開されて半年、各地の工房が省魔力型の魔道具を作り始め、国全体の消費量が下がったからだ。

 街には灯りが戻りつつあった。風呂屋が全部開いた。パン屋の窯が朝から焚かれるようになった。


 だが、公爵邸は変わらなかった。


「なんで替えないの」


 デボラは、冷えた食堂でそう言った。


「新しい型に替えれば、同じ魔石で四倍もつのよ。街の風呂屋だってみんな入れてるわ」

「平民の道具だろう」


 エドワードは、スープを口に運んだ。ぬるい。


「公爵家がそんなものを使えるか」

「使ってる家、あるわよ。ラングフォード伯爵家は去年入れたって」

「あそこは元々成り上がりだ」

「じゃあヴァレンス侯爵家は? 先月入れたそうよ」


 エドワードのスプーンが、止まった。


「……誰から聞いた」

「屋敷の者から」


 デボラは、パンをちぎった。硬い。


「ねえ、エドワード様。もうみんな替えてるの。替えてないのはうちくらいよ」

「体面の問題だ」


 また、それだった。



  ◇



 デボラは、その日の午後、こっそり厨房に行った。


「ねえ、あの新しい湯沸かしって、いくらするの」


 料理長は、驚いた顔をした。


「デボラ様が、そんなことを」

「いいから」

「……一台、金貨一枚だそうです。分割払いもできると」

「屋敷に何台要るの」

「厨房と浴室と洗濯場で、最低六台。全部となると二十台ほど」


 デボラは、頭の中で計算した。金貨二十枚。夜会を一度開く費用より安い。


「それで、どのくらい浮くの」

「魔石代が、四分の一になります」


 料理長は、少し声を落とした。


「ひと月で、金貨三枚は浮く計算です。七か月で元が取れます」


 デボラは、しばらく黙っていた。


 七か月。それだけの話なのだ。誰でもわかる計算だ。それをこの屋敷は、去年からずっとやっていない。


「……料理長」

「はい」

「あなた、旦那様にこの計算を出した?」

「三度、出しました」

「なんて言われたの」


 料理長は、答えなかった。答えなかったことが、答えだった。



  ◇



 その晩、デボラは自室で紙を広げた。


 書いたのは、二つの表だった。


 左に、この一年で公爵邸が失ったもの。使用人が七人辞めた。厨房の設備が二つ壊れたまま。夜会が三回中止になった。取引のあった商会が二つ離れた。

 右に、この一年で公爵邸が守ったもの。


 右の欄には、一つしか書けなかった。


 ――体面。


 デボラは、そのたった一行を長いこと眺めていた。


 守るために、あれだけのものを失ったのだ。そして守れたのかというと、それも怪しい。屋敷が冷えていることも、使用人が辞めていることも、すでに社交界の噂になっている。

 体面すら、守れていない。


 彼女は、紙を折って、引き出しにしまった。



  ◇



 決定的な日が来たのは、それから半月後だった。


 王城で、省魔力技術に関する式典が開かれた。技術院が回路の開発者を表彰する場である。貴族も多く招かれ、エドワードとデボラも出席した。


 壇上に呼ばれたのは、質素な服を着た女だった。


 髪はきちんと結ってあるが、飾りはない。ドレスも、貴族のものではない。手が日に焼けていて、爪が短く切られている。

 デボラは、その女を見て、息を止めた。


 セレナだった。


「本技術の公開により、王国全体の魔石消費は前年比で三割減少いたしました」


 技術院長が読み上げていた。


「本来であれば独占により莫大な利益を得られたにもかかわらず、開発者は無償公開を選択いたしました。これにより、地方の小規模工房まで技術が行き渡り――」


 デボラは、隣を見た。


 エドワードが、口を半分開けて壇上を見ていた。顔から血の気が引いている。


「……セレナ?」


 彼は、小さく声を漏らした。


「なぜ、あれが、あんなところに」


 デボラは答えなかった。


 式典のあと、拍手が起きた。貴族たちが、平民の女に向かって拍手をしていた。

 デボラは、その光景を最後まで見ていた。



  ◇



 帰りの馬車の中で、エドワードはずっと黙っていた。


 屋敷に着いて、玄関を入ったところで、彼は突然口を開いた。


「あれは私の妻だった」

「元、でしょう」

「私が屋敷に置いてやっていたんだ」


 エドワードは、早口だった。


「あれがあんなものを作れたのは、うちにいた間、本を買う金があったからだ。私が与えたんだ」


 デボラは、彼の顔を見た。


 この人は、今、あの人の功績を自分のものにしようとしている。


「エドワード様」

「なんだ」

「あの人、屋敷を出るとき、何も持っていかなかったんですってね」

「……それがどうした」

「ドレスも宝石も置いていって、本だけ持って出たって」

「だから、その本は私が――」

「あの本、半分はご実家から持ってきたものだそうよ」


 エドワードが、口を閉じた。


 デボラは、手袋を外した。


「与えたものは、全部置いていったのよ。持っていったのは、自分のものだけ」

「何が言いたい」

「あの人が作ったものは、あなたのものじゃないってこと」


 エドワードの顔が、赤くなった。


「私を侮辱するのか」

「事実を言っているだけ」

「事実だと?」


 彼は、声を荒らげた。


「私は公爵だぞ。あの女は平民だ。どちらが上かなど、言うまでもない」


 デボラは、しばらく彼を見ていた。


 この人は、いつも同じところに戻る。困ったとき、追い詰められたとき、必ず身分の話をする。それ以外に、自分を支えるものがないからだ。


「エドワード様」

「なんだ」

「私、出ていくわ」


 玄関が、静かになった。


「……何だと?」

「出ていく、と言ったの」


 デボラは、手袋を持ったまま言った。


「一年、待ったのよ。あなたが何かするのを。屋敷が冷えても、人が辞めても、あなたは何もしなかった」

「私は公爵だ。細かいことは使用人が――」

「その使用人が、三回も計算書を持っていったそうよ」


 エドワードが、言葉に詰まった。


「七か月で元が取れる話だったの。誰でもわかる計算よ。それをあなたは、三回とも見なかった」

「……」

「私、貧乏だった頃のこと、覚えてるって言ったわよね」


 デボラは、玄関の扉を見た。


「うちの父も同じだった。体面、体面って言って、何もしないで、それで潰れた。私、あれをもう一度見たくないの」

「デボラ」


 エドワードの声が、初めて弱くなった。


「私には君がいる」

「いないわ」


 彼女は、あっさり言った。


「今日から、いない」



  ◇



 荷物をまとめるのに、一日かかった。


 ドレスは全部置いていった。持っていっても、売る以外に使い道がない。宝石も置いた。もらったものは、返す。

 持っていったのは、着替えと、少しの金と、引き出しにしまってあった紙一枚だった。左に失ったものが並び、右に「体面」とだけ書かれた紙だ。


 門を出るとき、デボラは屋敷を振り返った。


 去年、二階の窓からこの門を見下ろした日のことを思い出した。あのとき、鞄を二つ持った女が、この坂を下っていった。

 馬鹿な女だと思っていた。全部捨てて、何になるのかと。


 今、自分が同じ坂を下っている。


 デボラは、歩き出した。荷物は軽かった。

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