第十五章 もうわし要らんな、と
その一年で、セレナとハロルドは数え切れないほど喧嘩をした。
値段のことで揉め、納期のことで揉め、どの注文を先に受けるかで揉めた。ハロルドは利幅の大きい貴族向けを増やしたがり、セレナは平民向けの量産を優先したがった。
「金貨三枚の仕事が十件と、金貨一枚の仕事が三十件。どっちが得やと思う」
「後者です」
「同じ売上やん」
「作る数が三倍なので、職人が育ちます」
「時間が三倍かかるやろ」
「一年後には三倍作れるようになっています」
ハロルドは、しばらく黙ってから、帳面を閉じた。
「……そら、あんたのほうが正しいわ」
「勝ちましたか」
「勝った勝った」
彼は面白くなさそうに言って、それから笑った。
◇
徹夜も何度もした。
新しい保温箱の試作が終わらず、二人で工房に泊まった夜がある。夜半過ぎ、ハロルドが床に座って壁にもたれていた。
「セレナさん。あんた、疲れへんの」
「疲れます」
「そうは見えへんで」
「疲れていても、続けたいときは続きます」
セレナは手を動かしながら答えた。
「前は、疲れる前に終わっていました。何もしていなかったので」
ハロルドは、何か言おうとして、やめた。しばらくして、こう言った。
「あんた、屋敷のこと、あんまり話さんな」
「話すことがないので」
「そんなもんか」
「はい。二年間、何もありませんでしたから」
セレナは、削っていた金具を光にかざした。
「今のほうが、話すことがたくさんあります」
ハロルドは、床から天井を見上げていた。
「わしも、実は言うほど大した過去はないねん」
「そうなのですか」
「兄弟が九人おってな。家業の商売、継げるんは長男だけや。わしは五番目や。取り分もクソもない」
彼は笑った。
「ほな自分で稼ぐしかないやろ、思て出てきた。それだけや」
「立派だと思います」
「立派やない。他に道がなかっただけや」
「それでも、選んだのはご自分でしょう」
ハロルドは、少し黙った。
「……そやな」
工房の窓の外が、少しずつ白んでいた。
◇
変化に気づいたのは、ある日の夕方だった。
新しい注文票を確認していたセレナが、ふと顔を上げた。工房の隅で、ハロルドが職人たちと話している。次の仕入れの話らしい。
彼の声を聞きながら、セレナは思った。
この人がいなくなったら、困る。
そう思ってから、その次に来た考えに、自分で驚いた。
困るけれど、潰れはしない。
一年前なら違った。ハロルドがいなければ、セレナの魔道具は一つも売れなかった。今は違う。注文は自分の名前で来る。値付けの考え方も、彼から全部教わって、もう自分でできる。職人も育った。
彼がいなくても、この工房は回る。
その事実に気づいたとき、セレナは奇妙な感覚を覚えた。
寂しさではなかった。むしろ、静かな安心に近かった。
前世で、自分は夫がいなければ生きていけないと思っていた。だから離れられなかった。四十三年、それで終わった。
今は違う。ひとりでも生きていける。
そう思った上で、セレナは工房の隅にいる男を見た。
――それでも、この人と仕事がしたい。
それは、前世で一度も持ったことのない種類の気持ちだった。
◇
「セレナさん、どうかしたか」
視線に気づいたのか、ハロルドが振り返った。
「いえ」
「なんや、じっと見て」
「なんでもありません」
セレナは注文票に目を戻した。耳が熱かった。
ハロルドは、しばらくこちらを見ていたようだった。それから、職人との話に戻った。
その夜、帳面を締めながら、彼がぽつりと言った。
「セレナさん。あんた、この前、伯爵家の使者を追い返したやろ」
「追い返してはいません」
「そのときな、わし、思たんや」
ハロルドはペンを置いた。
「あんた、もうわし要らんな、と」
セレナは、顔を上げた。
「そんなことは」
「あるで。値付けも自分でできる。客の断り方も知っとる。職人も育っとる」
彼は、帳面を閉じた。
「わしが最初にあんたに教えたことは、もうだいたい教え終わった」
工房が静かになった。蝋燭の火が、二人の間で揺れている。
「ハロルドさん」
「うん」
「今、辞めるという話をしていますか」
「してへん」
彼は即答した。
「しとったら、こんな言い方せえへん」
「では、どういう話ですか」
ハロルドは、しばらく言葉を探しているようだった。
「……あんたが、わしを必要としてないのに、それでも一緒にやってくれとるんやったら」
彼は、そこで一度言葉を切った。
「それは、最初と意味が違うな、と思ただけや」
セレナは、彼の顔を見ていた。
この人は商売の話をするときは早口なのに、今は言葉が遅い。
「はい」
セレナは、うなずいた。
「意味は、違います」
「……そうか」
「はい」
それ以上、二人とも何も言わなかった。帳面を片づけて、蝋燭を一本だけ残して、二人で外に出た。
通りには街灯がついていた。三本に一本ではなかった。一本おきに、灯りがある。
去年の冬より、明らかに明るい。
「明るなったな」
「はい」
二人は、しばらくその通りを眺めていた。
「ほな、また明日」
「はい。また明日」
ハロルドが歩いていくのを、セレナは見送った。角を曲がるまで見ていた自分に気づいて、少し笑った。
扉を閉めて、二階へ上がる。窓を開けると、さっきの通りがまだ明るかった。




