第十六章 一人でも生きていけます
王城から呼び出しが来たのは、その春だった。
省魔力回路の技術について、王国技術院が説明を求めているという。手紙には、必要なら技術を国が買い取る用意がある、とも書かれていた。
「行くんか」
「行きます」
「気ぃつけや。取り上げられるかもしれん」
ハロルドは真顔だった。
「国が『買い取る』言うときは、断りにくい形で言うてくることがある」
「断りません」
セレナは、あっさり言った。ハロルドが驚いた顔をする。
「売るんか」
「売りません。公開します」
「……は?」
「回路の設計を、誰でも使えるようにします。図面を技術院に置いてもらって、写しを取れるようにする。それでいいと思っています」
ハロルドは、椅子から立ち上がった。
「セレナさん。それ、うちの飯の種やで」
「はい」
「他所が真似する。同じもんが安う出回る。うちの売上、落ちるで」
「落ちます」
セレナは、うなずいた。
「でも、今のままだと、うちが作れる数しか世の中に出ません。うちは月に八十台が限界です。この国には、何万軒も店があります」
「……」
「わたくしが独り占めしていると、あと十年経っても届かない家がたくさんあります」
ハロルドは、しばらく黙っていた。それから、深く息を吐いて、また座った。
「あんた、それでええんか」
「はい」
「うちの職人らの飯はどうする」
「そこは、考えました」
セレナは、紙を出した。
「回路は公開します。でも、うちには一年分の作り方の蓄積があります。どこをどう組むと壊れにくいか、どの素材が安く手に入るか。それは図面には書けません」
「……なるほどな」
「他所が真似して作り始めたら、いちばん困るのは修理です。作れても直せない。そこをうちが引き受けます」
ハロルドの目が、光った。
「修理と部品か」
「はい。そちらのほうが、長く食べていけると思います」
彼は、しばらくセレナを見ていた。それから、笑い出した。
「あんた、ほんまに商売覚えたな」
「先生が良かったので」
「言うようになったわ」
◇
王城での説明は、半日で終わった。
技術院の学者たちは、最初セレナを疑っていた。平民街の女職人が、王国の技術者が誰も思いつかなかった発想を持っているとは信じなかったのだ。
だがセレナが黒板に回路を描き、消費量の計算を書き、なぜこの形になるのかを説明していくうちに、部屋の空気が変わった。
「……なぜ、この方向を考えたのですか」
一番年配の学者が、最後にそう聞いた。
「我々は皆、出力を上げることばかり考えていました。誰も、減らすことを研究しなかった」
セレナは、少し考えてから答えた。
「わたくしが貧乏だったからです」
部屋がざわついた。
「原価を一銅貨でも下げないと、売れませんでした。だから削るしかなかった。それだけです」
学者は、深くうなずいた。
「……なるほど。我々には、削る理由がなかったのですね」
技術は無償で公開されることになった。技術院はセレナに謝礼を出そうとしたが、彼女は代わりに条件をひとつだけ出した。
「この回路を使った魔道具について、修理の資格制度を作っていただけますか」
「資格、ですか」
「はい。細い線を扱うので、慣れない人が直すと危険です。うちで人を育てて、その人たちが各地で修理できるようにしたいのです」
その提案は、その年のうちに制度になった。
◇
工房に戻ったのは、日が暮れてからだった。
ハロルドが待っていた。ひとりで、椅子に座って、帳面も開かずに。
「どやった」
「公開が決まりました。修理の資格制度も通りました」
「そうか」
彼は、うなずいた。それから、少し黙って、こう言った。
「セレナさん。話がある」
セレナは、前掛けを外す手を止めた。
「はい」
「座ってくれるか」
セレナは、向かいの椅子に座った。蝋燭が一本だけ点いている。
「わし、今日、一日ここで待っとった」
「はい」
「その間、ずっと考えとった」
ハロルドは、机の上で手を組んだ。商談のときの姿勢だった。
「あんたが王城に行っとる間、もし技術を取り上げられたらどうしようとか、そういうこと考えとったんやけどな」
「はい」
「途中から、別のこと考えとった」
彼は、そこで一度言葉を切った。
「あんたが戻ってこんかったらどうしよう、と」
セレナは、彼の顔を見た。
「王城に召し抱えられるかもしれん。技術院に入るかもしれん。そうなったら、あんたにとってはそっちのほうがええ話や。安定するし、金も入る」
「……」
「それを考えとったら、腹が立ってきた」
「腹が」
「わしにやない。自分にや」
ハロルドは、組んだ手を見ていた。
「わし、あんたと商売の話しかしてへん。一年、ずっとや。それしかしてへんかったから、あんたがおらんようになる理由を、止める言葉を持ってへんことに気づいた」
工房が、静かだった。
「セレナさん」
「はい」
「わし、あんたと商売がしたい」
彼は顔を上げた。
「それとは別に、あんたと一緒におりたい」
セレナは、しばらく動けなかった。
◇
心臓が、うるさかった。
前世でも、今世でも、こういう言葉を受け取ったことがなかった。前世の夫は見合いの席で「よろしくお願いします」と言い、エドワードは「君は公爵夫人だ」と言った。
どちらも、自分がどう扱われるかの話だった。一緒にいたい、と言われたのは、これが初めてだった。
「ハロルドさん」
セレナは、ゆっくり口を開いた。
「わたくし、ひとりでも生きていけます」
ハロルドの表情が、わずかに動いた。
「……そうやろな」
「工房は回ります。値付けもできます。職人も育ちました。技術は公開しましたから、他所と競争になりますけれど、修理と部品でやっていけます」
セレナは、自分の手を見た。傷だらけで、爪が短くて、煤の入った手だった。
「あなたがいなくても、わたくしは生きていけます」
「……」
「それを確かめてから、言いたかったのです」
セレナは、顔を上げた。
「わたくしは、あなたと生きていきたいです」
ハロルドは、口を半分開けたまま、彼女を見ていた。
「……今、なんて」
「二度は言いません」
「言うてくれ」
「嫌です」
「頼むわ」
セレナは、笑ってしまった。
「あなたと生きていきたい、と言いました」
ハロルドは、両手で顔を覆った。それから、その手を下ろして、深く息を吐いた。
「……あんた、断り方が上手いから、わし、九割断られると思とった」
「なぜですか」
「伯爵家の使者、あんな綺麗に追い返す人おらんで」
「あれは順番の話です」
「わしにも順番があるんかと思た」
「ありません」
セレナは、真顔で答えた。
「あなたは、最初からいちばん前にいます」
ハロルドが、また顔を覆った。
◇
結婚したのは、その年の秋だった。
式は挙げなかった。二人とも忙しかったし、必要だと思わなかった。役所に届けを出して、工房の職人たちと近所の人を呼んで、飯屋で一晩騒いだ。それだけだった。
前世の結婚は、家と家が決めた。今世の一度目の結婚は、爵位のために決められた。
三度目にして初めて、自分で決めた。
住むところも、そのときに変えた。
工房の二階をずっと寝床にしていたが、職人が十六人に増えて、帳面も注文票も置く場所がなくなっていた。二階を事務所にして、二本先の通りに小さな家を借りた。
部屋は二つしかない。それでも、屋敷の自室より広いとセレナは思った。あの部屋には何もなかった。ここには本と、道具と、もうひとり人がいる。
その日の夜、片づけの終わった工房で、セレナは作業台に手を置いた。傷だらけの、焦げた作業台だった。
一年ちょっと前、この台に初めて手を置いた日のことを思い出した。あのとき、ここは「誰にも公爵夫人と言われない場所」だった。
今は、自分の場所だ。




